ブログ 「ごまめの歯軋り」

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読書ノート 坂井榮太郎著 「ドイツ史十講」 岩波新書(2003年)

2015年03月23日 | 書評
小邦君主乱立で統一と議会政治が遅れた学問の国ドイツ 第8回

第7講 「ドイツ帝国」 (19世紀後半ー20世紀初め)

ドイツ帝国は25国からなる連邦国家である。プロイセン直轄の北ドイツ連邦を土台とし、プロイセン1国で全ドイツの2/3を占める。小ドイツというより大プロイセンと言った方がいい。プロイセン国王が皇帝となった。皇帝が帝国宰相を任命して帝国の政治を行わせる。帝国議会参議院の議席配分は全58票のうちプロイセンが17を占める。拒否権が14票なので、プロイセンにとって不都合な法案は拒否できたという程度である。一応議会のチェックアンドバランスが成り立っていた。帝国議会と連邦参議院との関係もバランスを取っている。帝国議会は当時のヨーロッパで最も民主的な男子普通選挙でえらばれ、法律の議決権や予算審議権をもつ。連邦参議院は法律の認可権を持ち最終決定権は参議院にあった。この政治システムの中で相当の政治力を持たないと動かせない勢力均衡型の政治体制であった。そのなかで1890年まではビスマルク時代と言われた。統一ドイツ帝国がヨーロッパで存在するためにはバランスに心を砕かなければならなかった。ビスマルクの外交方針はフランス以外の国と友好関係を築くことであった。1879年「独墺同盟」、1882年「独墺伊同盟」、なかでも英国との友好関係を第1とした。ビスマルクは内政では強権的にふるまった。穏健自由主義勢力をパートナーとし、中央党によるカトリック勢力は弾圧した。カトリック教会を国家に服従させるための「文化闘争」を展開し、1873年「五月諸法」の各種教会規制法を成立させた。1878年「社会主義者鎮圧法」は効果はなかったといわれる。「飴と鞭政策」で1880年代には社会政策立法は「医療保険法」、「災害保険法」、「老齢・疾病保険法」などを施行したが、1875年ドイツ社会民主党という社会主義政党が生まれた。ドイツ政界はビスマルク派の国民自由党は工業界を代表し、保守党は農業界を味方にし、カトリック政党として中央党が、労働者の政党として社会民主党があった。ドイツ経済は1873年の恐慌で低迷したが、1895年から第1次世界大戦前は好況期に入った。ドイツ経済の牽引車は豊富にあった「石炭と鉄」に象徴される重工業が中心で、電機や化学工業が世界をリードした。この時代にドイツは農業国かた工業国に転換しイギリスと並ぶ工業製品の輸出国であった。ビスマルクが引退してからは、宰相の地位はカプイヴィ(1890-94)、ホーエンローエ(1894-1900)、ビューロ(1907-09)、ホルヴェーク(1909-17)と受け継がれた。各政府とも支持政党の組み合わせに苦労し、安定多数には成功しなかった。ホルヴェーク時代には1912年社会民主党が第1党になったので非難決議を受けることになった。ビスマルク外交の後に、ヨーロッパの状況は大きく変わった。逆のドイツが孤立化させられることになった。ロシアとの「再保障条約」は破棄され、1894年「露仏同盟」、1904年「英仏協商」、1907年「英露協商」となってドイツとイギリスとの関係は悪化した。ドイツ葉「独墺伊同盟」だけになって、オーストリアがボスニアヘルツェゴヴィナを併合しセルビアがこれに反発して、ドイツを巻き込んで第1次世界大戦の導火線となった。帝政ドイツ社会の特徴は、軍国主義、学問業績の素晴らしい国、テクノクラートという大学と資格社会の国であった。人口は急速に増大し、1871年に約4千万人、1914年に6700万人となった。ベルリンの都市改造、インフラストラクチャーの公営化が進み、人口は200万人、都市職員は1万人という文字通り「世界都市」となった。

(つづく)