東京里山農業日誌

東京郊外で仕事のかたわら稲作畑作などをしていましたが、2012年4月に故郷の山口県に拠点を移して同活動をしています。

京都市 幕末・明治維新に思いをはせる旅(8/8) 佐久間象山遭難碑

2015年10月23日 | 歴史探訪他ウォーキング

訪れた京都市内の幕末・明治維新に関わる史跡などです。それぞれをクリックしてください。
 1.寺田屋,伏見    2.三十三間堂,南禅寺  3.水路閣,吉田松陰詩碑
 4.池田屋,近江屋  5.壬生屯所跡,蛤御門  6.京都霊山護国神社
 7.霊山歴史館     8.佐久間象山遭難碑

 しばらく歩くと、祇園新橋に出ました。橋のたもとに人力車が停まっていました。そして、人力車を引く女性がいました。人力車はけっこう体力がいるので、これまで若い男性向きの仕事とばかり思っていました。体力に自信がある方なのでしょう。写真を撮られたり、話かけられていました。この付近は海外からの旅行客が多く、あちこちで写真を取っていました。

                京都で景観条例が一番厳しい祇園新橋


 少し行くと、江戸時代の風情が残った街並みが続いていました。景観条例が非常に厳しいらしく、人工物である電信柱や配電板はみんな黒色に塗られていました。江戸時代そのまま建物ですが、住んでいる方はどんな暮らしをしているのでしょうか。けっこう不便なようにも思えます。例えば、住民が使うであろう車の駐車場はどこにあるのでしょうか。

    木陰で少し休憩        ゆったと鴨川の流れ       京都先斗町界隈
  

 江戸情緒あふれる街並みを過ぎて、鴨川に出ました。橋を渡った後、狭い通路を歩きました。ここは、歌にある京都先斗町(きょうとぽんとちょう)です。こんな字を書くのですね。初めて知りました。とても狭い通路ですが、距離が長いのでいろいろなお店がありました。比較的飲食店が多いようでした。

    豊臣秀次の墓地        高瀬川沿いの喫茶店       有形文化財の幾松
  

 京都先斗町の北端近くに豊臣秀次のお墓がありました。豊臣秀次は豊臣秀吉に処罰されたのですが、秀頼の跡継ぎ問題を危惧した秀吉による謀略だとの説があります。豊臣秀吉は庶民に人気がありますが、豊臣政権の終わり頃、朝鮮に出兵したり、この豊臣秀次の処罰など、いったいどうしたのかと思うような晩年でした。秀次はよしとしても、その家族である子供や女性などほぼ全員が処罰対象になるなど異常です。この事件は、その後の豊臣政権を危うくした原因の一つだと思います。豊臣政権の終焉を暗示させる事件ではないでしょうか。

            並んで建つ佐久間象山と大村益次郎の遭難の碑


 次に高瀬川沿いに上流に向かいました。すると、川向かいに佐久間象山と大村益次郎の遭難の碑が並んでありました。佐久間象山は、幕末の志士達に絶大な影響を与えました。新しい日本を目指す当時の若者は、必ず象山の元を訪ねたようです。ですが、遭難に逢った後は、不当な扱いを受けます。当時の上層部は、象山の偉大さがむしろ脅威に思えたのでしょう。幕末は老害のきわみだったのかも知れません。

 有形文化財幾松への通路    各藩名を冠した料理       のんびり流れる高瀬川
  

 近くに有形文化財の料理旅館「幾松」がありました。予約していなかったので中には入りませんでした。桂小五郎の妻となった幾松と何か関係がある旅館なのでしょうか。文化財とのことですので、江戸時代から続く旅館なのでしょう。なお。料理名に長州御膳,薩摩御膳などに加え幾松御膳がありました。いったいどんな料理なのでしょう。
 これで今回の旅は終りです。京都駅に着くと靴やお土産を購入しました。そして、新幹線に載って我家に帰りました。京都の幕末・明治維新に思いをはせる旅行でしたが、家族とも楽しく散策することができました。また来てみたいと思いました。

                                  今回訪れた京都の町並みとコース

コメント
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