福島原発事故は日本統治システムの腐敗構造を曝露 第16回
5)原発政策と「日本病」 (2)
2005年6月、東京電力勝又社長、7月1日経産相中川昭一氏に福島県がまとめた調査結果報告書を手渡し善処を求めた。しかし福島県の安全確保の要望は何一つ入れられずに、2005年7月「原子力政策大綱」が発表され、10月11日原子力委員会で「原子力政策大綱」は了承された。六ヵ所村の再処理工場は操業延期を続け、福井県敦賀原発の高速増殖炉「もんじゅ」は1995年の事故以来止まったままである。誰一人プルサーマルで溜まったままのプルトニウムを消費できるとは思っていない。おそらく国際社会に対してのゼスチャー程度にしか考えていないというのが実態だろう。日本では使用済み核廃棄物の対策に答えられる具体案を持っている人はいない。責任者の顔が見えず(担当官僚でさえ3年限りで代わってゆく、いわんや大臣は1年以内で代わる)、誰も責任を取らない日本型社会は場当たりの政策のつなぎ合わせと、先輩の作った政策の見直しは許されない官僚制度の枠のなかで、破局に向かって一目散に全力疾走しているのである。日中太平洋戦争で敗戦に向かってひた走りした教訓を忘れたかのようである。ドイツと違って敗戦をしっかり反省しないだらしない国になった。2006年1月24日原子力委員会は、各電力会社のプルトニウム利用計画を承認した。入りと出をあわせただけのお粗末な計画書である。これは計画だけで実現しないことは書いた電力会社一番良く知っている。しかし2月7日佐賀県知事は玄海原発3号機でプルサーマル計画を容認した。3月31日青森県六ヵ所村の動燃再処理工場が計画から6年遅れ建設費2兆1900億円をかけて、使う充てもないのに見切り発車的に試運転を開始した。同年5月、原子力委員会の耐震指針検討分科会は25年ぶりに指針を見直し、改定指針案を取りまとめた。パブリックコメントにおいて、改定案に対する大幅修正を求める神戸大学名誉教授の地震学者石橋氏は抗議の辞任をした。2006年8月28日、何一つ修正案意見を取り入れず、原案通りに可決する委員会第48回分科会に対して石橋氏は「意見を寄せてくださった方々への背信行為である。私はこの分科会の正体、本性がよく分かった。そして原子力安全行政がいかなるものかも改めて分かった」という。石橋氏の辞任後2007年7月新潟県中越地震が柏崎原発を直撃し、7基の原発は自動停止し、1台から火災が発生し放射能漏れをが起きた。2008年12月中部電力浜岡原発1,2号機が耐震性不足で廃炉を検討していることが明らかになった。そして六ヵ所村の再処理工場もふたたび試運転を延期した。
(つづく)
5)原発政策と「日本病」 (2)
2005年6月、東京電力勝又社長、7月1日経産相中川昭一氏に福島県がまとめた調査結果報告書を手渡し善処を求めた。しかし福島県の安全確保の要望は何一つ入れられずに、2005年7月「原子力政策大綱」が発表され、10月11日原子力委員会で「原子力政策大綱」は了承された。六ヵ所村の再処理工場は操業延期を続け、福井県敦賀原発の高速増殖炉「もんじゅ」は1995年の事故以来止まったままである。誰一人プルサーマルで溜まったままのプルトニウムを消費できるとは思っていない。おそらく国際社会に対してのゼスチャー程度にしか考えていないというのが実態だろう。日本では使用済み核廃棄物の対策に答えられる具体案を持っている人はいない。責任者の顔が見えず(担当官僚でさえ3年限りで代わってゆく、いわんや大臣は1年以内で代わる)、誰も責任を取らない日本型社会は場当たりの政策のつなぎ合わせと、先輩の作った政策の見直しは許されない官僚制度の枠のなかで、破局に向かって一目散に全力疾走しているのである。日中太平洋戦争で敗戦に向かってひた走りした教訓を忘れたかのようである。ドイツと違って敗戦をしっかり反省しないだらしない国になった。2006年1月24日原子力委員会は、各電力会社のプルトニウム利用計画を承認した。入りと出をあわせただけのお粗末な計画書である。これは計画だけで実現しないことは書いた電力会社一番良く知っている。しかし2月7日佐賀県知事は玄海原発3号機でプルサーマル計画を容認した。3月31日青森県六ヵ所村の動燃再処理工場が計画から6年遅れ建設費2兆1900億円をかけて、使う充てもないのに見切り発車的に試運転を開始した。同年5月、原子力委員会の耐震指針検討分科会は25年ぶりに指針を見直し、改定指針案を取りまとめた。パブリックコメントにおいて、改定案に対する大幅修正を求める神戸大学名誉教授の地震学者石橋氏は抗議の辞任をした。2006年8月28日、何一つ修正案意見を取り入れず、原案通りに可決する委員会第48回分科会に対して石橋氏は「意見を寄せてくださった方々への背信行為である。私はこの分科会の正体、本性がよく分かった。そして原子力安全行政がいかなるものかも改めて分かった」という。石橋氏の辞任後2007年7月新潟県中越地震が柏崎原発を直撃し、7基の原発は自動停止し、1台から火災が発生し放射能漏れをが起きた。2008年12月中部電力浜岡原発1,2号機が耐震性不足で廃炉を検討していることが明らかになった。そして六ヵ所村の再処理工場もふたたび試運転を延期した。
(つづく)