ブログ 「ごまめの歯軋り」

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読書ノート 津野海太郎著 「読書と日本人」 岩波新書(2016年)

2018年08月28日 | 書評
本は何のために読むか、読書の歴史から時代の変遷を見る 第13回

7) 焼け跡からの出発ー昭和時代(戦後)

 太平洋戦争時代の出版界の状況は悲惨を極めた。1941年に約3万点あった出版数が、1945年終戦年には878点にまで激減していた。その最大の原因は紙飢饉であった。日本の製紙業は樺太(サハリン)の針葉樹林に頼っていた。ところが1937年日中戦争が起き翌年「国民総動員法」が制定されると、国家統制は戦争に向かって強化された。非軍需産業であった製紙業や出版業は資源供給を大幅にカットされ、それまで2241社あった出版社は10分の1に、2千誌あった雑誌も半分に削減された。資源供給だけでなく、出版社には言論統制で出版社や雑誌が次々に統廃合に追い込まれていた。戦争が終わった1945年はすべてを破壊された国土の荒廃により、さらに樺太の放棄によって日本の製紙業は麻痺状態に陥っていた。戦中・戦後時代、読者は本に飢えていた状況が、戦没学生の手記「きけわだつみの声」や水木しげる氏の日記を編集した荒俣宏著の「戦争と読書ー水木しげる出征前手記」に記されている。戦前期に形成された教養主義的読書の習慣が戦後の読書まで生き延びていたことが分かります。川合栄治郎編「学生と読書」が戦中の学生たちの指針となっていたようです。1947年岩波書店が「西田幾多郎全集」19巻を刊行したとき、徹夜の行列ができたと言われています。大正教養主義は戦後まで生きのびていたのです。1950年の朝鮮戦争特需の好景気は全経済分野に広がり、1950年の発刊点数は13000点に回復し、1970年には2万点になりました。戦後の出版事業の再開は、関東大震災後の出版業の資本主義的再編成の繰り返しの形で行われました。全集・雑誌・文庫本や新書・週刊誌の順で見てゆこう。1952年新潮社に「現代世界文学全集」、角川書店の「昭和文学全集」をかわきりにして、1950年代前半は予約購読方式の全集物の出版が相次ぎました。岩波書店の「日本古典文学大系」といったアカデミックなものも発刊されました。これらは空襲で焼失した大量の文字資産を補充するという意味があって、学校や公的図書館などで一括購入されたのでしょう。文庫本では新潮文庫、角川文庫など70種を越える文庫が創刊され、同時に岩波新書、角川新書、三一新書など90種を超える新書も創刊されました。岩波新書に始まる既存の新書は主に知識層相手でしたが、カッパブックスは一般大衆まで対象を広げました。雑誌部門では週刊誌ブームがおこり、1954年「週刊朝日」の発行部数が100万部を越えました。週刊朝日の成功の一因に、1951年から始めた「週刊図書館」という書評欄の魅力があります。週刊朝日の読者には高学歴のサラリーマンに代表される知的中間層がいたと思われます。そして主に新聞社系の週刊誌に加えて出版社の週刊誌が加わりました。1956年創刊の「週刊新潮」を先頭に、「週刊女性」、「週刊現代」、「週刊文春」など数多くの大衆向け週刊誌の発刊があい次ぎました。企画も多彩で、五味泰祐、柴田錬三郎の時代小説が人気を博しました。松本清張の「社会派ミステリー」が大ヒットしました。朝鮮戦争後の「神武景気」がこのブームを支えたようです。「暮らしの手帖」、「平凡」、「文芸春秋」など名編集長が発刊した一般誌も100万部を越えました。大衆文学のみならず、いわゆる純文学の分野でも戦後の花が咲きました。永井荷風、志賀直哉、中野重治、太宰治、高見淳らの戦前派をはじめ、三島由紀夫、大岡昇平、野間宏、武田泰淳、椎名鱗三、安部公房、中村信一郎、井上光晴、安岡章太郎、阿川弘之、吉行淳之介、遠藤周作らの戦中派がつづき、有吉佐和子、瀬戸内晴美、開高健、大江健三郎らの戦後派が世に出た。1950年後半から1960年初頭にかけて、個性的な評論家の活動が目立った。福田恆存、加藤周一、江藤淳、吉本隆明、鶴見俊輔、竹内好、丸山真男らが輩出した。彼らの活動の場となったのが、「世界」、「展望」、「改造」、「中央王論」などの総合雑誌でした。サンフランシスコ条約締結後GHQの検閲が終わり、欧米の新刊書の輸入や翻訳が堰を切ったかのようにあふれ出しました。サルトル、カミュの「実存主義ブーム」が起り、「マルクス資本論・近代経済学と実存主義文学」が1960年代の大学生の流行となりました。こうして1960年をへて1980年代中頃に至る25年こそが、「読書の黄金時代」と言われます。

(つづく)