ブログ 「ごまめの歯軋り」

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太平記

2020年11月10日 | 書評
京都市中京区 二条通木屋町 「角倉了以別邸旧跡」(現食事処「ガンコ」)

兵藤裕己 校注 「太平記」 岩波文庫
鎌倉幕府滅亡から南北朝動乱、室町幕府樹立における政治・社会・文化・思想の大動乱期

「太平記」 第Ⅰ部(第1巻~第12巻)

太平記 第11巻(年代:1333年)(その2)

6、還行の御事
東寺に一日逗留され、6月6日一条内裏に還幸された。臨時の宣下があって、高氏は治部卿に、直義を左馬守に任じられた。主上の帯剣の役には千種頭中将の他に、侍500騎を具した。高氏、直義は兵5000騎にて打つ。大名らも各500騎ほどで都小路を埋め尽くした。
7、筑紫合戦九州探題の事
高氏が両六波羅を、義貞が鎌倉をせん滅した後、筑紫に追っ手を下され九州探題英時を攻めることになった。二条大納言師基を太宰師に任じ派遣しようとしている矢先、6月7日菊池、小弐、大友から早馬が到着し、九州探題ははや討伐したと報じた。主上が船山に御座されているとき、小弐入道明恵、大友入道愚鑑、菊池入道寂阿は官側に味方することを申し出て綸旨の御旗を下されていた。それが探題英時に知れることになり、菊池、小弐、大友の間には温度差があり足並みがそろわなかったが、菊池入道と武重は3月13日探題の館を攻撃した。小弐、大友が英時に味方をしたのでこれは失敗し菊池一族は敗退した。ところが六波羅、鎌倉が討たれた時点で小弐は大友とともに7000余騎で、5月25日英時の館に押し寄せた。英時は破れ一族郎党340人は自害した。白居易の「行路の難なること、山に在らず、水にしもあらず、ただ人の情の測りがたきにあり」という文が思われる。
8、長門探題の事
長門探題遠江守時直は六波羅の京での合戦を応援すべく大船200隻で上ったが、京も鎌倉もみな落ちたので引き返し、九州探題と一つにならんとしたが、大友、小弐によって九州探題もほろんだ。兵は落ちてわずか50人余に減少した。柳浦(門司)に船をつけようとしたが、官軍が散々に弓を射てきた。そこで小弐、大友に降参を伝えた。先帝の外戚にあたる峯僧正は筑前に流されてあったので、にわかに威光を現し九州の成敗はこの僧の計らいに任された。小弐、島津は長門探題時直の降参の事を相談したら、あっさりと了解された。「仇の報いるに恩をもってする」という言葉通りであった。いのちは助け、所領は安堵する勅免があった。
9、越前牛原地頭自害の事
淡河右京亮時治は5月7日の京都合戦の時、北国の蜂起を鎮めるため越前国に下り、大野軍牛原というところにいた。六波羅陥落によって従う兵は逃げうせ今は主従26騎のみとなった。平泉寺の衆とは時治の領地を奪わんと7000余騎で5月12日牛原に攻め入った。とても戦えるわけもないので、時治は女、子供を僧になして寺に入れた。自分の二人の子供の命は許されないから冥土の道ずれにする、子供を唐櫃に入れて川に沈めるよう乳母に言い渡した。こうして子供・乳母・母の5名は河底に沈んだ。時治は自害し灰になった。
10、越中守護自害の事
越中守護名越遠江守時有と弟修理亮有公、甥の兵庫助貞持は、出羽、越後の官軍が北陸道を経て京都に攻め入らんとするのを阻止する為、越中の二塚に陣を置いていた。ところが六波羅、鎌倉が陥落した報を受け、能登、越中の軍は反守護勢として攻め込む考えであった。人の心の浅ましさとはいえ、越中守護名越の軍は譜代の侍のみ79名となった。5月17日、一万騎で押し寄せると聞こえた。女房子供を船に乗せ沖に出て、女房らは子供を抱いて海に身を投げた。越中守護名越主従79人は城で自害した。
11、金剛山の寄手ども誅せらるる事
京洛は治まったように見えたといえども、金剛山の寄り手の鎌倉勢が南都に留まって京都を攻める噂があったので、京側は中院中将定平を大将として5万余騎を大和路に差し向けた。また楠正成には畿内の兵2万余を添えて河内国より搦め手に向けられた。南都の鎌倉軍は5万余騎残っていたが、般若寺を固めていた宇都宮紀清両党700騎がまず京に寝返った。これをはじめとして数百騎づつの兵が抜けていったので残りの兵も少なくなった。大仏右馬助貞直ら宗徒の13人、二階堂出羽入道、長崎四郎左衛門ら関東の名家の侍54人らが般若寺で出家し降人となって抜けた。中将定平は彼らを縛り上げ京都へ護送した。京では彼らの黒衣を脱がせ囚人として扱った。7月9日大仏右馬助貞直ら15人を斬首した。

(つづく)