東京里山農業日誌

東京郊外で仕事のかたわら稲作畑作などをしていましたが、2012年4月に故郷の山口県に拠点を移して同活動をしています。

柳井市 懐かしの余田,田布施町 大波野などを散策

2012年06月19日 | 歴史探訪他ウォーキング

 今は梅雨のためまた台風が近づいているためか、朝から雨が降りそうな暗い曇り空でした。午前中雨が降っていましたが、午後少し天気が回復しました。このためジャガイモを掘って、知人が経営しているデイサービス施設に届けました。その帰りに、柳井市の西端にあり田布施との境界にある余田などに行ってみました。この余田は、私の父方祖父の生まれ故郷のため子供の頃によく行きました。

               柳井市役所余田出張所、隣りに租税完納塔が立つ


 最初、柳井市役所余田出張所に行ってみました。この建物は、大波野から新庄に行く途中の余田の左手に見える目立つ洋館です。当時としてハイカラな建物ではなかったかと思います。この建物の隣りに租税完納塔が立っています。この塔は江戸時代後期各地で年貢を納められず一揆が起きていた頃、この余田では年貢を完納したため領主から表彰されたことを記念する塔だとのことです。昔の余田は豊かだったのでしょう。

                   余田出張所近くにある名合八幡宮の入口


 次に、柳井市役所余田出張所隣りの余田小学校の裏手にある名合八幡宮に行ってみました。この余田の生田家に父方祖父が生まれため、子供の頃父方祖母(F)に連れられてこの神社によくお参りしたりやお祭りによく行きました。今でもこの余田には生田家が何軒かあります。この神社内を散策しながら碑文を見ていると、思いがけない物を見つけました。

      余田の名合八幡宮               父方曾祖母姉妹の名前
 

 私の父方曾祖母(磯中イシ)の姉妹の名前(磯中タカ)が、この神社の石(明治40年)に刻まれていたのです。戸籍上私の父方曾祖母は安政29年(1858)生れですので、この神社の碑文は曾祖母が65歳の時に彫られたことになります。この曾祖母が子供の頃、幕末の動乱期だったようです。幕末はすでに歴史となっていますが、この碑文や父方祖母などから聞いた話を思い出すと幕末を身近に感じます。なお、私の父方祖父は、子供の頃に柳井市内で日露戦争戦勝記念のパレードを見たと言っていました。

                   余田にある臥龍梅(がりゅうばい)


 名合八幡宮を散策後、臥龍梅(がりゅうばい)に行ってみました。ここは室町時代に梅園だった所だそうです。梅の樹形が龍が這っている姿に似ているため、このような名前が付けられたようです。国の指定記念物です。次に、のどかな田園風景を通り過ぎて、私が農機具の部品をよく注文する山口クボタ田布施営業所脇を通って田布施町大波野に行ってみました。

 JA南すおう柳井から大波野を見て          山口クボタ田布施営業所
 

 この大波野にある東田布施小学校裏山にある八幡宮に行ってみました。これまで、二三度しか行ったことがありませんが、境内に大砲の弾が置かれているのが印象的です。年代的に考えると、日露戦争に従軍した方が無事に帰還したことを祝ってこの神社に奉納したのではないかと思います。

                東田布施小学校裏山にある八幡宮


 この神社は普通のたたずまいです。しかし私が一番興味をそそるのは、古代この地域が海だった頃に一番狭かった海峡がここだと思うからです。大和政権時代この地域は海で、朝鮮半島への重要な中継地点ではなかったかと思います。1つの根拠としてこの神社の北側にある岩城山に古代朝鮮式山城があります。また、周辺にはたくさんの古墳があります。

       二個の砲弾が奉納         東田布施小学校そばの八幡宮の鳥居
 

 遠く古代に思いをはせると、この神社の階段の向かい側数百メートル先に小さな山があります。この山と神社の間が古代には数百メートルの海峡だったのではないでしょうか。朝鮮半島と行き来する古代船がこの狭い海峡を通ったのではないかと思います。真意は別として、この神社の鳥居付近に立っている石塔に「神功」とか「三韓・・・・朝貢」などの記述が見えます。三韓とは古代朝鮮国家である高句麗,新羅,百済のことです。

              向こう側の小山が、古代の対岸では?


             古代田布施の海岸線、丸がこの神社とその対岸


 小学時代の同級生の祖父が郷土史家でしたが、その方の資料に「田布施の名前の由来は、田布と瀬」と書いてありました。田布は農作業用の衣服だとかで、瀬は川の流れや潮流の意味があるそうです。大波野の名前自体も海から来たものだと思います。ところで、八幡宮近くに東田布施小学校があります。何十年ぶりにこの小学校に行ってみました。すると、私が覚えている木造校舎は跡形も無くなっていました。確か、平屋の木造校舎が二棟があり、その間には庭,池,そして赤いとんがり帽子?の図書館があったように思います。そして、山側に長い階段を上る木造の宿舎か何かの建物があったように思います。

    線路付近から八幡宮を振り返って       鉄筋の東田布施小学校
 

 東田布施小学校を見終わると、今度は田布施町天神にある菅原神社に行ってみました。この神社は菅原道真を祭っています。昔、この地に田布施町役場があり、呉服屋さん,電気屋さん,仏具屋さん,金物屋さん,パン屋さんなどが軒を並べてとても賑やかでした。役場の移転時に、この地区の方々の反対運動があったことを覚えています。結局役場は今の場所に移転してしまいました。それ以降、役場移転だけが原因ではないでしょうが、この地区は寂れてしまったように思います。ところで、私が子供の頃この菅原神社はとても賑やかで、今でも覚えているのは牛車です。さながら平安時代のような牛が引く車です。大きな黒牛が引き、とても大きな木の車輪が印象的でした。

                田布施町天神にある菅原神社


 この神社を散策していると、花壇を掃除している方がいました。その方にいろいろ聞いてみました。すると、お祭りは毎年5月にあり境内には神輿があるそうです。しかし、牛車はもう無いとのことです。そもそも牛がいないのでは仕方がないのでしょう。テレビで見たことがありますが、どこかの地域では牛の代わりにトラクタが引いています。なお、境内に百度石の碑文がありました。昔、お祈りしながら境内を百回往復したそうな。
 私が神社などに興味を持つようになったきっかけは、高校生の頃に日本史の先生に江戸時代の上関の豪商の名前を聞いたことでした。そして、まさにその豪商の名前が、私の住む地区の祇園牛頭天王社(通称てんのうさま)の鳥居に刻まれていたからです。てんのうさまの祭りは今でも行っています。

       菅原神社の境内                 百度石の碑文
 

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