山と溪を旅して

丹沢の溪でヤマメと遊び、風と戯れて心を解き放つ。林間の溪で料理を造り、お酒に酔いしれてまったり眠る。それが至福の時間。

『狂い』のすすめ

2007-08-16 23:39:40 | 書籍
『狂いのすすめ(ひろ さちや著.集英社新書)』




『閑吟集』。室町後期に編纂された歌謡集。
その一節『何せうぞ くすんで 一期は夢よ ただ狂え』
(まじめくさって生きて何になろうか 人間の一生なんて夢でしかない。ひたすら遊び狂え)こんな意味なのだそうです。

とにかくこの本、のっけからふざけたことが度々出てくるわけですが、読み進むうちに『なるほどね、結構真理を突いてますな』と実感する。

目的意識を持つな!
幼稚園の運動会での徒競走。誰かが転ぶと先頭を走っていた子が戻ってきて倒れた子を助け起す。『大丈夫、痛くない?』と。転んだ子を無視して一着を目指す子と助けに戻る子とどちらが正しいか。こんな時、大人はどのように教えるのが正しいのだろうか?

精神病院の浴室で、一人の患者が浴槽に釣り糸を垂れていました。通りかかった医者が『どうです、釣れますか?』『釣れるわけがないじゃないですか。ここは風呂ですよ』。魚を釣るために釣りをする。これは真面目な大人の論理ですね。釣り糸をたれるのは魚を釣るためですが、むしろ本当に釣りを楽しんでいる人は、魚が釣れようが釣れまいがどちらでも良い訳です。ただそこで釣り糸を垂れる。なんかこれ私のこと言ってるのかしらん。

目的意識があると、人間はその目的を達成することだけに囚われれてしまい、毎日の生活を灰色にすることになる。つまり人生を幅広く楽しむことができなくなってしまうと言うことかも。

生き甲斐は不要!
世の中の役に立つ人間になろうとする、その卑屈な意識がいけない。私たちが生き甲斐を持とうとしたとき、私たちは世間の奴隷にされてしまいます。世間は私たちに生き甲斐を押しつけますが、それに騙されてはいけません。人は生まれ、苦しみ、そして死ぬ。人生の意味など、そんなものは何もない。そして人間の一生もまた何の役にも立たないのだ。彼が生まれてこようと来なかろうと、生きていようと死んでしまおうと、そんなこと一切何の影響もない。→だから世間に気兼ねなく自由に生きよということだろうか?

孤独を癒してくれるもの!
『人、世間の愛欲の中にありて、独り生まれ、独り死し、独り去り、独り来る』
人間は根源的に孤独です。ひとりぼっちで寂しい。だから何かを求めます。何か癒すものが欲しいのです。でも結論的に言えば、人間の根源的な孤独を癒してくれるものなんてありっこないのです。したがって、孤独の癒しを求めてはいけません。癒される訳がないのです。そのことをしっかり認識し『孤独に生きるのではなく、孤独を生きる』のです。

結論!
私たちは仏(ほとけ)のシナリオの中で役を演じているのです。演じるという言葉はplay、つまり遊びです。遊びに目的を持ってはいけないのです。あなたの人生は、あなたのものではありませんか。世間に気兼ねしながら生きるなんてもったいないもったいない。世間を気にせず主体性を持って自由に生きる。そういう生き方を仏教は教えてくれています。つまり自由人になれと、、、、、。

と、こんな内容です。な~んだ、仏教の教えを優しく説いた本だったのね。
俗世界に生きる人間の生き方とは、まるで真逆の生き方をせよと言っているが、逆もまた真なり。こんな生き方ができればホントに楽なのだろうな。本来、人間はこんな生き方をすべきなのかもしれませんね。

 
コメント (4)
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