東京里山農業日誌

東京郊外で仕事のかたわら稲作畑作などをしていましたが、2012年4月に故郷の山口県に拠点を移して同活動をしています。

古代山城と神籠石めぐり

2010年01月18日 | ふるさと
 田舎に帰った4日目の18日、岩城山に登ってみました。この山は子供の頃から遠足やハイキングなどでよく登りました。標高300m足らずの普通の山です。しかし、この山は、山頂を取り囲むように神籠石(こうごいし)と呼ばれる古代の城壁の跡が残っています。日本がまだ倭と呼ばれていた時代に建設されたらしい歴史にもまったく知られていない古代山城です。

    山頂から柳井方面を見て      山頂から田布施町を見て
 

 登るルートにはいくつかありますが、私が子供の頃から一番多く使った田布施の宿井からのルートを使いました。舗装されて車でも登れます。しかし、昔に比べて展望がよくありません。特に竹が茂っていました。山頂に着くと案内図を見ました。

               山頂を囲む古代城壁を示す案内図
 

 最初に行った城壁は南水門です。子供の頃には立派な水門が存在していましたが、土砂ですっかり埋まってしまいました。建設されてから千数百年以上も経っているため崩れていくのは仕方がないのかも知れません。ちゃんと保存活動をしないと数十年後にはすっかり埋まって城壁の跡さえ分からなくなると思います。

             土砂ですっかり埋まってしまった南水門


 続いて、戊辰戦争の頃に活躍した騎兵隊の駐屯地跡を抜けて山の西側に向かいました。そして、城壁に沿うハイキングコースを歩きました。この城壁は歴史上全く知られておらず、九州のある地域の同じような古代城壁を神籠石と呼んでいたのをそのまま使って神籠石と呼ぶようになったそうです。あまりに古い建築物のため、昔の人が神と結びつけたのでしょう。

     山頂西側の城壁跡         山頂から光市方面を見て
 

 この山頂は光市(以前は大和村)に含まれているようです。二年前に神籠石サミットが行われたとの碑が立っていました。昔も今も古代のロマンを探す人達がいるのですね。

             三段構造の城壁の跡、西水門
 

 この山頂から見下ろす田布施方面は、古代には海が広がっており朝鮮半島と大和を結ぶ海の要所だったようです。古墳もたくさん残っています。女性が葬られた古墳が有名です。万葉集にも歌われていて古代には重要な地域だったのでしょう。

                  北水門がある城壁跡
 

 南、西、北、東とそれぞれ水門と呼ばれる立派な石組みが見られます。しかし、それは現代人がそう呼んでいるだけで、何の目的でこのような構造になっているのかは知られていません。この古代山城自体が十分に目的を達成しないうちに廃されてしまったからでしょう。

                 立派な石組みの北水門


 この古代山城が作られたのは、古代朝鮮で高句麗,新羅,百済との間で抗争が繰り返されていた時代のようです。私の歴史感では、特に白村江の戦いで倭が敗れた直後が可能性として高いと思われます。九州地域に防衛としての山城がたくさん築かれたようですので。当時は唐から攻められる可能性があったのでしょうから。

  長辺約1.5mの長方形の石      北水門から延々と続く石積み
  

 城壁の石積みの方法や東西南北に水門があるなど、城壁の作り方が古代朝鮮との共通性があるとのことです。そもそも古代においてはまだ、国家と呼ばれるような概念がなく朝鮮と自由な交流があったようです。朝鮮から移り住むことさえ、今の概念では移民ですが当時は単に移住だったのでしょう。今で、九州から北海道に移り住むような感覚ではなかったかと思います。

             埋まってしまった城壁の上にある北門の跡


 今からでは想像するしかありませんが、延々と続く石積みの上には版築と呼ばれる土木方法で土で積み上げられていたそうです。中国の万里の長城も同じ方法で作られているとのことで、古代中国の工法が朝鮮を経て伝わったのでしょう。どんな人が作ったのかと思います。当時の支配階級の人たちは文字も使えたでしょうから、この古代山城のどこかに文字を残してくれたら今の私達に役立ったのにと思います。

 北門から延々と続く石積み        きれいに並んだ白い石積み
  

 北門をさらに進むと、東水門とそれを囲む城壁跡に着きます。この古代山城跡では一番大規模な城壁跡です。古代人達がどんな思いで作ったのかと思います。付近にたくさんある岩から城壁に使う石を選び,運び,積み上げる。たいした道具もない時代に大変な苦労があったはずです。

    精密に積み上げられた石       城壁中心直下に東水門の穴
  

 子供の頃、今では土砂で埋まってしまった南水門の中に入ったことがあります。暗く2,3m入っただけで怖くなり引き返しました。南水門が一番大きかったように思いますが、埋まってしまった今では確かめようがありません。東水門はやや小ぶりの水門です。水門と言いながら水は出ていません。城壁はだいたい谷に作られているので、単に水抜き穴だったのかも知れません。

              水が流れていない東水門、大きな石で構築


 東水門を抜けるとぱったりと石積みが無くなります。本当に無いのか、埋まったままになって発見されていないのかよく分かりません。案内図では東門があるようですが、まだ発掘されていないのでしょう。文献が全く無いので、この古代山城が何のために作られたのか、どんな人が作ったのか今では全くの謎です。建築途中で廃棄になったのかも知れません。当時この地域の人たちには相当の負担だったことでしょう。
 朝鮮半島が新羅によって統一されると、それまでのように朝鮮半島との自由な交流が途絶えます。以降、朝鮮半島と交流が深かった九州やこの地域を含む中国地方もだんだんと大和の中央集権に取り込まれてしまい地盤沈下していったのではないかと私的に思っています。

               唯一、舗装道路と交差する石積み
コメント
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