とぎれとぎれの物語

瀬本あきらのHP「風の言葉」をここで復活させました。小説・エッセイをとぎれとぎれに連載します。

幽霊と妖怪

2010-10-06 22:13:38 | 日記
幽霊と妖怪


 水木しげる氏の『水木しげるの妖怪事典』を最近面白く読んだ。読みながら、池田弥三郎の『日本の幽霊』を思い出していた。そして、「おばけ」・「幽霊」とか呼ばれているものと「妖怪」・「変化」と呼ばれる範疇のものは同じなのか、違うのか、ということを考えた。
 柳田国男の考えを発展させて、池田弥三郎は、場所に執する霊(念)を「妖怪」、人に執する霊を「幽霊」とすべきだと説いた。
 主としてある特定の人への恨みや特別な執着のために人間の姿で出現した霊を「幽霊」。特定の人への思いはないが、ある特別な土地に憑いていて、人が来ると現れるのが「妖怪」。「変化」は主として動物が姿を変えて現れるもの、また神仏が人間に姿を変えて現れたもの。それでは「おばけ」は。うーん、こりゃ漠然としているなあ。
 私は、その池田氏の説をもとにして、こう理解している。もし、間違いがあれば、ご指摘いただきたい。
 水木しげる氏はこういう方面の学者でもあるので、書き上げた姿はユーモラスだが実感があり、説得力がある。
 で、私はそういうものを現実に見たことがあるか、と振り返ってみても一度もないのである。私はあるお寺の墓地会の役員もしていて、お墓に親しんで(?)いるが、夜歩いても、家族の幽霊にお目にかかったことがない。一度でもいいから会いたいと思っているが、・・・。
 夢の中で死んだ家族会ったことが数回ある。しかし、数日間でそのイメージは消滅してしまう。水木氏はそういうものは現実に居ると考えておられるようである。『遠野物語』にもそういうものが出てきて面白いが、現代でも会うことが可能だろうかと考えると、疑問である。来世の「霊魂」ということになると、私はかなり信じているが、このことと繋げてはいけないと思う。
 私は今夏、境港に行って妖怪のブロンズ像を撫でて帰った。手で触れるようにセットしてくれた境港のお方に感謝している。あのツルッとした感触が手先にまだ残っている。私はそれでいいのだと思った。あの偶像の感触の中に「妖怪」は住んでいる。私は、そう考えて、今落ち着いているのである。
 

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