ブログ 「ごまめの歯軋り」

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文芸散歩 デカルト著 井上庄七・森啓・野田又夫訳 「省察 情念論」 (中公クラシック 2002年)

2019年02月01日 | 書評
近代哲学・科学思想の祖 デカルトの道徳論  第8回

2)「省察」 (その1)

本書の題名は「第一哲学についての 省察 神の存在および人間精神と身体との区別が証明される」がフルネームである。1641年に刊行された。本文に入る前に、ソルボンヌ大学神学部に宛てた献呈書簡、および「読者へのまえおき」が挿入されている。ソルボンヌ大学神学部に宛てた献呈書簡には、神についての問題と精神についての問題の二つは、神学によってよりは哲学によって論証されなければならないと宣言しています。神が存在するということは、宗教なき人々には自然的理性によってあらかじめ証明して見せなければならない。この書物によって、もはや世間には神の存在についても、人間の精神と身体との実在的な区別について、あえて疑問を差し挟む人はいなくなるでしょうと自信のほどを大学関係者に述べている。「読者へのまえおき」は省察の概要の紹介であるので、理解の助けとして紹介しておこう。1637年に公刊した『方法論序説』にたいする反論の一つは、「人間精神はその本性・本質がただ考えるものだけにある」ということに対し、他の何物も私の本質に属していないという帰結が分からない、もう一つの反論は私より完全なものの観念(神)を持つからと言って、私より完全であるという帰結が分からないということであった。そこで神と人間精神とについての問題を、そして第1哲学全体の基礎を論ずることが本書の目的とした。以下の六つの省察のあらましを述べる。
第1省察: 物質的なものへの疑いうる理由を示す。懐疑は我々から先入観から解放し、精神を感覚から切り離す道を開く。そうして我々が真であると見極めるものは、もはや疑いえないようにしてくれる。
第2省察: 懐疑する精神は確かに存在していることに気が付く。こうして知性的本性に属するものと、物体に属するものをたやすく区別するようになる。精神の不死問題は第1省察から帰結するものではないが、神によって創造された精神はその本性上不可滅である。人間の精神は偶有性からなっているものではなく、純粋な実体であることが分かる。こうして精神と物体は分離される。
第3省察: 神の存在を証明する。この上なく完全な存在者の観念は大きな表現的実在性を持つ。
第4省察: 我々が明晰に判明に認知できるものはすべて真であることが証明される。虚偽の根拠を説明した。そこで考察されるのは信仰あるいは実生活の事柄ではなく、認識的思弁的な心理のみである。
第5省察: 一般の理解される物体的本性が説明され、神の存在が論証される。幾何学など自然学の証明も神の確実性に依存する。
第6省察: 悟性の作用が想像力の作用と区別される。人間の精神は密接に身体と結ばれており、一体化していることが示される。同時に物質的事物の存在も結論される。神と精神の認識に導く根拠こそ、人間精神によって知られうるすべてのもののうち最も確実で最も明証的である。
省察1 「疑いをさしはさみ得るものについて」
デカルトは学問においていつか堅固でゆるぎないものを打ち立てようとするなら、一生に一度はすべてを根こそぎに覆し、最初の土台から新たに始めなければないと宣言する。これは近代哲学の幕開け宣言となった。ただすべてが偽であると証拠立てるもの必要はない、理性に問いかけて確実で疑う余地がないわけでなければ、明らかに偽と思うくらい用心してかかる必要がある。同意は差し控えるべきである。これを「方法論的懐疑」の態度という。自らに問うて怪しいところがあれば疑ってかかり、不用意に「真」とは見なさない慎重な態度という意味であろう。常識や錯覚によって、確かに感覚は我々をして誤らせることがある。覚醒と睡眠の境界も怪しい。夢を見ていたのかもしれないともいえる。一般的には身体的なことは幻ではなく真として存在する。これらに属するものは(大きさ、色、数、場所、時間など)、物体的本性一般と呼ぶ。そういう意味では自然学、物理学、医学その他は確かに疑わしいことが多いが、数学、幾何学等は単純ものしか取り扱わない。疑いをはさみ得るもの、偽であるものには決して同意はしないことを認識の第1前提としよう。

(つづく)