ブログ 「ごまめの歯軋り」

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太平記

2020年11月22日 | 書評
京都東山区粟田口 料亭「美濃吉本店 竹茂亭」「桜重」床の間の花

兵藤裕己 校注 「太平記」 岩波文庫
鎌倉幕府滅亡から南北朝動乱、室町幕府樹立における政治・社会・文化・思想の大動乱期

「太平記」 第Ⅱ部 (第13巻~第21巻)

太平記 第15巻(年代:1336年)(その3)

8、三十日京合戦の事
楠正成は官側の将が皆討たれたというデマ情報を流し、京都周辺にいる尊氏軍を洛中に誘い出す計をめぐらした。また同日夜、楠は兵にたいまつを2,3000本持たせて小原、鞍馬を走らせた、」そこで尊氏軍は鞍馬へ3000騎、小原へ2000騎、瀬田へ一万騎、宇治へ3000騎、嵯峨方面にも兵を少しづつ分配した。それを見計らって」官軍は30日叡山西坂を下りて八瀬、下松に陣を取り二条河原の押し出て洛中に火をかけた。慌てふためいた尊氏軍は、尊氏は丹波の篠村へ、四国勢は山崎に逃げ芥川に着いた。2月2日兵庫湊川の兵と合流し再起を図るため篠村から摂津国に移った。この時期尊氏は迷うことが多く自信を無くして、楠の山岳ゲリラ戦法にかき回されていたようだ。
9、薬師丸の事
尊氏軍にいた熊野山の童(後の法橋道有)を呼び、次のように言った。「この度の京都の合戦悉く負けるのはただ尊氏が朝敵になっていることの為である。どうしても持明院殿(光厳院)の院宣を賜って、天下を君と君との御争いになして合戦を行いたい。そちらは日野中納言資明(光厳院の側近で、後醍醐帝の側近日野資朝の弟)と縁があると聞くので院宣を申し込んでほしいという内容である。ここで、尊氏は「南北朝」という時代を構想した重要な局面である。本質は足利対新田の覇権争いなのだが、錦の御旗を新田が握っている限り後醍醐を敵にしては闘いにくい、持明院系から足利に新田追討の院宣が出れば、両統の皇族の争いに替えることができると目論んだ。
10、大樹摂津国に打ち越ゆる事
尊氏将軍湊川に着いて、駆け寄る軍勢は20万騎と回復したが、3日間は何もしなかったので、こらえきれず八幡にいた武田式部、宇都宮も官側に降参した。2月5日顕家卿、新田義貞は十万騎で摂津芥川に寄せた。尊氏側は弟直義が十五万騎で向え討つことになった。
11、手島軍の事
2月6日手島河原(摂津箕面)で両軍は出会い東西の河原に陣を張った。官軍は北畠奥州国司顕家、宇都宮、脇屋と入れ替わり攻めた。尊氏軍は二木、細川、高、畠山が向かい官軍の一部を破ったが、雌雄は決っしなかった。夜、楠正成(夜、山ゲリラ戦、少人数がキーワード)が700騎で西宮神尾山から尊氏の後ろを衝いた。尊氏は兵庫に退き、直義は湊川に陣取った。
12、湊川合戦の事
2月7日の朝、海上には500艘の大船がやってきたが、まだどちらに付くのか旗色は分からなかった。九州の大友、厚東、大内らの300艘は西宮に着き将軍側に、伊予の土居、土岐の得能らの200艘は兵庫に着き官側に付いた。大軍の将軍側は新手の兵(大内ら)二千余騎に戦をさせようとし、新手の軍は自分の事ではないので様子見に来ただけで合戦を戦い抜く勢いはなかった。官側は少人数なので新手の土居、得能三千騎は必死に戦い、直義は敵わないと思って兵庫に逃げた。
13、将軍筑紫落ちの事
何度戦っても勝つ意欲のない大軍を見て尊氏は戦意を失った。大友は将軍に小弐筑後入道も味方にいる九州へ移ることを勧めた。九州の兵を集め軍勢を立て直し再起を期す戦略に転換した。将軍が船に乗ったということで、20万の軍勢は船に殺到したが乗り切れるものではなかった。尊氏卿は敗残の将となり九州へ落ち、義貞は数万人の降参者を得て、天下の将として都に戻られた。雲泥の差とはこのことを言う。

(つづく)