ブログ 「ごまめの歯軋り」

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読書ノート 加藤典洋著 「戦後入門」 (ちくま新書2015年10月)

2017年06月13日 | 書評
安倍首相の復古的国家主義の矛盾を批判し、対米従属と憲法9条の板挟みであえぐ日本の戦後を終わらせる試論 第3回

第2部 世界大戦とは何か(その1)

 第2部「世界大戦とは何か」では、Ⅰ第1次世界大戦、Ⅱ第2次世界大戦、Ⅲ遅れてきた国日本の大義、Ⅳ戦後の源、から構成されます。まず世界戦争の準備としての第1次世界大戦をみてゆこう。戦後の「ねじれ」は、日本が戦争に負けたという事実からやってくるものではなく、その戦争が第2次世界大戦という初の本格的な総力戦である世界戦争であったからです。戦争の総力戦化、そして世界戦争化、その結果としての敗戦国民の全体的な価値転換の受け入れがあったから、それになじめない人々(戦前の権力者)の「ねじれ」が起きたのです。権力者の総追放と国民の主権の確立(市民革命)があったなら、こんな心理的・情緒的「ねじれ」はなかったでしょう。戦前と戦後の権力主体が連続していたからこそ、民主原則を受け入れられない支配層の面従腹背からジレンマが発生したのです。国民は天皇制国家の下で悲惨な戦争体験をしました。もう嫌な戦争はないという開放感に国民は浸りました。それはしっかりと戦後社会に根付いています。だから国民は「押しつけ憲法」は非常に望ましい憲法として全面的に受け入れました。戦争放棄の憲法9条は輝かしい理想を示しました。しばらくするとこの陶酔感は醒め、そろそろ占領軍は出て行ってほしいという感情になります。第2次世界大戦に日本とドイツに起ったことは、国民ごとの戦前と戦後の価値観の断絶です。それは一過性の変化ではなく、不可逆的、永続的なイデオロギー転換であり、旧に復する動きはがあれば、戦後の国際秩序からの逸脱。反逆と見なされます。第1次世界大戦と第2次世界大戦を画する大きな相違点は、第2次世界大戦ごにはじまる核兵器を中心とする東西冷戦です。自由主義と共産主義の世界的イデオロギー抗争が起きたことです。戦争が君主戦争の相互尊を旨とする軍人と君主どうしの戦争から、近代総力戦のナショナリズムどうしの戦に移行しました。そこには一定のルールはありません。まじにガチンコ勝負で妥協の余地はありません。相手の悪を最終的に壊滅するか永久に無害化するまで選択肢はありません。そこに「無条件降伏」という概念が生まれました。無条件降伏は1885年の米国の南北戦争に始まるとされます。第1次世界大戦までは、物理的破壊に加えて敗戦国の精神的・倫理的な基盤までもが破壊されることはなかった。それで敗戦国に怨嗟を残さなかった。しかし第2次世界大戦ではナチスのユダヤ人虐殺という「人道に対する罪」がドイツ国民の精神的・倫理的な基盤までも破壊した。戦前の考えと価値観を否定し、戦勝国の価値観に宗旨替えをすることが求められ、このことを条件として戦後の国際秩序に復帰が認められることになった。世界戦争がそれまでの古典型戦争と違う点は、1国と1国の戦争ではなく、第1次世界大戦からグループ間の戦争だということです。そしてそれは同時に価値観とイデオロギーの戦争だということです。古典型戦争は領土紛争で、国益と国益のぶつかり合いです。戦争は他の手段をもってする政治の延長でした。しかしグループ間の戦争は違います。国益は濃厚に絡んでいますが、国益よりは上位の概念、つまり大義(イデオロギー)が必要です。またそこにあるのは君主国ではなく、民衆・労働者を主体とする国民国家があります。イデオロギーが浸透する国際コミュニティが存在しなければならない。第1次世界大戦は、この国際的な概念の共同体を背景として、国民一人一人を結び付けたのです。第1次世界大戦は1914年サラエボでオーストリア皇太子がセルビア人の民族主義者によって殺害された事件に端を発します。オーストリアがセルビアに宣戦布告して1ヶ月半くらいで、イギリス、フランス、ロシア(協商国)とオーストリア、ドイツ、、オスマントルコ(同盟国)のグループに分かれた世界大戦に変貌を遂げました。銃・大砲型の戦争から、戦車、飛行機、毒ガス兵器を投入した総力戦となり、飛躍的に戦死者が増える長期戦となりました。すると軍事力は兵站の確保という経済戦の問題になった。近代軍事技術が投入され、戦場と銃後の区別が無くなり国内全体が戦争状態になった。戦闘員と非戦闘員は無差別に殺害されました。19世紀後半は西欧では広い意味での近代国民国家の形成期にあたり、ナショナリズム、労働者運動と社会主義党派の国際組織が生まれた。1889年には第2インターナショナルが結成された。1907年のシュトゥガルト決議で内戦から革命へという戦略が出された。まだ第1次世界大戦では同盟国と協商国のイデオロギーの明確な差異はなかった。国際コミュ二ティの素地が市民・労働者階級の勃興という形で整ってきたいわば形成途上期にあったというべきでしょう。国際的な郵便制度や航海規則をまとめる条約締結の動きが活発化した時代でした。戦争中・戦後に提唱された米国のウイルソンの「14か条の平和原則」1918年、国際連盟1920年、国際司法裁判所1922年、パリ不戦条約1928年などが次々と締結されました。そして第1次世界大戦後、一連の平和志向の国際協調の動きが理念として国際政治の課題となった。第1次世界大戦の中で最大の出来事はレーニンの革命によって1917年ソビエト連邦が成立したことです。レーニンは「平和に関する布告」を出して、「即時停戦」、「無賠償」、「無併合」、「民族自決」、「秘密外交の廃止」を全交戦国に提案した。レーニンの「平和に関する布告」発表の二ヶ月後、自由主義陣営から米国大統領ウイルソンは「14か条の平和原則」を公表しました。第1次世界大戦はlこれまでと地続きの戦争と考えられたのですが、間にロシア革命を挟んで、戦争が終わった時には、もう理念とイデオロギーなしでは解決できない世界大戦の様相を示していたのです。

(つづく)