ブログ 「ごまめの歯軋り」

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読書ノート 杉田 敦著 「権力論」 (岩波現代文庫 2015年11月)

2017年02月20日 | 書評
ミッシェル・フーコーの政治理論と権力論の系譜  第16回

Ⅱ部  権力の系譜学
3) 啓蒙と批判ーカント、フーコー、ハーバーマスについて

 (4) 倫理と権力


フーコーは絶対王政までの時代には人間は存在しなかったとのべ、「人間」とはカントにつながる人間主義の所産に過ぎないといった。そういう人間観を作り出すうえで人文科学は権力と共犯関係に入ったとすることに対して、R・バーンシュティンは、自由な自らを修めるフーコーの倫理・道徳観はあり得ないと批判した。コノリーは、アイデンティティの虜になることなく、自分のアイデンティティの偶然性を認識し、それを相対化することがフーコーのいう倫理の実践に他ならないと理解した。権力は主体を固定化し自由な実践を阻むのかについては、フーコーは人間を主体かつ客体という二重性によって、権力が主体を形成するだけでなく主体が自由に振る舞える面を強調したのである。どんなに閉鎖的な状況でも、常に変化の可能性があることをフーコーは示唆した。しかしフーコーは人々の自発性に期待する裏付けは何も取っていない。人間が超歴史的・普遍的な本質を持つという「原理主義」に対してフーコーは最も遠い位置にいる。フーコーの倫理は我々に何らかの本質があるという前提を持たず、人間の確定的な定義を拒否するものである。イラン革命に賛意を表明したフーコーは、イラン革命が持つ現在の深刻な状況を受け止め、そこの歴史を動かす力を見出そうとした。カントはアプリオリに人類の恒常的進歩を前提としたが、フーコーは相対主義者としてあるいは道徳懐疑主義者としてふるまった。フーコーの「自己への配慮」と自由な抵抗が自己満足的な独善的なものにならないために実践は必須なのである。実践を行っていれば自由は実現するもので、自由という原則に同意すれば自由が実現するのではない。これまで見てきたハーバーマスとフーコーは、ニーチェ以後の思想家として、カントが言う普遍的な道徳をアプリオリには信じられない点で一致している。批判としての啓蒙が自らを批判する「自己言及性」に常にさらされているのである。フーコーは個人の自由な倫理の実践に重きを置き、ハーバーマスは道徳について透明な合意を目指す点で異なっている。ハーバーマスのアプローチはハイデガー思想の政治的合意に強く影響されていた。ハーバーマスはドイツの政治的後進性を強く意識し、ドイツがともすれば唯我独尊の戦略的行為に走りかねないという認識から、彼はコミュニケーション的理性に必要性を叫んだのかもしれない。彼にとって近代は壊れ物のように危ういので、個人の自由な実践に任せていては破滅するかもしれないという危機感を持っていたといわれる。生活や倫理を少しでも変えると、社会的・経済的構造に影響を与えることを心配していたのだが、フーコーは近代の構造的安定性を信頼しているようである。フーコーはハーバーマスのような二者択一的な強迫観念には無縁であった。

(つづく)