ブログ 「ごまめの歯軋り」

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読書ノート 柴田三千雄著 「フランス史10講」 岩波新書

2015年03月11日 | 書評
絶対王政・革命・共和政・帝政と揺れ続けた欧州の中のフランス 第8回

第5講 啓蒙の時代 (18世紀)

 ルイ14世後のフランスは比較的平穏であったが、18世紀後半からフランスのみならずヨーロッパ地域世界は再編成期を迎える。18世紀後半は第2期のグローバル化の時代で、それは「啓蒙」と呼ばれる時代である。大西洋経済の確立による経済的繁栄、英仏の覇権争い、新興国ドイツ・ロシアの台頭がそれぞれの国家の構造転換を促した。ルイ14世は4つの征服戦争を企てた。ネーデルランド継承戦争(1667-68)、オランダ戦争(1672-78)、ファルツ戦争(1688-97)、スペイン継承戦争(1701-14)を行ったが、フランス・スペインの統一、ネーデルランド獲得はならなかった。18世紀初めの国際関係は、イギリス、フランス、オーストリアの3強国の鼎立となった。イギリスは海洋国家となったが、フランスは海洋・大陸国家であるのでオーストリアのハプスブルグ家との抗争で国家財政を圧迫してきた。ルイ15世(1715-74)の時代はルイ14世時代への反動から、専制と豪華絢爛さの重苦しさから脱し、快適さ機知に富む都会的センス(ロココ風)がもてはやされた。政体は国王専制の「最高国務会議」を廃し「多元会議制」に代った。財務大臣ローを採用してルイ14世の財政破綻の解決のため、金融政策と植民地政策を進め金融バブルを引き起こした。バブルははじけたが1730年代は経済発展のモデルとなった。イギリスとは協調主義を取り国際関係は比較的穏やかだった。しかし18世紀後半は国際関係の激変期を迎える。ロシアではピョートル大帝(1682-1725)の文明開化政策は拡張主義となり、ドイツではプロイセンのフリードリッヒ2世(1740-86)がオーストリア継承戦争(1740-48)を起した。するとフランスはオーストリアと組み、イギリスがプロシアと組んで7年戦争(1756-63)となった。フランスはこの戦争で大打撃をこうむった。1763年のパリ条約で北米の海外植民地をイギリス・スペインに奪わた。1772年ロシアとプロイセンはポーランドを分割し、トルコ、スウェーデンを破った。フランスの友好国が次々敗れるということは、フランスの国際的地位の低下を意味し、国内では危機意識が高まった。フランスは財政難のために軍を出せなかったのである。18世紀前半はヨーロッパ経済は好況期に入り、特の大西洋沿岸部の経済は進展し、大陸内部や地中海沿岸との経済格差は拡大した。イギリスは最大の恩恵を受け、農業や工業の機械化が始まりつ次の時代の産業革命を準備した。フランスも「プロト工業化」といった農村部の産業資本主義の発展を見た。この経済力が7年戦争で植民地争奪戦を引き起こしたのである。

 啓蒙の時代の社会構造をみると、まず階級対立である。ブルジョワの経済力が強まって貴族の特権と衝突するが、貴族とブルジョワは互い排除する敵対関係になるのではなく、両者の社会的混交が進んで、旧エリートから新エリートへの移行が始まっていた。同時代のイギリスでは貴族的な秩序原理を保ちながら、ゆっくりと平和裏に社会的移行を達成した。しかし新エリートの形成に温度差があり、閉塞状況におかれた階層が「ストレスゾーン」を形成した。これが都会の民衆層であった。都会ではさまざまな階層の人が意見を交わす場が増えてきた。国家機構から自立した民レベルの社会的結合関係が進んだのである。ブルジョワが「社団」的な公共圏を形成した市民社会の「公論」だけではなく、刊行物やパンフが行き交う世界で意見を交換することは「世論」形成である。絶対王政の政治秩序や正統性は絶対ではなく批判される対象であり、既存の権力を超えた「理性的な公正な意見」が求められた。国家機構はつねに「異議申し立て」に曝されるという新しい公共圏が外部に生まれたのである。光を与えるという意味のリュミエール「啓蒙思想」が民衆を啓示する時代がやってきた。フランスでは以前から高かった文化レベルに立ち、百家総鳴というべき思想家群が輩出した。エリート層からすると民衆は抑圧すべき危険な存在ではなく、教化すべき愚昧な存在に映った。国家の凝集力を高め民衆をより統合する必要が生じたのである。これが「啓蒙」の時代であった。18世紀後半のフランス国家において、財政再建の必要性はコンセンサスが生まれたが、その改革から革命に至ったのだ。まず1749年に聖職者と貴族に「20分の1税」を課した。ベルタン財務総監は規制緩和の自由主義的経済改革を行たが、高等法院の抵抗にあい不徹底の終った。1770年には高等法院はストライキを決行したので、大法官モブーは司法改革を行い、高等法院を改組し売官制度を廃止し有給裁判官に変えた。1774年にルイ16世(1774-92)が即位すると、この改革は撤回された。この段階でフランスは「啓蒙専制主義」に傾斜している。モブーの司法改革は啓蒙専制主義の典型であったが、改革断行力に欠いたものに終わった。アンシャンレジームの貴族王権の原理を維持したまま中央集権の強化を図るとどうしても専制に傾かざるを得なかった。ルイ16世は次に開明官僚テゥルゴを任命し自由主義改革を強行した。いずれの改革も高等法院の抵抗にあって対立し、高等法院は全国三部会を1789年5月1日に開催することを要求した。こうした政治危機は戦争の財政難を契機に王権と中間団体との対立からおきた。これが革命の背景の一つをなした。

(つづく)