海
瀬本あきら
下手な三段謎である。『わかば』と掛けて何と解く? 女優田中裕子さんと解く。……
してその心は?
妻がNHK連続テレビ小説『わかば』を今朝も視ていた。飯を食べながら視ていた。私
は続けて視ていないので、ひとつも面白くない。『さくら』、『まんてん』、『こころ』、
『てるてる家族』、『天花』、『わかば』。短期間でタイトルが次々変わるので、何が何
だか分からなくなる。しかし妻は頭がいいから、よく切り替えが利く。しかもこまめに視
ている。
まあいい。私は退職後再就職したが、向こうの都合で解雇された身だ。暇を持て余して
いる。しばらく付き合うか。そう思って一緒に視ていた。すると、いやいや私は暇ではな
い、という気持ちが込み上げてきた。そうだ、一年と二ヶ月の女の子の孫がいる。だから
孫の両親が出勤した後の子守りは大変である。私たち夫婦はまた新婚時代に返ったような
忙しさを味わうこともある。しかし、今、その孫は二階で朝食後の睡眠を楽しんでいる。
そういうときは家の中はまことに静かなものである。そんなこんなで、私はテレビを視な
がら『わかば』というタイトルと田中裕子さんを変な方向から繋げてしまう奇妙な想念に
取り付かれていたのである。
……してその心は? 銃後の女の哀しみ惻々と……。
第二作目の『二十四の瞳』の映画は昭和六十二年に公開された。主役の大石先生は田中
裕子さんが演じた。昭和二十九年制作の第一作の主演は高峰秀子さんで大ヒットしたので、
田中裕子さんも演りにくかっただろうと思っていた。ところが、封切りされた作品を視る
と、シャキシャキして飛んでいるといった高峰秀子の大石先生とはまた違うおっとりとし
た感じの包容力のある女性教師像を作り上げていた。これは立派だと思った。キャストが
違うと人物が別物になる。そういったことをまざまざと見せ付けられた思いがした。
壺井栄の原作はよく知られている通り、反戦思想に裏づけされている。これは夫の壷井
繁治の影響が背景にある。プロレタリア文学の色彩が底に流れている。小豆島の岬の分教
場に赴任してきた大石久子先生が十二名の子どもたちと運命的な出会いをするが、時勢は
次第に軍国主義の思想に染められてゆく。そして戦争。成人した島の男の子たちは出征し
て帰らぬ人となってしまう者が出てくるし、同窓生でも目が見えなくなって帰ってくる者
も出てくる。女の子たちも厳しい社会環境の中で苦しみぬいて生きてゆく。死んで行く者
もいる。久しぶりに同窓生が集まって恩師を囲む会を催すが、大石先生は時局の荒波に飲
み込まれていく教え子たちの生き様を悲しむ。彼女自身も夫を戦争に奪われ、子どもも病
で失っていた……。
実は、私は昭和六十三年に小豆島のロケ現場を見に行ったことがある。映画が公開され
た直後だった。オープンセットの分教場、昭和初期の町並みなどを映画のシーンを思い出
しながら私は見て回った。セットの分教場は本物の分教場から少し離れたところに設えて
あった。校庭から瀬戸内海の青い海が見えた。その海は「泣きみそせんせ」と呼ばれるよ
うになっていた母を学校まで舟で送っていった息子「大吉」の海である。その色がいつま
でも私の記憶の底に漂っていた。
十五分の放送時間はすぐ終わる。私はドラマを視るともなく視ていたので、食事はすで
に終わっていた。妻は終わると同時に食べ終えて片づけを始めようとする。私の心の中の
海が突然揺らいだ。
「……泣きたくなったらいつでもいらっしゃい。一緒に泣いてあげる」
突然私がそう言った。すると、ぎょっとしたような目つきになって妻が言う。
「えっ? 何ですか? ……気持ち悪い」
私はそのとき頭がぼやけたようになっていた。だから、恐らくトロンとした眼で妻を見
ていたのだろうか。それは自分で分からないが、今言った言葉が胸のうちで反響していた。
「……一緒に泣いてあげる」
もう一度言うと、妻は手を休めて、私の前の椅子にどかっと座り込んだ。
「ちょっと、あなた、気がおかしくなったんじゃない?」
そう言われて、はっと私は我に返った。
「いや、ごめん、台詞だよ。台詞を急に思い出したんだ。田中裕子の台詞」
「台詞?」
「そうだよ。田中裕子の『二十四の瞳』」
「『二十四の瞳』? それがどうしたの?」
「その中の名台詞だよ。ぐっとくる……」
私はまだほろ苦い余韻を味わっていた。
「それとさっきのドラマとどういう関係があるの?」と妻はいつもの突っ込みを始めた。
「いや、関係はまったくない。ただ、田中……」
「……裕子を見ていて、いつものように飛躍したんですね?」
「まあ、そういうことだ」
やっと理解して貰えた、という安堵感で私は嬉しくなった。
ところが、妻は冷たい視線を送りながら、「痴呆は御免ですよ」ときっぱりと言い放った。
そして、茶碗などを流し台に移し始めた。
私は、自分の部屋に戻ると、『現代日本文学全集』の中の「二十四の瞳」を探し出し、
大石先生の台詞を一つひとつ当たってみた。
ところが、どこにもその台詞らしきもの出てこないのである。第二作目の映画の極めつ
けはその台詞にあると信じていたので、私は少なからずうろたえた。いや、どこかにある
はずだ。いや、ないかもしれない。私は混乱してきた。……痴呆は確実に進行している。
私はそう思って、少し深刻になってきた。
そこで、ビデオレンタルの店でまた借りてきて、飛ばし飛ばししてすべてを視聴した。
裏通りで大石先生と女の子の教え子がひそやかに話している。ここだ、ここだ、と思った。
「……一緒に泣いてあげる」
大石先生は、確かにそう言った。私は、ほっとした。
しかし、原作にないということは、脚本段階で作られたものに違いない。私はそう思っ
た。脚本担当は、第一作、第二作ともに木下惠介氏である。第二作では脚本の書き換えが
なされたかどうかは分からない。どちらにしても名台詞を旨く作ったものだ。私は疲れ果
てた頭でそう思った。やはり、青い海の色が見えていた。女は大きな海だと思った。生き
物はすべて海から産まれ出た。……一緒に泣いてあげる。海はすべてを包み込む。
それから、ふとまた思い出し、レンタル店で黒澤明脚本の『一番美しく』というモノク
ロ映画のビデオを借りてきた。そして、これまた飛ばし飛ばしして「問題」のシーンを確
かめた。
この映画はいわゆる国威発揚、戦意高揚のために制作されたものである。
敗戦色濃い昭和十九年。奇しくも私が生まれた年である。女子挺身隊として平塚の精密
機械の軍需工場に徴用された若い女性たちが、献身的にお国のために働く姿をドキュメン
タリータッチで描いている。挺身隊が担当していたのは兵器の照準器のレンズを作る作業
である。女子挺身隊は、毎朝工場に出かけるときは鼓笛隊の隊列を組んで行進する。その
姿がりりしい感じがする。主人公はその隊長として信頼されている責任感の強い女性であ
る。その隊長である主役渡辺ツルは矢口陽子さんが演じている。後で彼女は黒澤明氏と結
婚することになる。
ある日、出来たレンズの目盛りを顕微鏡のような器具で修正していた隊長は、隊員の報
告により未修正の一枚があることに気づく。その日他の隊員と一緒に修正したレンズは夥
しい枚数である。責任感を感じた隊長は工場の者が止めるのも聞き入れず、一人で再検査
を始める。徹夜に等しい労働を繰り返すのである。疲労困憊する体に鞭打って。そして、
過酷な労働の結果やっと見通しがたつ。明け方帰ろうとすると、別室で男性の工場の責任
者が待っていて、よく頑張ったねと声を掛けて慰労する。
「美しい」のはその一途な責任感だろう。一枚でも焦点の狂ったレンズが戦闘機や兵器
の照準器に取り付けられれば、大切な戦闘手段を失うことになる。その一枚を探すことが
お国のためになる。だから、時間との闘いだし、我が女の命を燃やし尽くすことにもなる。
そうした熱情が視ている者の胸を打った。
そうだ、「わかば」……。「わかば」が「問題」である。「わかば」というと唱歌を私
は思い出す。唱歌の「若葉」は昭和十七年に作られている。「あざやかなみどりよ、あか
るいみどりよ、鳥居をつつみ、わら屋をかくし、かおる、かおる、若葉がかおる」。私は
昭和十九年生まれである。小学校のころ沢山唱歌を歌ったが、その中でもこの「若葉」が
一番好きであった。初夏の緑に覆われた平和な村々の情景が頭の中に広がってきた。その
唱歌をこの映画の中で聴くことになるとは夢にも思わなかった。
隊長とともに働いていた隊員の中で病気や怪我で倒れる者も出てきた。隊員の間に感情
の行き違いが生まれ、ぎすぎすした雰囲気になっていった。その上、レンズの紛失。隊長
の命を掛けた奮闘。隊員は夜になると宿舎の庭に整列した。そして、何とその「若葉」を
斉唱したのである。私は衝撃を受けた。ここで「若葉」が……? どうして? どうして?
という疑問が私の心の中に染み付いた。私の好きな唱歌がこの映画では、テーマ曲として
挿入されている。黒澤明はどうしてこの歌を採用したのか? 私はずっとこの疑問をあた
ためてきた。望郷の歌か、それとも……。
それを歌った場面の正面には「ふるさとの土」と題する木製の看板のような詩碑が建て
られていた。土からすべての恵みは生まれ、父祖伝来の日本の国土もその土の上に築かれ、
人間の歴史も土とともにある。内容は定かではないが、そういうことが記してあったと思
う。そう言えば、隊員はその寮に入るときに、一握りの「ふるさとの土」を持参して庭に
敷き詰めていた。すると、「若葉」は国土の繁栄を祈る賛歌かもしれない。そして、隊長
が身を挺して仕事をしている夜中に、宿舎に残っている隊員がその歌を歌ったということ
は、隊長の志気を称え、無事を祈る気持ちの表れであろうか。
誰か専門家に尋ねれば明快な解答をするだろう。しかし、私はいかなる解答も受け付け
ないほどの衝撃がトラウマのようにへばり付いていた。だから、テレビドラマのタイトル
でも、私の感受性は即座に反応するのである。許せないことはない。問題は、爽やかな初
夏の風景を歌ったこの歌と映画の国粋主義の中で健気に闘う銃後の女の闘志と哀調にはマ
ッチしないと思ったのである。映画の最初に出てくる「討ちてし止まん」の切迫した言葉
と穏やかな「若葉」の曲調は調和しない。そして、作品の底に流れている戦時体制の中で
のヒューマニズムも私にはどう理解していいか分からなかった。もしかして、黒澤明氏は
豊かで平和な国土への回帰の願いをこの歌に密かに託したかもしれない。しかし、それは
私の憶測にすぎない。
「おい! 『わかば』はもしかして哀しい物語なのか?」
古いビデオを視始めた私から逃れて洋間に移っていた妻に大声で問いかけた。
「何言った? 聞こえない」と妻が隣から問い返してきた。
私は居間から出て行って妻の前のソファーにどんと座った。
「『わかば』はもしかして哀しい物語なのか?」
「もうやめて」
そう言って妻はそっぽを向いた。
「だから、『わかば』というドラマは……」
「あなた! そんなに気に掛かるのなら、続けて視さいよ!」
「飛び飛びに視てるけどさぁ……」
「もう何にも言わないで!」
「『わかば』というのは女の子の名前だろ? 原田夏希とかいう女優が演ってる……」
「当たり前じゃないの!」
「その女の子がもしかして哀しい運命を背負っているとか……」
私は執拗に聞いた。
「どうしてそんなに拘るの?」
「いやね、『若葉』という子どもの歌があるだろ。そのことと繋がってきてさ……」
「それで、どうしたの?」
「『若葉』は明るい歌だと思っていたけどさ。黒澤の映画では切実な祈りの歌になって
いる……」
妻は、とうとう黙って俯いてしまった。
「黒澤の『一番美しい』では、大地への祈りの歌もしくは鎮魂歌として歌われている」
「……」
「それが謎なのさ。その訳が知りたい」
妻は「謎」と聞いて、頭を挙げた。
「謎だか何だか知りませんが、そのこととドラマは、全く関係ありません!」
仕舞いには怒りだした。
「だから、『わかば』という言葉の響きが私を刺激したんだよ」
また、黙ってしまった。妻の体全体からぐっと重いものが私に押し寄せてくるような気
持ちがした。
「私が一番好きな唱歌なんだよ」
「あなたの仰っていることは、少しも私には通じません」
「だからさ……」
妻は立ち上がって言った。
「こりゃだめだ」
そう言うと、すっと玄関の方へ出て行った。しばらくしてドアを立てきる大きな音がし
た。私の海は大きなうねりを見せ始めた。
取り残された私は、一人で、「あざやかなみどりよ、あかるいみどりよ、鳥居をつつみ、
わら屋をかくし、かおる、かおる、若葉がかおる……」と歌った。すると、海の波が静ま
り、若葉の爽やかな色が頭に浮かんできた。そして、先ほどの妻の言葉がひょいと頭から
胸の芯まで降りてきた。
「チホウハ ゴメンデスヨ」
私はそうかもしれないと思って急に不安になった。不安になるとじっとしておられない
ような気持ちに追い込まれた。しばらく時間を持て余していると、二階の方から子どもの
泣き声が聞こえてきた。
(了)
瀬本あきら
下手な三段謎である。『わかば』と掛けて何と解く? 女優田中裕子さんと解く。……
してその心は?
妻がNHK連続テレビ小説『わかば』を今朝も視ていた。飯を食べながら視ていた。私
は続けて視ていないので、ひとつも面白くない。『さくら』、『まんてん』、『こころ』、
『てるてる家族』、『天花』、『わかば』。短期間でタイトルが次々変わるので、何が何
だか分からなくなる。しかし妻は頭がいいから、よく切り替えが利く。しかもこまめに視
ている。
まあいい。私は退職後再就職したが、向こうの都合で解雇された身だ。暇を持て余して
いる。しばらく付き合うか。そう思って一緒に視ていた。すると、いやいや私は暇ではな
い、という気持ちが込み上げてきた。そうだ、一年と二ヶ月の女の子の孫がいる。だから
孫の両親が出勤した後の子守りは大変である。私たち夫婦はまた新婚時代に返ったような
忙しさを味わうこともある。しかし、今、その孫は二階で朝食後の睡眠を楽しんでいる。
そういうときは家の中はまことに静かなものである。そんなこんなで、私はテレビを視な
がら『わかば』というタイトルと田中裕子さんを変な方向から繋げてしまう奇妙な想念に
取り付かれていたのである。
……してその心は? 銃後の女の哀しみ惻々と……。
第二作目の『二十四の瞳』の映画は昭和六十二年に公開された。主役の大石先生は田中
裕子さんが演じた。昭和二十九年制作の第一作の主演は高峰秀子さんで大ヒットしたので、
田中裕子さんも演りにくかっただろうと思っていた。ところが、封切りされた作品を視る
と、シャキシャキして飛んでいるといった高峰秀子の大石先生とはまた違うおっとりとし
た感じの包容力のある女性教師像を作り上げていた。これは立派だと思った。キャストが
違うと人物が別物になる。そういったことをまざまざと見せ付けられた思いがした。
壺井栄の原作はよく知られている通り、反戦思想に裏づけされている。これは夫の壷井
繁治の影響が背景にある。プロレタリア文学の色彩が底に流れている。小豆島の岬の分教
場に赴任してきた大石久子先生が十二名の子どもたちと運命的な出会いをするが、時勢は
次第に軍国主義の思想に染められてゆく。そして戦争。成人した島の男の子たちは出征し
て帰らぬ人となってしまう者が出てくるし、同窓生でも目が見えなくなって帰ってくる者
も出てくる。女の子たちも厳しい社会環境の中で苦しみぬいて生きてゆく。死んで行く者
もいる。久しぶりに同窓生が集まって恩師を囲む会を催すが、大石先生は時局の荒波に飲
み込まれていく教え子たちの生き様を悲しむ。彼女自身も夫を戦争に奪われ、子どもも病
で失っていた……。
実は、私は昭和六十三年に小豆島のロケ現場を見に行ったことがある。映画が公開され
た直後だった。オープンセットの分教場、昭和初期の町並みなどを映画のシーンを思い出
しながら私は見て回った。セットの分教場は本物の分教場から少し離れたところに設えて
あった。校庭から瀬戸内海の青い海が見えた。その海は「泣きみそせんせ」と呼ばれるよ
うになっていた母を学校まで舟で送っていった息子「大吉」の海である。その色がいつま
でも私の記憶の底に漂っていた。
十五分の放送時間はすぐ終わる。私はドラマを視るともなく視ていたので、食事はすで
に終わっていた。妻は終わると同時に食べ終えて片づけを始めようとする。私の心の中の
海が突然揺らいだ。
「……泣きたくなったらいつでもいらっしゃい。一緒に泣いてあげる」
突然私がそう言った。すると、ぎょっとしたような目つきになって妻が言う。
「えっ? 何ですか? ……気持ち悪い」
私はそのとき頭がぼやけたようになっていた。だから、恐らくトロンとした眼で妻を見
ていたのだろうか。それは自分で分からないが、今言った言葉が胸のうちで反響していた。
「……一緒に泣いてあげる」
もう一度言うと、妻は手を休めて、私の前の椅子にどかっと座り込んだ。
「ちょっと、あなた、気がおかしくなったんじゃない?」
そう言われて、はっと私は我に返った。
「いや、ごめん、台詞だよ。台詞を急に思い出したんだ。田中裕子の台詞」
「台詞?」
「そうだよ。田中裕子の『二十四の瞳』」
「『二十四の瞳』? それがどうしたの?」
「その中の名台詞だよ。ぐっとくる……」
私はまだほろ苦い余韻を味わっていた。
「それとさっきのドラマとどういう関係があるの?」と妻はいつもの突っ込みを始めた。
「いや、関係はまったくない。ただ、田中……」
「……裕子を見ていて、いつものように飛躍したんですね?」
「まあ、そういうことだ」
やっと理解して貰えた、という安堵感で私は嬉しくなった。
ところが、妻は冷たい視線を送りながら、「痴呆は御免ですよ」ときっぱりと言い放った。
そして、茶碗などを流し台に移し始めた。
私は、自分の部屋に戻ると、『現代日本文学全集』の中の「二十四の瞳」を探し出し、
大石先生の台詞を一つひとつ当たってみた。
ところが、どこにもその台詞らしきもの出てこないのである。第二作目の映画の極めつ
けはその台詞にあると信じていたので、私は少なからずうろたえた。いや、どこかにある
はずだ。いや、ないかもしれない。私は混乱してきた。……痴呆は確実に進行している。
私はそう思って、少し深刻になってきた。
そこで、ビデオレンタルの店でまた借りてきて、飛ばし飛ばししてすべてを視聴した。
裏通りで大石先生と女の子の教え子がひそやかに話している。ここだ、ここだ、と思った。
「……一緒に泣いてあげる」
大石先生は、確かにそう言った。私は、ほっとした。
しかし、原作にないということは、脚本段階で作られたものに違いない。私はそう思っ
た。脚本担当は、第一作、第二作ともに木下惠介氏である。第二作では脚本の書き換えが
なされたかどうかは分からない。どちらにしても名台詞を旨く作ったものだ。私は疲れ果
てた頭でそう思った。やはり、青い海の色が見えていた。女は大きな海だと思った。生き
物はすべて海から産まれ出た。……一緒に泣いてあげる。海はすべてを包み込む。
それから、ふとまた思い出し、レンタル店で黒澤明脚本の『一番美しく』というモノク
ロ映画のビデオを借りてきた。そして、これまた飛ばし飛ばしして「問題」のシーンを確
かめた。
この映画はいわゆる国威発揚、戦意高揚のために制作されたものである。
敗戦色濃い昭和十九年。奇しくも私が生まれた年である。女子挺身隊として平塚の精密
機械の軍需工場に徴用された若い女性たちが、献身的にお国のために働く姿をドキュメン
タリータッチで描いている。挺身隊が担当していたのは兵器の照準器のレンズを作る作業
である。女子挺身隊は、毎朝工場に出かけるときは鼓笛隊の隊列を組んで行進する。その
姿がりりしい感じがする。主人公はその隊長として信頼されている責任感の強い女性であ
る。その隊長である主役渡辺ツルは矢口陽子さんが演じている。後で彼女は黒澤明氏と結
婚することになる。
ある日、出来たレンズの目盛りを顕微鏡のような器具で修正していた隊長は、隊員の報
告により未修正の一枚があることに気づく。その日他の隊員と一緒に修正したレンズは夥
しい枚数である。責任感を感じた隊長は工場の者が止めるのも聞き入れず、一人で再検査
を始める。徹夜に等しい労働を繰り返すのである。疲労困憊する体に鞭打って。そして、
過酷な労働の結果やっと見通しがたつ。明け方帰ろうとすると、別室で男性の工場の責任
者が待っていて、よく頑張ったねと声を掛けて慰労する。
「美しい」のはその一途な責任感だろう。一枚でも焦点の狂ったレンズが戦闘機や兵器
の照準器に取り付けられれば、大切な戦闘手段を失うことになる。その一枚を探すことが
お国のためになる。だから、時間との闘いだし、我が女の命を燃やし尽くすことにもなる。
そうした熱情が視ている者の胸を打った。
そうだ、「わかば」……。「わかば」が「問題」である。「わかば」というと唱歌を私
は思い出す。唱歌の「若葉」は昭和十七年に作られている。「あざやかなみどりよ、あか
るいみどりよ、鳥居をつつみ、わら屋をかくし、かおる、かおる、若葉がかおる」。私は
昭和十九年生まれである。小学校のころ沢山唱歌を歌ったが、その中でもこの「若葉」が
一番好きであった。初夏の緑に覆われた平和な村々の情景が頭の中に広がってきた。その
唱歌をこの映画の中で聴くことになるとは夢にも思わなかった。
隊長とともに働いていた隊員の中で病気や怪我で倒れる者も出てきた。隊員の間に感情
の行き違いが生まれ、ぎすぎすした雰囲気になっていった。その上、レンズの紛失。隊長
の命を掛けた奮闘。隊員は夜になると宿舎の庭に整列した。そして、何とその「若葉」を
斉唱したのである。私は衝撃を受けた。ここで「若葉」が……? どうして? どうして?
という疑問が私の心の中に染み付いた。私の好きな唱歌がこの映画では、テーマ曲として
挿入されている。黒澤明はどうしてこの歌を採用したのか? 私はずっとこの疑問をあた
ためてきた。望郷の歌か、それとも……。
それを歌った場面の正面には「ふるさとの土」と題する木製の看板のような詩碑が建て
られていた。土からすべての恵みは生まれ、父祖伝来の日本の国土もその土の上に築かれ、
人間の歴史も土とともにある。内容は定かではないが、そういうことが記してあったと思
う。そう言えば、隊員はその寮に入るときに、一握りの「ふるさとの土」を持参して庭に
敷き詰めていた。すると、「若葉」は国土の繁栄を祈る賛歌かもしれない。そして、隊長
が身を挺して仕事をしている夜中に、宿舎に残っている隊員がその歌を歌ったということ
は、隊長の志気を称え、無事を祈る気持ちの表れであろうか。
誰か専門家に尋ねれば明快な解答をするだろう。しかし、私はいかなる解答も受け付け
ないほどの衝撃がトラウマのようにへばり付いていた。だから、テレビドラマのタイトル
でも、私の感受性は即座に反応するのである。許せないことはない。問題は、爽やかな初
夏の風景を歌ったこの歌と映画の国粋主義の中で健気に闘う銃後の女の闘志と哀調にはマ
ッチしないと思ったのである。映画の最初に出てくる「討ちてし止まん」の切迫した言葉
と穏やかな「若葉」の曲調は調和しない。そして、作品の底に流れている戦時体制の中で
のヒューマニズムも私にはどう理解していいか分からなかった。もしかして、黒澤明氏は
豊かで平和な国土への回帰の願いをこの歌に密かに託したかもしれない。しかし、それは
私の憶測にすぎない。
「おい! 『わかば』はもしかして哀しい物語なのか?」
古いビデオを視始めた私から逃れて洋間に移っていた妻に大声で問いかけた。
「何言った? 聞こえない」と妻が隣から問い返してきた。
私は居間から出て行って妻の前のソファーにどんと座った。
「『わかば』はもしかして哀しい物語なのか?」
「もうやめて」
そう言って妻はそっぽを向いた。
「だから、『わかば』というドラマは……」
「あなた! そんなに気に掛かるのなら、続けて視さいよ!」
「飛び飛びに視てるけどさぁ……」
「もう何にも言わないで!」
「『わかば』というのは女の子の名前だろ? 原田夏希とかいう女優が演ってる……」
「当たり前じゃないの!」
「その女の子がもしかして哀しい運命を背負っているとか……」
私は執拗に聞いた。
「どうしてそんなに拘るの?」
「いやね、『若葉』という子どもの歌があるだろ。そのことと繋がってきてさ……」
「それで、どうしたの?」
「『若葉』は明るい歌だと思っていたけどさ。黒澤の映画では切実な祈りの歌になって
いる……」
妻は、とうとう黙って俯いてしまった。
「黒澤の『一番美しい』では、大地への祈りの歌もしくは鎮魂歌として歌われている」
「……」
「それが謎なのさ。その訳が知りたい」
妻は「謎」と聞いて、頭を挙げた。
「謎だか何だか知りませんが、そのこととドラマは、全く関係ありません!」
仕舞いには怒りだした。
「だから、『わかば』という言葉の響きが私を刺激したんだよ」
また、黙ってしまった。妻の体全体からぐっと重いものが私に押し寄せてくるような気
持ちがした。
「私が一番好きな唱歌なんだよ」
「あなたの仰っていることは、少しも私には通じません」
「だからさ……」
妻は立ち上がって言った。
「こりゃだめだ」
そう言うと、すっと玄関の方へ出て行った。しばらくしてドアを立てきる大きな音がし
た。私の海は大きなうねりを見せ始めた。
取り残された私は、一人で、「あざやかなみどりよ、あかるいみどりよ、鳥居をつつみ、
わら屋をかくし、かおる、かおる、若葉がかおる……」と歌った。すると、海の波が静ま
り、若葉の爽やかな色が頭に浮かんできた。そして、先ほどの妻の言葉がひょいと頭から
胸の芯まで降りてきた。
「チホウハ ゴメンデスヨ」
私はそうかもしれないと思って急に不安になった。不安になるとじっとしておられない
ような気持ちに追い込まれた。しばらく時間を持て余していると、二階の方から子どもの
泣き声が聞こえてきた。
(了)