雨桑の地蔵庵を過ぎた頃、お昼になりました。そこで、次の史跡である岩田八幡宮に向かいました。この神社は本殿などのお社は無く、お堂のような建物がありました。今は神主さんの管理下には無いように思えました。この神社の境内は広場になっており、子供達の遊び場になっているようでした。この広場に腰をかけて昼食休憩をとりました。木陰でしかも適度な風が吹いていたため十分休憩することができました。休憩が終わると、次の史跡に向かいました。ところが、途中で道を間違えてしまいました。バナナを栽培している巨大なビニールハウス群のど真ん中に迷い込みました。
風が吹く木陰でのんびり休憩した岩田八幡宮
バナナを栽培する巨大なビニールハウス、最初はビワを栽培するハウスとばかり思っていました。ところが、近づくにつれてビワでないことに気が付きました。ビニールハウス群の真ん中の草道を歩いていると、バナナの房がぶら下がっていることを発見しました。それでバナナであることが分かりました。ビニールハウスを抜ける頃、そのハウスを管理している方でしょうか、栽培しているバナナについていろいろ教えていただきました。ありがとうございました。「里の厨」でも売っているとのことです。
巨大なバナナのハウス 薬師堂内の仏様 線路を渡り正法院へ
バナナを栽培するハウスを過ぎると山へ向かう道に入りました。この近くにお地蔵様があるはずなのですがありません。たまたま畑仕事をしている地元の方を見つけてお話を伺いました。すると、地蔵像様は道上の薬師堂にあることを教えていただきました。小さな倉庫にも見える薬師堂に入ると仏様が安置されていました。ところで、入口に「防陽第二十一番」と読める板があったことです。岩田付近の霊場は防陽七十番代なので不思議なことです。
本堂内で小休止した正法院 綺麗に管理された才役大師堂
続いて山陽本線の踏切を渡って正法院に向かいました。この頃になると猛暑で汗ばんできました。そのため、正法院の方の了解の元、本堂内に上がらせていただき仏様を拝みました。そして、本堂内に座ってしばしの休憩をとりました。休憩が終わると、次の史跡である才役の大師堂に向かいました。大師堂を見学し終わると、出発したJR岩田駅に戻ることにしました。途中、あまりの暑さにアルクに寄ってアイスを食べながら休憩しました。休憩後JR岩田駅に向かいました。今回の下見に参加された方々、お疲れ様でした。
岩田周辺の史跡を巡った下見コース
大和総合運動公園を過ぎてしばらくすると、石階段が素晴らしい蓮光寺が見えてきました。その石階段を登ってご住職にご挨拶しようとしました。しかしながら、ご不在でした。そのため、本番ウォーキング時に改めてご挨拶して、本堂内で仏様を拝まさせて頂こうと思いました。続いて、雨桑集会所に向かいました。近年、お堂のお地蔵様や神棚を集会所に移す例があります。そのため、集会所に寄りましたが、これまた誰もおられませんでした。続いて集会所から細い道を進むと、お地蔵様が見えてきました。
今や誰も管理していないのか、いずれ倒壊?雨桑観音堂
お地蔵様傍には小さな祠や灯篭のようなものが立っていました。ここには小さな社殿のような建物があったのでしょうか。それとも、山にある神社への入口を示すものでしょうか。付近に誰もおられなかったため聞くことができませんでした。これ以上は道が無いように思えたため、道を戻って今回の目的地の一つである雨桑観音堂に向かいました。
石段が立派な蓮光寺 誰もいない雨桑集会所 お地蔵様と灯篭
雨桑観音堂は山の中腹にあるとても立派な観音堂でした。お堂と言うよりも、お寺にも見えます。防陽霊場七十二番札所の木札が掛けられていました。お堂内には写真などが展示されていました。お堂自体が最近管理されていないようで、柱などが朽ちる途中にみえました。二十年以内には倒壊するのではないか思われました。下の敷地には相撲場だったと思われる跡がありました。その昔、相撲大会が開かれるほど賑やかな祭りが行われたのではないでしょうか。
雨桑のお地蔵様と庵跡 お地蔵様傍の森山塾跡
続いて、地蔵庵跡に向かいました。この地蔵庵跡は防陽八十八箇所霊場七十三札所でした。庵と呼ばれる以上、何らかのお堂か庵があったのでしょう。このお地蔵庵傍には、江戸時代から明治初期(1828~1874年)まで森山塾と呼ばれる塾があったようです。大きな字で「志」と刻まれた石が置かれていました。当時、岩田周辺の若者がこの塾に学びに来ていたのでしょう。どんな学問を学んでいたのでしょうか。
岩田周辺の史跡を巡った下見コース
ちょっと早いのですが、ニンニクの植え付けをしました。植え付ける前、買ってきたニンニク束を手で割るようにして分球しました。分けた一つ一つのニンニクを、黒マルチの穴に一つずつ植えました。去年は夏に掘り起こしたニンニクを秋に植え付けしました。
黒マルチは事前に畑を耕して準備しておきました。ところで、早朝涼しくなったとは言え日中はまだまだ猛暑が続いています。噴き出る汗を手拭いで吹きながらの作業でした。来春には美味しいニンニクが収穫できると思います。
暑い日中、汗を拭きながらニンニクを植え付け
ニンニクは比較的手がかからない野菜です。場合によっては葉ニンニク、芽ニンニクを収穫することもできます。我家の利用で多いのは、やはり野菜炒めやカレーに入れて食べることでしょうか。主野菜ではなく味付けに使います。あと、醤油に漬け込んで、ニンニク醤油にすることでしょうか。
分球してバラバラにしたニンニク 一つの穴に一つのニンニク
猛暑のため、8月の史跡巡りは例年中止しています。今回、1ヶ月ぶりの9月史跡巡りウォーキングに備えて下見に行ってきました。下見したのは、光市の岩田地区周辺の史跡です。JR岩田駅をスタート後、大和総合運動公園に向かい、雨桑地域から束荷に向かう道を歩きました。その後、ターンして岩田八幡宮に向かい、山陽本線を渡って正法院を訪れました。正法院からは岩田駅に戻りました。日差しは暑かったのですが、適度に風が吹いていたため楽しく下見することができました。
防陽八十八箇所霊場八十番札所の大塚大師堂
数年ぶりにJR岩田駅に降りました。降りて駅前に立つと、景色ががらりと変わっていました。駅前からの道が広くなり、駅前通りのお店がすっかり無くなっていました。隣の駅であるJR田布施駅前は、さびれたとは言え古い家並みがまだ残っています。戦前に建てられた友末旅館などがまだ存在感を示しています。ところが、JR岩田駅前は建物すら激減しています。駅を中心とした街並みが崩れているように見えました。見方を変えれば、新しく生まれ変わっているのかも知れませんが。
駅前が寂しいJR岩田駅 大塚大師堂の構内 草むらに残る石地蔵
最初に行った史跡は大塚大師堂です。地域の方々が立て替えたのか綺麗な建物です。傍に集会所があるため、集まりがあると同時に大師堂に立ち寄ることができます。ところで、防陽八十八箇所霊場の巡礼表には大塚大師堂は七十九番札所と記載されています。ところが、大師堂の柱には八十番箇所と書かれていました。どちらが正しいのでしょうか。
小山の上にたたずむ神社 整備された大和総合運動公園
続いて、大和総合運動公園に向かいました。途中、小山の上にある神社に寄りました。鳥居に神社名が刻んでありましたが読めませんでした。鳥居の柱には天明七年(1787年)と刻まれていました。この年は、享保の飢饉に続く天明の飢饉がありました。米騒動などの事件が多発した年でした。その時に、創建されたか、少なくとも鳥居が建てられたようです。続いて、大和総合運動公園を回り込み、道端の草むらある石地蔵を見てから蓮光寺に向かいました。
岩田周辺の史跡を巡った下見コース
10月に田布施でレクリエーションウォーキングの計画があるそうです。コースがいくつかあり、その中で一番短いコースを先導して歩くことになりました。歩く距離は3km位です。途中史跡を説明しながら1時間位で歩きます。スタートするのは田布施スポーツセンター(TAIKOスポーツセンター田布施)です。スタート後、新川の庄山、田布施川、川添を回って帰ります。主な史跡は、①恵比寿社,②田布施川の古川跡,③五人力の清三郎石碑,④新川寮,そして⑤浮島神社⑥江良碧松の歌碑です。
最後に訪れた浮島神社と傍にある江良碧松の歌碑
ところで、先日四回目のコロナ対策のワクチンをうちました。三回目まではファイザー製でしたが、今回はモデルナ製でした。聞いてはいましたが、とんでも副反応でした。発熱,発汗,食欲不振,ぼんやり,肩痛,目がぐるぐる,そして吐き気です。食欲不振で朝食を食べていなかったため、苦しく吐くものがありませんでした。やれやれ、よほどのことない限り五回目をうつのを止めようと思います。
TAIKOスポーツセンター 庄山の恵比寿社 新川寮の座敷と仏様
歩いた距離は3.3kmでしたが、歩いたり史跡を説明した時間のトータルは1時間5分でした。1時間以内に収めなければならないため、田布施川の古川跡は省く見込みです。
ちなみに田布施川の古川跡とは、今から400年位前に田布施川が流れていた跡です。新川地区の名前は、田布施川の流れを古川から新川に変えた名残りです。
10月のレクスポ大会時の史跡巡りウォークの下見コース
黒杭川ダム堰堤に着くと、怖いのですがダムから底を除いてみました。すると、下見の時とほとんど変わっておらずダム底には少ししか水が溜まっていませんでした。その水溜りの周辺を見ると、魚を釣っている人がいました。どんな魚が釣れるのでしょうか。いつもより水が少ないので、魚の密度が高くて楽に釣れそうにも思いますが釣果はどうでしょう。反対側を見ると、かつてあったプール底の一部が見えました。その周辺は草木に覆われて緑一色でした。もう使われない施設のようです。
草木に覆われた黒杭川ダム公園内を黒杭川ダムに向かう
黒杭川ダムの堰堤を渡ると、舗装道路の歩道に出ました。そして、柳井方面向かって緩い下り坂を歩きました。途中、昭和42年に安置された地蔵様が道端にありました。黒杭川ダム完成が昭和44年なので、ダム工事のための道路を掘削している時に移動したか新たに安置されたのではないかと思います。おそらく工事の安寧を願って安置されたのでしょう。
黒杭川ダム堰堤を渡る ダム底にはわずかな水 昭和42年安置の地蔵様
しばらく緩い下り坂を下っていると、柳井/日積/伊陸の三方向への三字路に到着しました。日積方面への道を選択しました。この頃になると晴れてきましたが、風があったため下見の時よりも快調に歩くことができました。しばらく歩いて菓子乃季に寄りました。そこで、私はグレープフルーツジュースと干天菓子をいただきました。皆さんも好きな飲み物などをいただきました。私は、ジュースがとても美味しかったです。少しばかり皆さんと菓子乃季で休憩しました。
休憩した菓子乃季 メダカ養殖場を見学 最後に石井ダム石階段
菓子乃季を出ると、出発した石井ダム方面に向かって歩きました。下見時にはアジサイが満開でしたが、季節外れで花がしおれていたためアジサイ園には寄りませんでした。そして、メダカの養殖場によりました。数百の品種のメダカが飼われていました。1匹¥200位から、なんと¥10,000位のメダカが泳いでいました。熱帯魚のネオンテトラのようなメダカが超高価でした。
続いて、水が流れる溝の中を覗いてカワニナを数匹取りました。我家で飼っている金魚の水槽に付着した藻を掃除してもらうためです。以前、藻を食べるエビを入れましたが効果がほとんどありませんでした。カワニナに期待したいところです。
カワニナを取った後、石井ダムの階段を登って駐車場に戻りました。参加されたみなさん、暑い中をお疲れ様でした。8月の史跡巡りウォーキングは例年のとおり、お休みです。9月から再開致します。直前になりましたら、いつものように案内葉書を送ります。その時はまた、よろしくご参加くださるようお願い致します。
柳井市 中馬皿周辺の史跡を巡ったルート
中馬皿バス停近くに安置されている美人地蔵のお話です。バス停前に住むお婆さんから聞きました。言い伝えとのことです。このお地蔵様はその昔、美人の妻が落馬して亡くなったことを弔って安置されたそうです。ただの美人だけでは村人に惜しまれることはなかったと思います。亡くなる前から人々に慕われていたのでしょう。
この美人地蔵、この場所から移す計画があったそうです。それは、菓子乃季の工場が馬皿にできた時のことです。琴石の水を分ける場所に移さないかとの話が菓子乃季から出たそうです。そこで、村人が美人地蔵の気持ちを聞くために周防大島の占い師にお伺いをたてたそうです。すると、美人地蔵は村人の傍を離れたくないとのお告げがあったとのこと。私は知りませんでしたが、周防大島に占い師がいたことは皆さん知っていました。そのため、うその話ではないようです。
今回の中馬皿周辺史跡巡りウォーキングに参加された方々
さて、美人地蔵を去るとひたすら柳井方面に向かって歩きました。柳北小学校手前100mに黒杭川が流れています。その黒杭川右岸の道を上流に向かいました。しばらく歩くと、黒杭川ダムが見えてきました。ダムが見え始めた頃、左に急な石階段が現れました。龍岩神社(別名猿田彦神社)に向かう石段です。その急な石段を参道に向かって登りました。少しばかり登ると、車道に出ました。そこからは、石階段を登っても車道を歩いても神社に行くことができます。しばらく登ると、龍岩神社(別名猿田彦神社)に到着しました。
柳井方面に向かう途中 昼食休憩した龍岩神社 龍岩神社の石鳥居
龍岩神社はその名のとおり、神社の境内に言われれば「そうか」と、言うような竜の形に似た岩があります。首と思われる場所にしめ縄がかけてありました。ちなみに本殿には猿の思われる木造が表上に飾ってあります。その昔、伊勢の猿田彦神社にお参りして勧請していただいてきたのでしょう。それを龍岩神社に祀って別名猿田彦神社とも呼ばれるようになったのではないかと思います。
岩政次郎右衛門が築いた取水口近く 黒杭川上流ダムと取水口
龍岩神社て昼食休憩をとりました。続いて、黒杭川ダム脇を通って黒杭川上流ダムに向かいました。到着すると、岩政次郎右衛門が築いた水路の取水口を見ました。取水口は網があるため直接見ることはできませんでした。その後、再び黒杭川ダムに戻りました。途中、黒杭川ダム公園内を通りましたが、一部の生垣が枯れたり竹が生い茂って日陰になっていました。竹を伐採するだけでも明るくなるのにと思います。やはり、公園を管理する費用も管理する人もあてがうことができないのでしょう。
柳井市 中馬皿周辺の史跡を巡ったルート
柳井から日積に行く時にいつも通過する石井ダム、この駐車場に集合しました。いつもの7人が集まりました。真夏のため少々少ない人数でしたが、和気あいあいにスタートしました。最初は、石井ダムの堰堤に埋め込まれたタイル絵を見学しました。柳井市だけでなく、近隣の田布施、平生、上関の名所旧跡も描かれていました。タイルに描かれた旧跡のほとんどに、このウォーキングクラブで行きました。みなさんと懐かしみながらタイル絵を一つ一つ見学しました。次に堰堤下にある石井ダムパークに寄りました。下見時にも思いましたが、もう少し管理されているといいですね。水車付近はまるで廃墟です。
岩国~竪ヶ浜街道途中の馬皿に安置された美人地蔵
石井ダムバークから中馬皿に向かいました。途中、山脇を通る馬皿~日積の旧街道に入りました。人がようやく擦れ違うことができる山道です。その山道に安置された出雲社に寄る直前、たまたま見かけたお婆さんに挨拶をしました。すると、出雲社を管理している方でした。今や誰も通らない山道ですが、その方が草を刈ったりして整備しているのでしょう。ご苦労様です。
石井ダムのタイル絵 廃墟のような公園 旧街道の出雲社
出雲社を見学した後、舗装道路に戻りました。少し歩いていると、田んぼ脇にブルーシートがバックネットのように張られていました。たまたま近所の方がおられたため聞いてみました。すると、籾摺りの時に籾殻が風で飛ばないようにする工夫だそうです。その後、少し歩いて広々とした旧柳北小学校跡地に着きました。ここで少しの間トイレ休憩しました。
休憩後、しばらく歩いて中馬皿バス停に向かいました。たまたますれ違ったお婆さんに、かつてあった老人ホームの場所をお聞きしました。すると、旧柳北小学校跡地に老人ホームが作られていたそうです。介護保険制度ができて養護老人施設等が建設された頃に撤去されたのでしょう。
広々とした旧柳北小学校跡地 本尊十一面観世音菩薩の祠
続いてバス停近くにある本尊十一面観世音菩薩の祠を見学しました。バス停前の店(今は閉店)に住むお婆さんが、これから訪れる美人地蔵と共に管理しているそうです。このバス停付近は昔、とても賑やかだったと思われます。柳井~伊陸~日積の中継地にあり、旧柳北小学校がありましたので。
明治・大正時代も人や馬の背に荷物のせた商人などがさかんに行き来したと想像できます。今のバス停前のお店で、お茶でも飲んで休憩したのではないかと想像できます。
柳井市 中馬皿周辺の史跡を巡ったルート
岩政次郎右衛門が築いた水路の取水口がある黒杭川上流ダムは初めて行きました。その取水口から上流を見ると、黒杭川上流ダムの巨大な堰堤に圧倒されました。取水口を見終わると、元来た同じ道を戻りました。元々は公園だったようですが、手入れされていないので見るべきものありません。もくもくと黒杭川ダムに戻りました。黒杭川ダムに戻ると、ダムを渡って黒杭川の左岸に行きました。途中ダムから下を見ると、貯水量がとても少ないのに気づきました。底にわずかに溜まった水が見えるだけでした。これで夏をしのげるか心配になりました。
黒杭川ダム、底にわずかに溜まった水を見下ろす
黒杭川ダムを渡ると、舗装道路をひたすら柳井方面に向かって歩きました。途中、民家とお地蔵様がありました。この道はダムができる前は馬皿と小行司を結ぶ街道だったのではないでしょうか。歩いていると、伊陸方面、日積方面、そして柳井方面に行く三差路に着きました。今回は日積への道を選びました。そして、しばらく歩いて菓子乃季に着きました。
水が無い黒杭川ダム 黒杭傍のお地蔵様 休憩した菓子乃季
菓子乃季に着いた頃は猛暑で少しばかりへとへとでした。そのため、菓子乃季内で休憩しました。私はショートケーキを食べて自販機のコーヒーを飲みました。店内に貼ってあった宣伝文を読むと、近々ケーキバイキングが開催されるようです。そう言えば、ウォーキング仲間と一緒にケーキバイキングを行く計画を立てていたことがありましたが、その話はコロナのためか自然消滅しました。
満開のアジサイ園を見学 メダカ養殖場を見学
菓子乃季を出ると、山裾にあるアジサイ園に行きました。そして、たくさん咲いているアジサイの花を観賞しました。いろんな品種のアジサイがありました。長い時間をかけて集めたのでしょう。
続いて、メダカの養殖場を見学しました。何十もの水槽にいろいろな品種のメダカが養殖されていました。メダカを見終わると、石井ダムパークに向かって歩きました。堰堤中央の長い階段を登って駐車場に戻りました。下見ウオーキングに参加された方々、お疲れさまでした。
柳井市上馬皿周辺史跡巡りウォーキング下見コース
放課後学習の成器塾で、子供達に作ってもらう予定のペットボトル布ケースをもう一つ作ってみました。最初に作ったのは機関車トーマス柄でしたが、今回はミニーマウス柄にしてみました。作り方は同じですが、相変わらず底を丸く縫うのに四苦八苦しました。裁縫が得意な方でしたら難なく縫えるでしょうが。ところで、今後の成器塾はコマ数が少なくペットボトル布ケースを作る時間を取れそうもありません。そのため、このペットボトル布ケースはあえなく孫行きとなってしまいました。
あえなく孫行きとなってしまったペットボトル布ケースのサンプル
ペットボトルの底にあたる部分を縫い方ですが、どの方法が正解なのでしょうか。私は、外周にあたる布に丸い底を重ねながら縫いました。底布の周辺をあらかじめしわを付けておきます。そして、そのしわをアイロンで固めます。そして、ミシンで縫いながら、外周布と底布を当てながら同時にぐるぐる回しながら縫いました。誰かに習えば良いのですが、自分で考えた方が出来が悪くても達成感があります。
底にチャコペンで印 まち針を取り付け 回しながらミシン縫い
底さえ縫えば、あとは楽勝です。紐を入れる場所などをミシンで直線縫いすればほぼ完成です。最後に布をひっくり返します。そして、紐を通せば完成です。よく見れば雑な作りですが、孫達は喜んでくれると思います。将来孫が増えれば、同じものを作ってプレゼントしようと思っています。
紐を入れる箇所を縫う 最後に紐を通して完成
美人地蔵尊を見終わると、黒杭川ダム方面に向かって伊陸~柳井のバス路線をどんどん歩きました。ぎりぎり車がすれ違うことができる幅の道です。ところで、気温が暑かったためか話に夢中になってしまったためか、途中で道を間違えてしまいました。黒杭川ダムではなく、その下流に向かって歩いてしまいました。そのため、計画を変更して先に龍岩神社(猿田火彦神社)に向かうことにしました。
龍岩神社(猿田火彦神社)へ向かう緩い坂道を登る
黒杭川の上流に沿って歩きました。しばらく歩くと、龍岩神社(猿田火彦神社)に向かう急な石階段が見えてきました。その石階段を登ってもかまいませんし、回り道して車が通る緩い坂道を登ってもかまいません。最初の石階段を登りきると鳥居が見えてきました。そして車道に合流しました。その場所からは車道を登ってもかまいませんし、緩い石階段を登ってもかまいません。ただし、緩いとは言っても歩幅と高さがばらばらな石階段なので登りにくいです。
龍岩神社の石鳥居 歩きにくい石階段 境内の龍岩に到着
車道を登りきると境内の広場が見えてきました。境内の石階段側には、大きな龍岩が鎮座していました。その龍岩にはしめ縄がかけてありました。龍に見える大きな岩です。龍岩神社(猿田火彦神社)に着いた頃お昼になったため、境内に腰をかけて昼食をとりました。ちなみに、猿田彦神社の別名のとおり拝殿屋根下に猿の彫物がありました。
取水口近くの地蔵様 取水口は黒杭川上流ダム下に
昼食を終えると、近くに見える黒杭川ダムに向かいました。そして、黒杭川ダム公園内を歩きました。しかし、公園は整備されておらず雑草だらけでした。そして、石井ダムパークと同様に荒れ果てていました。これまた維持管理しない場合の典型です。荒れ果てた道をどんどん進むと、黒杭川上流ダムが見えてきました。そして、江戸時代に岩政次郎右衛門が築いた水路の取水口が見えてきました。今は近代的な取水口になっていました。近くにはお地蔵様が安置されてていました。黒杭川上流ダムを見終わると、同じ道を通って黒杭川ダムに戻りました。
柳井市上馬皿周辺史跡巡りウォーキング下見コース
7月の史跡巡りウォーキング予定の柳井市上馬皿周辺を下見してきました。集合したのは柳井市上馬皿の石井ダム湖畔の駐車場です。平日のため駐車している車は我々だけでした。出発すると最初に石井ダムパークを歩きました。近年管理していないようで、草は生え水車などが朽ち果てていました。新しく何かを建築するのはたやすいのですが、何十年も維持することは並大抵の事ではありません。石井ダムパークを過ぎると、川下に向かって歩き出雲社の祠を見学しました。昔の古道沿いに安置されていました。続いて柳北小学校跡地に向かいました。校庭跡の広場が往時を忍ばせます。
美人地蔵尊を過ぎてからのバス往還道脇の庭先の花を観賞
柳北小学校は今下馬皿にありますが、柳北小,黒杭小,畑小が合併した時に今の場所に移動したそうです。昔の子供達は、川や山を越えて小学校に通っていたのでしょう。続いて、かつての柳北小跡地近くの上馬皿バス停に向かいました。バス停前には、小さなお店がありました。たまたま伊陸に向かうバスが走っていました。時間表を見ると1時間に1本程度のバスが走っているようでした。柳井~上関間と同じ程度の本数でした。まだまだバスを利用する方がいるのですね。
石井ダムの堰堤 古道脇の出雲社の祠 柳北小学校跡地
バス停のすぐ近くに本尊十一面観世音菩薩の祠がありました。そして、近くの坂道上に美人地蔵尊が安置されていました。由来によると、その昔とても美人な妻がいたのですが、運を悪く落馬して亡くなったそうです。その美人妻を弔ってこの地蔵さんが安置されたそうです。傍にその由来が書かれていました。農民ならば馬の手綱を引くことはあっても乗ることはありません。馬に乗るくらいなので、武士の妻だったのでしょう。
バス停横の本尊十一面観世音菩薩 美人妻を弔う美人地蔵尊
この美人地蔵尊はバス停前のお店のお婆さんが管理をしているようです。ただ、急坂なのでいつかはこのお地蔵様を世話できなくなるでしょう。次にお世話をする方がいるのでしょうか。地域が寂れてくるごとにお地蔵様もお世話をする人がいなくなります。そして、月日が経ちお地蔵様は打ち捨てられていきます。地域を見守ってきたお地蔵様が打ち捨てられるのは寂しいかぎりです。
柳井市上馬皿周辺史跡巡りウォーキング下見コース
早乙女塚を見た後、大内川沿いに河口に向かって歩きました。歩いた道は旧国道188号線ではなかったかと思います。当時はバスが通っていたようで、平生の旧商店街に続いていました。私が幼児だった昭和30年頃、この道を馬車が通っていたことを覚えています。当時の私にとって馬は巨大な生き物でした。今では考えられないことです。その後、国道188号線は今の郵便局前や平生クリニック前を通るようになりました。そして今、平生MaxValue前を通っています。
大内川沿いの稲荷社前広場で休憩
さて、大内川沿いに歩いていると変わった石橋が見えてきました。柳井市にある天津橋を小さくした石橋です。橋脚が無いせり出し式の石橋です。その石橋をすぎてしばらく歩くと右手にお地蔵様2がありました。続いて歩いていると、左手に天池が現れました。この池は江戸時代に唯一干拓時に残された当時の海の名残です。溜池として残されたようです。天池の大内川側に、川の深さを示す水位測定板が設置されていました。一定水位を超えると氾濫危険指示や避難指示が出るのでしょう。
橋脚のない石橋 屋根付きのお地蔵様2 天池傍の大内川
天池を過ぎてどんどん歩くと、お地蔵様3が安置されていました。私の祖母はとても信心深い人でした。子供の頃に私を連れて行く時、いつも道端のお地蔵様を拝んでいました。そして、亡くなった祖母の友達や親戚のお墓によく連れて行きました。子供の私は、それほどお地蔵様やお墓には興味がありませんでした。しかし、祖母と一緒に行くと帰りに駄菓子を買ってくれました。それが狙いで祖母と一緒に出かけました。また、お祭りなどもよく連れて行ってくれました。
大内川沿いの道に面したお地蔵様3 大内川沿いの稲荷神社
大内川沿いの道をどんどん歩いて行くと、お地蔵様3がありました。そして、少しばかり歩くと、大内川の左岸に赤い鳥居と神社が見えてきました。小さな橋を渡ってその神社に行きました。稲荷社でした。周辺は草も生えておらず手入れされているようでした。近所の方々が管理しているのでしょう。その稲荷社前の広場で小休止しました。ここまで来ればスタート地点までは30分くらいです。稲荷社を出ると、向井医院前を通って、出発地点である平生MaxValueに戻りました。今回の史跡巡りに参加された方々、お疲れさまでした。次回は柳井市の上馬皿方面の史跡をのんびり巡る予定です。
平生町 赤子山史跡巡りウォーキングルート
赤子山頂上に着くと昼食休憩にしました。回りの樹や草が綺麗に伐採してあるため絶景です。平生町の街並みに加えて宇佐木や伊保庄が眼下に見下ろせました。私はそばにあった長椅子に座って昼食をとりました。仲間たちは、椅子に座ったり,シートを引いて座ったり,または携帯椅子に座ったりして昼食休憩しました。40分位休憩したでしょうか。柳井市の伊保庄や平生町の宇佐木を背後に全員の写真を取りました。そして、宇佐木方面に下りました。
柳井市伊保庄や平生町宇佐木を背後に全員写真
頂上を出発すると、しばらく森の中をどんどん東方向に尾根を歩きました。森の中なので、尾根道は落葉が積もっています。さくさく落葉を蹴散らしながら道を進みました。1時間位でしょうか山道を下っていると、宇佐木の民家裏に出ました。なお、途中で下見時と違う道を下ったようです。下見時にはなかった田んぼ脇を歩きました。そのため、金毘羅社には行くことができませんでした。
小川を跨ぐ家に向かう 小川を跨ぐ珍しい家 万徳寺で休憩
金毘羅社に行くことは諦めて、小川を跨いで建てられた珍しい家を見学しました。この家は、今の建築法では建てることができません。そのため、柱を直したり畳を変えたりなどしかできないそうです。かつては家の下に稲を干した後の竹竿を保管していたことがあったそうです。昔はいろいろな変わった家を建てることができたようです。
元田んぼに置かれた早乙女塚 道に安置されたお地蔵様1
次に万徳寺に向かいました。トイレ休憩をすることを下見時にお伝えしておきました。そのため、今回、快く休憩をさせていただきました。ありがとうございました。しばらく万徳寺で休憩すると、早乙女塚に向かいました。元田んぼの中にポツンと建った石柱です。文字は彫られていませんが、川の堤防に早乙女塚の由来の看板が立ててあります。お侍に切られた早乙女の悲しい言い伝えです。早乙女塚を見終わると、川傍の道に安置されたお地蔵様1に向かいました。
平生町 赤子山史跡巡りウォーキングルート
平生町街並みを見下ろすことができる赤子山に登ってきました。そして、赤子山を見上げることができる史跡も巡ってきました。下見時と同様に、平生MaxValueに10:00に集合して出発しました。そして、最初の史跡である平生町街北側にある沼八幡宮に向かいました。ところが、参加者の一人の靴底が剥がれてしまいました。また体調不良などにより、二人の方が、リタイヤすることになってしまいました。史跡巡り中にリタイヤすることは、今まであったかどうか思い出せないほど珍しいことです。以後7人で赤子山に登りました。適度に休憩を入れながら休み休み登りました。
沼八幡宮を出て、赤子山の登山道を登る
赤子山への登っている途中、草刈機を持って下っている方々がいました。その方とお話をしながら休憩をしました。その方々は山口県の要請を受けて頂上付近の草刈りをしたそうです。そのため、下見時よりも見晴らしが良くなっているのではないかと思いました。頂上付近はたくさんのタケノコが生えていました。再び竹藪にならないように、タケノコや足元の草などを刈ったのではないかと思います。ご苦労様です。
沼八幡宮の石階段 歩きやすい登山道 汗ばみながら登る
頂上の少し手前で視界が急に広がります。この頂上手前で視界が広がる体験を少し思い出しました。それは南アルプスの北岳に登った時のことです。北岳は日本で富士山に次ぐ標高を誇る山です。標高3,000mを越える高山です。確か2,500m位を越えた頃、森林から急に視界が広がるのです。いわゆる森林限界を超えるのです。以後は背が低いはい松の間の登山道を頂上に向かいます。そして、はい松も生えなくなり植物が何も生えない山肌を登ります。そして、岸壁の日本第二の高山の頂上に着くのです。当時の登山仲間達を思い出します。
森を抜け、急に視界が広がる 頂上付近の不思議な丸い岩
視界が広がると、しばらく下界を見下ろしました。眼下に平生町の街並みを一望できました。尾根道に到着すると、今度は尾根の反対側に広がる柳井市余田方面を見下ろしました。椅子も整備されているので少人数ならばここで昼食休憩しても良いでしょう。しばらく景色を堪能すると、頂上に向かって尾根道を進みました。
平生町 赤子山史跡巡りウォーキングルート