阿弥陀寺を出ると、石階段を下って海沿いに歩き右に回り込む小道に入りました。そして、坂を登ると広場が見えてきます。この広場は、かつてあった熊毛南高校の上関分校跡地です。広場前にそれを示す石碑が建っています。
私はその高校の本校に通っていたのですが、上関町から通学する同級生がいました。上関町から、遠く本校に通う生徒と地元の同上関分校に通う生徒がいました。
上関大橋から、真下の白い航跡を見下ろす
熊毛南高校の跡地を見渡した後、広場の奥に建っている旧番所跡に行きました。この番所は江戸時代上関宰判の番所跡です。江戸時代初めは上関の四代に置かれていましたが、上関に移り、その後麻郷の米出に移りました。御茶屋などを含めて朝鮮通信使の接待場所としても使われたのではないでしょうか。
熊毛南高校上関分校跡 旧上関番所跡 海峡傍の住吉神社
上関宰判の番所跡を出ると、下見時には上関物産センターに寄りました。しかし、日曜日は閉まっています。そのため、物産センターを通りすぎて海峡が見渡せる住吉神社に向かいました。住吉神社から上関大橋や海峡を通る船が良く見えます。住吉神社の奥には竜宮社の祠と鳥居があります。海峡の真向かいには上関海峡温泉「鳩子の湯」が見えます。
時々海を見下ろしつつ上関大橋を渡る 室積側の砲台跡東屋
竜宮社を見学すると、上関大橋を渡って室積側に渡りました。渡った直後、砲台跡に建つ東屋に行って休憩しました。今から150年位前の幕末、ここからは幕府側の軍艦が見えたそうです。しかし、砲撃されることはなかったようです。東屋で少し休憩後道の駅に戻りました。参加された方々、お疲れ様でした。
上関町長島の史跡巡りをしたコース
龍口大明神のお社を降りると、新しい道路に出ました。新しいと言うよりも作り替えられた道に出ました。数年前まで、神様が祀られた大岩が鎮座していました。その大岩があるため狭い道路でした。この車社会では狭い道路は通り抜けにくいのです。そのため大岩を壊して道を広くしたようです。すぐ近くに灯篭が一基残されているのがせめてもの救いです。
武内ギャラリー内で展示物の説明を受ける
大岩跡をしみじみと見た後、菅原神社に行きました。この神社の説明書きを読むと、かつては城山公園に建っていたそうです。しかし、公園がある山まで参拝することが困難とのことで、1750年に今の場所に移設されたとのこと。最近のことではなく、そんな昔に参拝困難で移設されたのですね。菅原神社を出ると、超専寺に行きました。日曜日でしたので、寺内の保育園には子供達はおらず静かでした。なお、超専寺を訪れていた頃、山の上の方から鐘が鳴り響きました。遍照寺で護摩焚きが始まるお知らせです。
上関長島の菅原神社 超専寺内保育園 上関町の新庁舎
続いて武内ギャラリーに行きました。何度も訪ねて初めて館内に入ることができました。元医院で使った物や古い写真などを展示しています。医院のルーツは、明治初期に上関で種痘を始めた一人の医者とのことでした。その子孫の一人がギャラリーを管理しているとのこと。その方に館内を案内したり解説をしたりしていただきました。ありがとうございました。
上関町の古い町並み 阿弥陀寺の本堂と遊具
武内ギャラリーを出ると、上関町の古い町並みを見ながら新しい庁舎前まで行きました。古い庁舎は何処だったか思い出しながら新庁舎を見上げました。次に、やはり保育園がある阿弥陀寺に向かいました。超専寺と同様、日曜日のため園児は一人もおらずとても静かな阿弥陀寺でした。続いて、旧上関番所跡に向かいました。
上関町長島の史跡巡りをしたコース
竈八幡宮の木漏れ日の中でのんびりと休憩後、遍照寺に向かいました。いったん大きな道路に出て数十m歩いた後、軽自動車がやっと通ることができる幅のゆっくりとした下り坂に入りました。しばらく下っていると、室津側が良く見える見晴らしの良い丘に出ました。ここからは、上関大橋,常満寺の大イチョウ,そして道の駅などが小さく見えました。そして、視線を上にあげると皇座山が広く見えました。
願いを書いた板片を護摩焚きしていただいた遍照寺
しばらく景色を楽しみながら丘を下りました。しばらく下ると赤い幟が立っていました。遍照寺に到着しました。本堂に入りご住職に会い、護摩焚きする願いを書きました。私は月並みに「健康成就」と墨書きしました。まだたくさん訪れる史跡があるため護摩焚きする時間を待てません。そのため、護摩焚きをご住職にお願いをして遍照寺を出ました。
上関大橋や室津側を展望 遍照寺と赤い幟 遍照寺からの登り道
遍照寺を出ると狭く急坂の道を登りました。この道沿いに住んでいる方は、どこに駐車場があるのでしょうか。買物時、家から駐車場までの歩きは楽ではないと思います。毎日の生活、ご苦労様です。上関小学校を左手に見ながらしばらく歩くと城山公園に着きました。
城山公園から佐賀方面を見て 龍口大明神のお社
城山公園は静かで誰もいませんでした。広い公園を一人で貸し切った気分でした。眼下に海が見え、遠くを見ると平生町の箕山が見えました。そのはるか向こうに、かすんだ田布施町の石城山が見えました。少しの間、景色を堪能しながら城山公園で立ったまま休憩しました。続いて、城山公園を降りました。急坂を下りきると龍口大明神のお社がありました。ちなみに、この大明神の下には巨大な岩が鎮座していました。しかし、数年前に道路の拡張工事のため破壊されました。昔を知っている私としては残念です。
上関町長島の史跡巡りをしたコース
山の上にある六人塚傍にはかつて測候所があったようです。その建物の中には、壊れた気象測定器が複数捨てられたように置かれていました。すぐ下に、熊毛南高校の分校があったことから、学校のクラブ活動で計測をしていたのかも知れません。
六人塚隣には東屋があったため座って休憩しました。木々が茂っているため景色はそれほどでもありません。しかし、休んでいると心地良い風が通り過ぎていきました。
雨をしのぐ屋根など、大切にされている七人地蔵尊
六人塚が建っている山から下りると、沖ノ浜に向かいました。途中、たくさんのお地蔵様に出会いました。その昔、今のような車道に改修される前の古道に並んで安置されていたようです。一体だけ古道と思われる狭い通りに横向きに安置されていました。しばらく歩くと、眺めが良い場所に出ました。この後ろの小高い場所にレストラン瀬里家があります。オープンの11:00まで時間があるため、車は一台も駐車していませんでした。
道にならんだお地蔵様 レストラン瀬里家 沖ノ浜の砂浜
瀬里家からは沖ノ浜に向かって、だんだん下り坂になります。しばらく道を下ると綺麗な砂浜が見えてきました。その砂浜に降りていきました。しかし、満潮だったため狭い砂浜でした。小石を掴んで海に投げて遊んだ後、沖ノ浜から民家の間を抜ける急坂を登りました。
狭い急坂脇に安置されたお地蔵様 お昼休憩をした竈八幡宮
その急坂を乗り越して降りた場所に、七人地蔵尊が安置されていました。このお地蔵様は地域の方から大切にされているようです。雨が当たらないように立派な屋根瓦です。そして、すべてのお地蔵様にべべが着せてあり、花が活けてありました。
その後、さらに急坂を登りきると竈八幡宮に降りていきました。下見時と同様に早めの昼食休憩を取りました。木漏れ日の中で、心地よい風に吹かれながらしばらく休憩をとりました。
上関町長島の史跡巡りをしたコース
上関町長島の史跡巡りウォーキングに行ってきました。下見は4人でしたが、珍しいことに本番は3人の少人数参加でした。思い起こせば、この史跡巡りウォーキングのクラブを立ち上げた時、私一人が下見をしていました。下見の結果、決めたルートを本番で歩きました。
このクラブの最初のウォーキングは田布施川源流ウォーキング(8回シリーズの第1回目)でした。下見は一人で、本番は五人で行きました。そして、二番目のウォーキングは柳井市の三ヶ岳でした。下見は二人で、本番は三人で登りました。
上関町長島に建つ村上水軍に関わる六人塚
さて、上関町の「道の駅」を10:00に出発しました。その「道の駅」から四階楼が見えました。天気が良く、青い空に白壁が映えていました。四階楼傍を通って、常満寺の大イチョウの樹傍を取りました。少し急坂を登ると、鳩子の湯を見下ろす道路に出ました。さらに歩いて吉田松陰碑に行きました。吉田松陰は江戸に出る時に上関を通ったようで、上関の砲台場を見学したとのこと。
上関町「道の駅」 青空に映える四階楼 常満寺の大イチョウ
吉田松陰碑の漢文、読み下し文、現代文を読みました。現代は東京まで半日あれば行くことができます。幕末時、いったい何日歩けば行くことができるのでしょう。続いて、下に海を見ながら上関大橋を渡りました。高度があるため下を見下ろすと怖くなります。
上関大橋袂の吉田松陰碑 長島側の砲台跡
上関大橋を渡ると道を横切りました。そして、長島側の砲台跡に向かいました。幕末時期に砲台が備え付けられたとのことですが、砲が無いので実感がわきません。この砲台跡から幕府軍の軍艦が見えたそうですが、砲撃は無かったそうです。当時は緊迫していたのでしょう。
上関町長島の史跡巡りをしたコース
遍照寺に付くと、門徒の方でしょうか何やら忙しそうにお掃除中でした。お聞きすると次の日にお祭りが行われるとのことでした。そして、史跡巡りウォーキングの本番日は護摩焚きをしているとのことでした。
当日遍照寺に着いた時、護摩焚きを見学させていただこうと思います。可能であれば木札に健康成就と書いて焚いていただこうかと思っています。5年前に周南市の三光寺の祈願受付で息子と姪の結婚成就をお願いしたことがあります。効いたのかその願いが叶っています。
村上水軍の城跡だった上関城山歴史公園
遍照寺を出ると、細い登り道をくねくね歩いて上関城山歴史公園に行きました。この公園には河津桜がたくさん植えてあります。そのため、他の地域より早く桜祭り(城山桜まつり)が行われます。上関城山歴史公園では海を眺め中ながら小休止しました。続いて龍口大明神に向かって道を下りました。そして、村上氏が奉納した灯篭がある菅原神社に行きました。
龍口大明神のお社 村上氏灯篭の菅原神社 超専寺の急階段
次に、古い街道から階段上の超専寺に向かいました。幼稚園併設のお寺で、幼児達の賑やかな声が聞こえました。階段を降りて次に武内ギャラリーに行きましたが門が閉っていました。続いて、新しい上関町役場の建物を見た後に左右の古い町並みを見つつ阿弥陀寺に向かいました。
急階段の阿弥陀寺 旧上関番所 龍宮社の鳥居とお社
阿弥陀寺には保育園が併設されており、園児達の賑やかな声が聞こえてきました。次に旧上関番所,物産センター.そして龍宮社に行きました。最後に上関大橋の真下の岩場に降りました。干潮でしたので、ワカメなどの海藻がびっしり岩に付いていました。
ところで、その岩場でうっかり滑って転んでしまい手のひらを怪我してしまいました。軍手を持ってきていたのにはめていませんでした。先日も夜中に電気を付けようとしてつまずいて手をついて指を怪我しました。油断大敵です。下見ウォーキングに参加された方々、お疲れ様でした。
上関町長島の史跡巡りウォーキング下見コース
先日、自作したほぼろ版リュックサックを背負ってウォーキングしてみました。背負い具合は良好でしたが、ただ一つだけ不満がありました。それは、肩に背負った縄紐がこすれてわら屑が出ることです。わら屑が肩に付いたり背に付いたりして服が汚れるのです。
これを対策するため、背負い紐に布カバーを取り付ける改良を施すことにしました。ついでに、リュックに入れる袋を見直してリバーシブルでおしゃれ?な内袋を作りました。
背負うための肩紐に布カバーを取り付け
背負い紐用布カバーはただの細長い筒ですので、製作はそう難しくありません。柳井市にある洋裁材料店に行って布を購入しました。ついでに、リバーシブルにする内袋用の布も購入しました。家に帰ると、早速布カバーを制作しました。愛用の手回しミシンをトコトコ動かしました。
細長く布を切り出す 紐の入れ口を縫う 筒になるように縫う
筒状にした背負い紐カバー二つ縫い終わると裏返しました。そして、縄製の背負い紐に通しました。サイズがぴったり過ぎたので、なかなか縄が通りません。そのため、時間をかけてゆっくりと通しました。もう少しゆとりをもたせた方が通りやすかったと思います。
通し終わった後、手に持ったり背負ったりしてみました。まあまあの出来でした。わら屑が出ることはもうありません。続いてリバーシブルな内袋を製作することにしました。
完成した紐カバーを裏返す 背負い紐に布カバーをゆっくり通す
沖ノ浜には、海に向かって祠が安置されています。この海岸では一年に一度冬に神明祭が行われます。数年前にそのお祭りに行くチャンスがあったのですが逃してしまいました。上関の神明祭は、阿月のように東西の御神明体ではないようです。このお祭りは、400年ほど前に浦家が伝えたそうです。いつか上関の神明祭を見学したいと思っています。ちなみに、阿月の神明祭は国の重要無形民俗文化材に指定されています。
沖ノ浜から七地蔵尊に向かう道すがら
沖ノ浜の砂浜でシーグラスを採取すると、七地蔵尊へ向かう道を歩きました。途中、道の脇にお地蔵様を見つけました。ここで、近くの小山にあるお堂に気が付きました。そのため、いったん道を戻ってそのお堂に向かいました。
ところが、そのお堂は使われていないらしく道にバリケードが設置されていました。たまたまおられた地元の方にお願いして、お堂に向かう道のバリケードを開けていただきました。
沖ノ浜の白砂海岸 藪に閉ざされたお堂 七地蔵尊を拝む
バリケードからの狭い道は草木が生い茂り、とても歩くことができません。私一人が、体を押し付けるようにしてお堂に向かいました。すると、半ば倒壊寸前のお堂がありました。扉を開くとお地蔵様が安置されていました。何年も使われていないお堂のようでした。
遍照寺前のお地蔵様 遍照寺付近から室津を望む
半ば廃墟と化したお堂を出ると、七地蔵尊まで歩きました。続いて、竈戸神社に向かいました。竈戸神社に着いた頃、ちょうどお昼になりました。そのため昼食休憩を取りました。その後、遍照寺に向かいました。途中の道に地蔵様が何体か安置されていました。この道からの海の眺めは目にしみます。疲れが癒される眺めでした。
上関町長島の史跡巡りウォーキング下見コース
毎年5月の史跡巡りウォーキングは島を訪れています。去年は宮島の史跡を巡りました。今年は上関町の長島の史跡を訪れます。長島は昭和40年代前半まで離島だったため、当時は渡船で本土と行き来していました。しかし今、上関大橋で本土と繋がっているため離島のイメージはありません。
※長島の対岸である室津は4年前に史跡巡りをしました。
上関大橋を歩いて長島に渡り、沖ノ浜の砂浜に出る
私が高校生の頃、我家と上関町の灯台を往復したことがあります。まだ、上関大橋がなく、田布施の麻郷と平生町の水場を結ぶ南周防大橋も無い頃です。我家がある田布施町麻郷からいったん平生町に向かい、水場、佐賀と歩いて上関町の灯台まで行きました。高校生の制服で歩き続けました。帰りも同じルートです。朝7時頃出発して午後6時頃に家に帰り着きました。約40kmの歩程でした。およそ、田布施から岩国まで歩いた距離になります。
上関大橋長島側の砲台跡 沖ノ浜方面に向かう 山の上に六人塚
集合したのは上関町の道の駅です。10:00に歩き始めました。室津の四階楼,常満寺,そして吉田松陰碑を通りました。そして、上関大橋を渡りました。渡りながら下を見ると足がすくみます。橋の下を通る船を、真上から覗き込むことができます。高所恐怖症の方には怖い歩きです。
沖ノ浜までの途中にあるお地蔵様 眩しいばかりの白砂の美浜
上関大橋を渡り終えると、砲台跡に寄りました。幕末時に砲台が設置され、吉田松陰が立ち寄ったそうです。砲台跡を見学すると、山に安置された六人塚に行きました。戦国時代の村上水軍に関わる史跡です。続いて、お地蔵様群を見ながらレストラン瀬里香前に着きました。そして、沖ノ浜の砂浜に降りました。眩しいほどの綺麗な白砂の海岸でした。
上関町長島の史跡巡りウォーキング下見コース
元正寺を出ると、溜池近くの道を右手に行きました。数十m歩くと林の影の脇からマオランの葉が見えました。マオランについてよくは分からないのですが、日陰には弱いようです。マオランの別名である園芸種のサイランを以前育てたことがあります。隣に柿の苗を植えたところ、柿が育つにつれてサイランは枯れてしまいました。林の陰から葉が見えたマオランもそのうち枯れてしまうのではないかと思います。
内入の街並みを歩いていると、立派な鯉のぼりが立っていました。私が子供の頃、そのような鯉のぼりをたくさん目にしたものです。今は鯉のぼりを立てる敷地がない家ばかりです。鯉のぼりを見なくなったのも仕方ありません。2月の郷土館に飾った雛人形もそうですが、鯉のぼりが消えていくのかと思うと少し残念です。
外入地区のマオランの大株、快く分けていただく
内入を出ると、小積を経て外入に向かう予定でしたが時間が足りません。そのため、道を短縮して外入に向かいました。寺社仏閣をゆっくり見る時間があまりなくマオランをいただくだけとしました。
野良仕事をしておられた地元の方に声をかけました。そして、マオランを頂くことを快く了解していただきました。作業小屋の猫ちゃんを撫でた後、マオランの大株をクワで掘りました。ありがとうございました。
内入地区を見下ろす 木陰のマオラン 内入地区の鯉のぼり
来年の史跡巡りウォーキング候補の一つとして周防大島に行ってきました。場所は内入と外入です。最初、内入に行きました。内入の史跡を訪れた理由は、戦国時代に野島村上水軍の棟梁であった村上武吉の墓所があるためです。内入地区を見下ろす小高い丘の上にある元正寺に墓所があります。なお、この5月に訪れる上関長島の菅原神社に、村上氏が奉納した灯篭があります。
周防大島内入元正寺の村上武吉の墓所
地元の方に聞くと、元正寺にはご住職がおられず、以前は和佐、さらにその後、安下庄近くのご住職がお世話をしているそうです。ご住職はおられないものの元正寺は綺麗に管理されていました。地元の方々が大切にしていることが分かります。
村上武吉墓所の案内図 元正寺近くの内入公民館 元正寺近くに生えるマオラン
内入公民館近くの駐車場に車を止めて、のんびりと元正寺に向かいました。途中、昭和50年頃までマオランでロープを製造していたと思われる工場跡を見ました。近所の方に聞くと、従業員が5人位だったそうで、繊維分を取り出して乾燥させていた光景を覚えているとのこと。
昔たくさん栽培されていたマオラン 大島八十八箇所霊場七十四番札所
なお、Iさんとマオランについても調査しました。地元の方々によると、当時たくさんのマオランが畑一面に栽培されていたとのこと。そして、内入のマオラン工場でロープに加工されていたそうです。しかし、安い中国産のロープやビニール製のロープの出現によって昭和50年頃に廃業したそうです。
村上武吉の墓所がある内入地区の史跡調査コース
昼食休憩が終わると、次の史跡に向かって歩きはじめました。しかし、午後から雨になるとの天気予報でした。そのため、午後からは訪れる史跡を絞ることにしました。下見では善流寺に向かいましたが、善流寺,上岩田自治会館,溝呂位公園などをスキップして近政大師堂に向かいました。その決断でギリギリ雨が降る直前にJR岩田駅に戻ることができました。雨に濡れなくて良かった!
近政大師堂に向かって八幡団地内をウォーキング
ところで、昼食休憩をしてから気になることが頭をもたげてきました。それは、下見時に見た子山羊です。下見参加者の一人が、紐にからまる子山羊達の惨状を飼い主に連絡しました。そのため、からくも子山羊達は助かりました。しかし、三頭いた子山羊の一頭が立ち上がれなかったことです。
元気だった子山羊達 西八幡自治会館 西八幡児童公園
最初歩いても歩いても子山羊達に出会えませんでした。ところが、西八幡自治会館横の斜面に動いている小さな生き物が遠目に見えました。目をこらすと、探していた子山羊達と母山羊でした。子山羊達三頭全て元気に草を食んでいました。山羊達皆が元気で安心しました。
防陽霊場七十八番近政大師堂 近政大師堂近くの地蔵様
子山羊達の元気な姿を確認すると、県道を渡り近政大師堂に向かって坂道をどんどん下りました。防陽八十八箇所霊場第七十八番札所でした。その昔は、この大師堂を訪れる巡礼者が絶えなかったのではなかったかと思います。また、巡礼者の方々に地元の方々はお接待を差し上げていた事と思います。
近政大師堂を出るとすぐ近くに安置されたお地蔵様を最後とし、雲行きが怪しい空を見上げながらJR岩田駅に急ぎました。急いだおかげか、雨が降り出した頃に無事JR岩田駅に着きました。今回の史跡巡りウォーキング参加された方々、お疲れ様でした。次回は、上関町の長島の史跡を訪れます。
光市岩田~三輪周辺の神社仏閣等史跡巡りウォーキングのコース
毘沙門堂と講神社を出ると、いったん県道に出ました。そして、山陽本線をを越えて、やまと台団地を回り込むようにして歩きました。左手にJA南すおう大和,三輪小学校,大和保育園を見ながら千福稲荷社がある丘に向かいました。三輪第三老人憩の家近くから丘に登りました。
栗林の木陰の下で、のんびりと昼食休憩
丘への登り口に鉄骨でできた赤い鳥居がありました。帽子を取って一礼してから丘に登りました。丘全体が神域ではないかと思います。丘の頂上には人丸社の祠がありました。その祠を見ていると、山口県内の人丸社全てを訪れていると言う方と出会いました。このウォーキングクラブで4年前に訪れた光市島田の人丸社について、その方と話が盛り上がりました。
三輪小学校を左手に見て 三輪第三老人憩の家 千福稲荷社の鳥居
丘の上には人丸社,千福稲荷社,そして荒神社があります。その昔から丘全体が地域の方々に神様の領域として敬われていたと思います。丘で立ったまま休憩すると丘全体を回り込む山道を歩いて丘を降りました。続いて大師堂に向かいました。
丘の上の荒神社の鳥居と祠 お大師講中だった大師堂
大師堂に着くと扉が開いていました。中を覗くと、地域の方々がお大師講の最中でした。邪魔をしてはいけないので、覗くだけで退散しました。この地域ではまだお大師講が守られているようです。大師堂を後にすると、道脇の栗林にはいり昼食休憩を取ることにしました。栗の若葉の木漏れ日の下、腰をかけて30分程度休憩しました。
光市岩田~三輪周辺の神社仏閣等史跡巡りウォーキングのコース
親鸞聖人像からいったん石亀大師堂に戻りました。そして、さらに道を戻ってから山道に入りました。山道にはあちこちにタケノコが生えていました。まだ、1m以内の高さしか伸びていないため早急に倒せば道の邪魔にならないと思います。所々に生えるタケノコを横目に見ながらどんどん山道を下りました。少しばかりすると、下に浄国寺本堂の大屋根が見えてきました。
毘沙門堂や講神社を見た後、木漏れ日道をのんびり歩く
浄国寺の方に本堂の仏様を拝ませていただくことを、下見時にご了解いただいていました。しかし、浄国寺に到着時に運悪く法事と重なってしまいました。そのため、本堂で仏様を拝むことができませんでした。機会があれば再訪できたらと思います。
浄国寺の鐘撞堂横に建てられた、郷校縮住舎跡について私の方から皆さんに解説しました。この郷校は幕末時の大島口の戦いをした第二奇兵隊と関りがあります。この郷校に通っていた方々は、戊辰戦争で日本各地を転戦したのではないしょうか。
浄国寺の本堂屋根 浄国寺の鐘撞堂 林に囲まれた毘沙門堂
浄国寺を出ると、急にカエルの声が大きく聞こえました。昨日の雨で池の水が増してカエル達が元気になったのでしょう。私はカエルの合唱を聞くと、なんとなしに心が落ち着きます。しかし、最近の子供には騒音なのだそうです。自然の声に耳を傾ける余裕がないのでしょう。残念なことです。
毘沙門堂前のお地蔵様達 講神社の鳥居と祠
浄国寺を出ると、田布施~岩田間を結ぶ県道を横切りました。そして、林の中に鎮座する毘沙門堂に向かいました。田布施町の三宅地区にも毘沙門堂があり、夏には小さいながら火祭りが行わています。
今回訪れた岩田の毘沙門堂前にはお地蔵様がたくさん安置されており綺麗に管理されていました。そのため、今でもお接待が行われているのではないかと思います。さて、毘沙門堂の近くにある講神社の鳥居と祠を訪れると、木陰の山道をのんびり歩きました。
光市岩田~三輪周辺の神社仏閣等史跡巡りウォーキングのコース
光市の岩田~三輪の神社仏閣を中心とした史跡巡りウォーキングに行ってきました。午後から雨との天気予報だったため下見時と比べて工程を省略しました。このおかげで雨が降る直前にウォーキングを終わることができました。
ところで、今回の史跡巡りウォーキングでは、私が作っわら細工リュックを背負ってみました。使い勝手などを確認するためです。私のわら細工リュックを見た人は何?と思ったかも知れません。4時間程度の歩きでしたが何の問題もなく背負えたリュックでした。まずは合格のわら細工リュックでした。
スタートしたJR岩田駅で背負った わら細工リュックサック
JR岩田駅を10:00前に出発すると、大和病院の南側に向けて歩き始めました。最初に、石垣上のミニ公園に鎮座する荒神社の祠に向かいました。あまり使われていない公園なのか、落葉が厚く堆積していました。雑草も下見時よりも生えていました。続いて、すぐ近くにある三輪福祉会館に向かいました。
スタートしたJR岩田駅 荒神社の祠と鳥居 公園隅のお地蔵様
三輪福祉会館に着くと、隣の公園に入りました。この公園はブランコや動物の置物が置かれていました。この公園は雑草があまり生えていないため子供達がよく利用するようです。この公園の東隅にお地蔵様が安置されています。お世話する方が絶えないのか綺麗に管理されていました。地域に大切にされているお地蔵様を見るとほっとします。
防陽八十八箇所霊場の石亀大師堂 大師堂裏墓地の親鸞聖人像
お地蔵様を見終わると、防陽八十八箇所霊場八十一番札所の石亀大師堂に着きました。この大師堂は平成初期に再建したとのことで新しい建物でした。八十八体もの小さなお地蔵様が並んで安置されていました。1/3ものお地蔵様は新規に作ったようで綺麗でした。続いて、石亀大師堂の東にある墓地に行きました。そこには親鸞聖人の銅像が立っていました。そして、その後ろには納骨堂がありました。
光市岩田~三輪周辺の神社仏閣等史跡巡りウォーキングのコース