ブログ 「ごまめの歯軋り」

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エコビジネス お粗末

2008年10月03日 | 時事問題
asahi.com 2008年10月3日6時32分
ごみ発電施設「失敗」 地元自治体、補助金3億円返還へ
 ごみを処理しながら発電して年間2千万円の収入が見込まれる「世界初の施設」として、鹿児島県いちき串木野市が導入したごみ処理施設について、会計検査院が「施設の審査が不十分で、計画通りに稼働していない」と指摘していたことが分かった。指摘を受け、環境省などは同市に国の補助金約3億1千万円の返還を求める考えだ。 市は返還に応じる意向で、開発した東京工業大学大学院吉川邦夫教授や同教授が社長を務める設計会社「エコミート・ソリューションズ」、建設した三井三池製作所メーカーらを相手取り、建設費など約10億5千万円の損害賠償訴訟を起こす方針を固めている。

地方自治体環境事業多難 大学が絡むエコビジネスには損害賠償能力はあるのだろうか 
そもそも自治体が環境事業と云う公共性の強い事業に、利益が出ると云うビジネスに乗せられたスケベ根性が災いの元。つくば市の学校に環境教育のためと称した風力発電施設の失敗は早稲田大学教授の指導に拠った。大学教授の技術計算もいい時ばかりのタラレバ計算であったのだろう。風の少ない地域で「風が吹かなきゃ電気はできない」と云う言い訳は、事前検討段階の失敗だ。大学教授のビジネス能力は斯くもお粗末。また大学教授のサイドビジネスにはたして企業としての賠償負担能力はあるのだろうか。

読書ノート 橋本治著 「日本の行く道」 集英社新書

2008年10月03日 | 書評
今の日本の社会はどっかおかしい もうひとつの選択肢を 第11回 最終回

第四章 「家」を考える

 昔から農業の場合、家は一つの生産システムであった。一生そこにいる場所が家であった。会社も一生そこにいる場所であれば、「家族的経営」とか「終身雇用」が生きていた時代もあった。終身雇用は日本が生み出した一つの文化である。安心と云うセーフティネットが動く場であった。ところが会社の規模が大きくなり、労働の熟練度が要求されなくなると、雇用が不安定になり、労働者が移動し始めた。そしてバブル崩壊後労働コストの切り下げから海外へ工場がシフトし、国内労働市場は危機に陥った。契約社員と云う制度によって格安で不安定な経営者にとって使い勝手のいい労働力が生まれた。こうして終身雇用を特徴とする日本的労働システムが崩壊した。家も家族が出て行ったり、激しく移動したら崩壊である。機械化・合理化によって労働の省力化が成功すると、農業も会社も人はいらない。東京と地方の関係も同じである。東京が労働力を吸収できるから地方から人がいなくなる。道路を作って地方の活性化と云うスローガンは、道路が出来たら地方から人がいなくなってかえって過疎化したという笑うに笑えない事態が現実となった。人が幸福になるための生産システムではなく、利潤が得られるための生産システムは人を疎外すると云う悲劇的な結果がもたらされた。



経済問題  富田俊基著 「財投改革の虚と実」 東洋経済新報社

2008年10月03日 | 書評
財政投融資の実の改革は財投事業の見直しだ 第11回

第二章 「マーケットにおける財投機関債」(3)

機関債の中でも新東京国際空港、日本鉄道建設公団、水資源開発公団、日本道路公団などの建設事業系の財投機関が発行した機関債のスプレッドは2002年度に急上昇した。一時は0.8%ほど金利はアップした。これに対して金融系機関債のスプレッドは0.1%と低く変動はなかった。2006年度は建設事業系と金融系の財投機関債のスプレッドは0.2%になっている。市場ではマイカル、エンロンの破綻で信用リスクへの警戒感が強まったためである。2003年にはいるとデフレ懸念から国債金利の引き下げが進み十年国債金利は0.435%と史上最低となった。それが建設事業系の機関債のスプレッド上昇の一因でもあった。道路公団民営化の目的は借金返済にありと猪瀬直樹委員は主張していた。2004年になって道路公団の約40兆円の債務返済の方針が決められて国債とのスプレッドは縮小に転じたのである。市場は政治を見て金利を決めている事が実証された。2005年9月の郵政選挙で郵政民営化が確定すると、政策金融改革が俎上に上がった。政策金融改革によって中小公庫、国民公庫など4つの機関の統合が図られると財投機関債も統合されることになり、事業系と金融系のスプレッドは2006年には著しく縮小した。2007年度財投機関債の発行は五年と十年物が中心である。機関債の発行コスト(手数料上乗せ)は5年債で0.227%、10年債で0.267%である。これが国民負担の直接の増加分である。



文藝散歩 五味文彦著 「源義経」 岩波新書

2008年10月03日 | 書評
源平合戦の英雄「源義経」像を文献・史料から探る 第24回

9)静物語ー「吾妻鏡」、「玉葉」より

1186年2月義経の愛妾静は捕らえられ、母磯禅師とともに鎌倉に送られた。義経と行家探索の宣旨は「衾の宣旨」といわれるが、畿内一円の国に及んだ。「玉葉」によると、3月に義経は伊勢神宮に祈願のため宝剣を献じている。都にいた北条時政は呼び戻され、甥の北条時定と交代した。頼朝の猜疑心は北条家にも及んでいて朝廷との交渉を極度に警戒していた。5月北条時定は源行家・光家親子を討ち取った。6月義経の母常磐が生け捕られ、北条時定は宇陀にいた義経の婿源有綱を討ち取った。伊勢義盛、堀景光、佐藤忠信らを討伐しこうして義経の残党狩が終わった。院中の義経派藤原範季の罷免も行われた。鎌倉では藤原俊兼と平盛時が静の尋問に当たって、吉野から出た義経の行方を尋ねた。その後の足取りは分らなかった。7月に静は義経の男子を出産したが、鎌倉殿は嬰児を処分した。そうして9月には許されて静と母は都へ帰った。

母磯禅師と静は白拍子の芸を継承するものであった。今様を謳う遊女は江口や神崎、青墓などを根拠地にしていたのに対して、白拍子は都を中心に活動していた芸能集団であった。遊女と白拍子は同じではないかと思うが、遊女の芸能については「平家物語」の「妓王」に委しいので紹介する。

妓王
白拍子という男舞いを舞う遊女、妓王、妓女と云う姉妹がいた。平安時代末期の芸人である白拍子の社会的地位は低く歌舞伎役者が河原乞食といわれたように、白拍子は遊女(遊び目)と呼ばれた。権力者清盛の寵を受け母と姉妹の三人は毎月米百石銭百貫というお手当てを貰って贅沢な暮らしができた。そこに白拍子の「仏」と云うライバルが登場し16歳と云う若さを武器に清盛の寵を奪った。清盛の西八条邸を追われた妓王姉妹は、又貧しい生活に戻って屈辱の生活に甘んじた。清盛の新しい愛人「仏」の慰みに妓王は清盛邸に呼ばれたが、情けない仕打ちに世をはかなんで親子三人で奥嵯峨の庵に逃げ、そこで念仏三昧の生活を送った。妓王21歳のことである。暫くすると「娑婆の栄華は夢の夢、楽しみ栄えて何かせん」といって、栄華を捨てた「仏」が妓王ら三人の仏道生活をともにすることになった。これで清盛の愛人達の仏道の共同生活となる。女達の反乱に出会った清盛はさぞ驚いたことであろう。