ブログ 「ごまめの歯軋り」

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読書ノート 伊藤之雄著 「伊藤博文ー近代日本を創った男」 講談社学術文庫

2019年02月27日 | 書評
明治維新後日本の近代憲政政治を創ろうとした近代化進歩主義者の生涯 第6回

2) 飛躍篇ー明治初期の急進的諸改革 (その1)

1868年4月維新新政府によって伊藤は神戸開港場管轄外国事務を任され、5月には大阪府判事兼外国官判事を命じられた。大阪府の副知事になると同時に神戸の外国事務一切を管轄した。そし同月兵庫県知事(開港場神戸周辺の狭い地域)に任命された。伊藤26歳の若さであった。得意な様子が伺われる。同年9月8日明治元年と改元された。この頃政府はまだ京都にあり、伊藤は外国人とのトラブルの政府を代表して折衝にあたった。不平等条約の下では外国人の犯罪を裁判にかけることはできなかった。伊藤は岩倉大阪府知事時代に「廃藩置県」という提案をして気に入られた。また長州閥の木戸孝允、井上薫、佐賀藩の大隈重信、紀伊藩の陸奥宗光らのグループと連絡を密にした。木戸グループでは明治元年、二年の段階ですでにイギリスの立憲君主制や欧州の共和政治を、日本の近代化のためのモデルとする動きがあった。1869年伊藤は会計官権判事に昇進し、木戸・井上薫らと東京に入った。伊藤の仕事は商法に関する幅広い権限を持つ部署の長であった。しかし伊藤の関心の中心は「廃藩置県」にあって、藩主が藩を朝廷に返すに当たって、藩主をそのまま世襲の知事にするか、官僚に置き換えるかであり、伊藤は藩主は爵位を授けて上院議員とすることで、新しい人材の登用を主張した。参与の木戸孝允は藩主の知事世襲に強く反対し、大久保や副島種臣らは時期尚早を主張した。kのため木戸グループの井上や伊藤は辞任して抗議し、驚いた岩倉や大久保は「世襲」の2字を削除し、ひとまず藩主262人を知事に任命し、公卿と諸侯を廃して華族と称することになった。政府は制度改革を行い太政官・左右大臣と参議の三職で国家の枢要を決めることになった。現在の閣僚クラスである。行政制度として六省を置き卿(長官)うぃ責任者とした。結局右大臣三条実美、大納言岩倉具視、徳大寺実則、参議には木戸、副島、前原、大久保、広沢が任命された。大隈は大蔵大輔、伊藤は大蔵小輔に任じられた。8月になって木戸グループは大蔵、民部という最重要官庁に、大隈、伊藤、井上薫の3人を送り込むことができた。木戸と伊藤は将来の立憲制導入と改革目標について共有するものが多かった。大隈は急進的な改革案をもって行政能力も高かったが、木戸が一番信頼したのは腹心筆頭の伊藤であったという。大蔵小輔伊藤と造幣頭井上薫は共同して租税の徴収体制の整備にあたり、東京-横浜間鉄道敷設事業の外債をロンドンで募集することに成功した。次いで阪神間鉄道設置計画に従事した。1871年三条・岩倉・大久保の協議により、大隈を参議に登用し民部省と大蔵省の兼任を説解き、民蔵分離を実施した。木戸グループは兵部省には影響力はなかったが、木戸は前原一誠と関係が悪くその人事にも介入した。兵部卿は有栖川宮熾仁親王であったが、長州の前原一誠兵部大輔がリードしていた。木戸は山県を欧米に留学させており前原の後任に考えて兵部小輔に任じた。これに反発した前原は一か月後大輔を辞任した。長州閥の山田顕義大丞に真意を問わさせている。明治2年ごろから伊藤は俊輔の名をやめ「博文」に改めた。かって高杉晋作が論語から「博文約礼」を引いて伊藤に勧めたという。1870年秋、伊藤はアメリカの理財に関する諸法令、国債、紙幣、為替、貿易に関する調査に出張した。随員は芳川顕正、福地源一郎ら21名であった。その結果は金本位制の採用、大蔵省職制改正となって現れた。伊藤は調査の合間にアメリカ合衆国憲法の制定過程を研究した。この年、伊藤は井上薫の兄の子である勇吉を養子として迎い入れた。生涯、伊藤と井上薫は政治上の同盟者になった。各藩が財政を握っている限り、政府の新事業の財源がままならないは当然で、1870年大久保利通は木戸や岩倉の同意を得て「廃藩」を実行するつもりで、鹿児島に帰ったままになっている西郷を東京に呼び出し薩長の団結を示す必要があった。10月に弟の西郷従道が使いに立った。伊藤はアメリカから帰国した1871年5月には廃藩の準備は出来上がっていた。6月には東京に薩長の約8000人の親兵を集めて、維新政府を固めた。三条は太政大臣、岩倉は外務卿に、木戸孝允・西郷隆盛・板垣退助・大隈重信が参議、大久保利通が大蔵卿に、井上薫が大蔵大輔となった。大久保が大蔵卿になったのは大隈・伊藤・井上の急進的な改革派の木戸グループを抑えるためであった。7月14日藩を廃止して県とする詔が出て、200数十名の旧藩主知事は罷免された。大久保の大蔵卿就任によって、伊藤は阻害されるので、木戸は伊藤を大蔵省の代表にする工作もあったが、9月に伊藤は工部大輔に就任した。大久保は伊藤らの急進的改革を嫌った。とにかく伊藤は大久保に近代化というものを理解させなければ伊藤らの考える改革はできないと思い、岩倉使節団への参加を通じて大久保に接近した。

(つづく)