とぎれとぎれの物語

瀬本あきらのHP「風の言葉」をここで復活させました。小説・エッセイをとぎれとぎれに連載します。

あちこち「SYOWA」808 星空に両手を・僕はないちっち 守屋浩・島倉千代子

2024-06-20 23:57:19 | 日記
この唄を聴くとせつなくなります。過ぎ去ったもう取り戻せない若い時間が胸を熱くさせるのです。お千代さん、足の長い守屋さん。私を苦しめないでください。私にも青春時代がありました。

星空に両手を・僕はないちっち 守屋浩・島倉千代子


守屋浩
来歴・人物
1957年、スイングウェストのバンドボーイとして芸能界入りし、1958年に日劇ウエスタンカーニバルでデビューする。ほぼ同時に堀プロダクションを設立した堀威夫の提案により芸名を「守屋浩」とする。これは既に第一線で活躍していた井上ひろし、水原弘に合わせたものと言われている。3人合わせて「三人ひろし」と言われた時期もある(かまやつひろしを入れて「四人ひろし」となる場合もある)。

堀威夫は守屋を自宅に下宿させ、ギターや歌の特訓を施した。結果、守屋は当時のロカビリーブームで大躍進し、茶の間にも知られるようになる。

1959年、ロカビリースターを多数起用した東宝の「檻の中の野郎たち」にて映画デビュー。同作の主題歌も歌いヒットする。しかし、少年院を脱走するという映画の内容に社会的な批判が起き、レコードの販売中止の憂き目にあう。そんな中、日本コロムビアのディレクター長田幸治の「浜口庫之助の曲を守屋に歌わせたら」というアイデアにより、浜口庫之助に楽曲制作を依頼。すき焼きを食べながら堀威夫に口説かれた浜口は「僕は泣いちっち」を守屋に提供し大ヒットとなる[1]。

デビューより堀が銀座ACBの谷富次郎と設立した東洋企画に所属して活動していたが、1960年に堀が同社を追放されると、堀が設立した堀プロダクションに移籍。その後も「大学かぞえうた」や「有難や節」などをヒットさせる。なお、プロダクション設立時堀の自宅には電話がなく、電話を引いていた守屋のアパートを仮事務所としてホリプロはスタートした[2]。

また映画でも活躍していた。出演作は20本を数える。

1976年3月からはホリプロダクション(堀プロダクションを改名)の社員に転じ、同社の宣伝部長などを歴任した。

ホリプロタレントスカウトキャラバンの立ち上げに関わり、1976年の第1回(榊原郁恵と荒木由美子を発掘した)では実行委員長を務めた[3]。

1986年に正社員としては退社し、改めて社業兼務のタレント契約に移行して歌手活動を再開した。この頃静岡県伊東市へ移住し、並行してカラオケ教室を開いていた[4]。その後も2011年時点ではホリプロのスカウト部長を兼務して新人の発掘などの業務を行い、また次代を担う若い歌手及び社員などの教育・指導にも当たっていた。

なお、守屋はホリプロ(1990年再改名)創立当時より2020年時点に至るまで在籍した唯一のタレントでもあった(守屋の次に在籍年数が長いのは和田アキ子である)。

そのため歌手・タレントしての活動は一時はほとんど行っていなかったが1986年の正社員としての退社後、本格的に活動を再開させ、懐メロ番組や歌のステージなどにも積極的に出演するようになった。

近年[いつ?]、脳梗塞に倒れたがリハビリの末に復帰した。病気の後遺症もあり、2008年以降はステージに置かれた椅子に座っての歌唱となっていた。

2020年9月19日、前立腺がんのため、静岡県内の施設で死去[4][3]。81歳没(享年82)。

島倉千代子

生涯
デビュー以前
1938年3月30日(水曜日)、品川区北品川に警察官の父・島倉壽雄(としお)、母・ナカの二男四女の四女として生まれる。島倉家は越前一乗谷城主朝倉義景の末裔という。

1945年(7歳)、長野県松本市へ疎開。両親の実家がある群馬県桐生市にも半年間、疎開していた事がある。井戸から水を運ぶ途中に転倒、水の入ったビンを割り、左手首からひじまでを負傷。母・ナカが「女の子だから(腕を)残して欲しい」と医師に懇願し、切断は免れたが47針を縫い[3]、感覚も無く、動かすこともできなくなる(後に不自由ながらも動かすことができるようになる)。この時の輸血がのちに千代子が患ったC型肝炎の遠因となった。気持ちの沈んだ千代子のために母・ナカは『リンゴの唄』を聞かせるようになる。後に『この世の花』で歌手デビューを遂げた千代子だが、『この世の花』の作曲は『リンゴの唄』の作曲と同じく万城目正によるもの。

1947年(9歳)、東京に戻る。姉の敏子は歌唱力があったが小児麻痺を患っていたために歌手にはなれなかった。大好きな姉のために自分が歌手になると決意。敏子により声楽を学び、近所の「若旦那楽団」に入団。左手に負担の無いアコーディオンを担当。歌唱力があったためボーカルにも起用されていた。地元の品川神社で催されたのど自慢大会には毎回姉妹で参加していた。

1949年3月、童謡『お山のお猿』がテイチクレコードから発売される。ただし誤植(レコード会社の社員によるミスとされている)により「戸倉千代子」名義となってしまったため、「島倉千代子」のデビュー作とはならなかった[4]。

1950年代
1953年(15歳)、品川区の私立日本音楽高等学校(現・品川学藝高等学校)へ入学。歌謡コンクールにも積極的に参加するようになる。1954年、コロムビア全国歌謡コンクールで優勝し、同社と専属契約。

1955年3月[5](16歳)、本名「島倉千代子」で歌手デビュー。デビュー曲『この世の花』(同名の映画の主題歌)は半年後に200万枚達成、人気歌手になる(後にテレビドラマでカバーされ、1977年に同名の映画の2作目で再度カバーされる)。1955年23曲、1956年34曲、1957年37曲、1958年33曲と驚異的な速さで新曲を発表。

1957年(19歳)、『東京だョおっ母さん』が150万枚のヒット。映画化もされ、自ら主演する。この年初めてNHK紅白歌合戦に初出場(曲目は『逢いたいなァあの人に』。その後、1976年、1979年にも歌唱)。当時大卒サラリーマンの給料が1万円であったが、千代子は常に財布に2千円入っていた。この年の3月、島倉を殺害しようとした16歳の無職少年が逮捕される[3]。

1958年(20歳)、港区高輪(北品川の隣町)に一戸建てを購入。同年には『からたち日記』が130万枚のヒットとなった。

1960年代

島倉千代子の墓碑の背面
1960年(22歳)、美空ひばりとともに『つばなの小径・白い小ゆびの歌』を発表。同年、ひばりを抑えて初めて紅白の紅組トリを務める(1960年から1962年、1973年から1975年の計6回に渡り紅組トリを務める。1975年は唯一の大トリ)。

1961年(23歳)、ファンの投げたテープが両目に当たって失明の危機に陥る[3]。このとき、品川区五反田「守屋眼科」の医師・守屋義人の助けで視力を回復。

1962年(24歳)、何者かによって後援会事務所に爆発物が送りつけられ、負傷者が出る(草加次郎事件)[3]。

1963年(25歳)、父・壽雄が他界。悲しみにくれる中、支えてくれた元阪神タイガースの藤本勝巳と母親の反対を押し切り結婚。結婚前に妊娠したが中絶、結婚後も二子をもうけたが中絶した[6]。後年、この三人の子を合わせて「忍」と名付け、その名を小さな地蔵に付けて肌身離さず持ち歩いた。忍の名は、島倉の墓碑にも千代子と並んで刻まれている[7]。

1968年(30歳)、「泣き節」を売り物としていた彼女にとり異色の作品である『愛のさざなみ』が幅広い世代の間でヒット。この曲で第10回日本レコード大賞・特別賞を春日八郎と共に受賞。すれ違いの多い生活により別居を経て離婚。家族の元に戻るも反対を押し切って結婚したために門前払いされ、自分だけの戸籍を作る。

1970年代
1972年(34歳)、母・ナカが脳軟化症により他界。

1975年(37歳)、以前かかった眼科医に頼まれ実印を貸してしまう[6]。その知人だけではなく、島倉が知らない間にマネージャーや全く面識のない赤の他人まで多数の人々の保証人にされてしまう。島倉を保証人に借金を重ねた人々はその後行方不明になり、その借金が雪だるま式に膨らんでいき当時総額16億円といわれた莫大な借金を抱える。後に美空ひばりから「実印は貸すな」と注意を受けたという(ひばり自身も実印を押してしまった経験を持つため)。この借金の整理の過程で細木数子と知り合い、以後しばらくの間細木が島倉のマネージャーを務めた[8]。

1977年(39歳)、今度は島倉に信頼され、島倉に手形の裏書をさせていた守屋義人が事業に失敗して、不渡り手形を出し蒸発。島倉は借金の連帯保証人にされ、これにより更に2億4000万円(当時判明分)の債務を負う。20億近くもの莫大な借金返済のため、写真集の発売や全国各地のキャバレー回りや地方興行などをしながら、足掛け7年程で完済した。このような活動をしている最中でも島倉の人気は全く衰えを知らず、NHK紅白歌合戦の連続出場記録は続く。

1980年代
1984年(46歳)、歌手生活30周年を迎える。

1986年(48歳)、第37回NHK紅白歌合戦で紅白歌合戦への30年連続30回出場を達成。当時の紅白史上最多記録だった。

1987年(49歳)、『人生いろいろ』を発表。「30回という区切りを大切にしたい」と“紅白辞退”の記者会見を行い、紅白連続出場記録は30回でストップ。出場辞退表明の記者会見で若手記者から「結局、落選するのが怖かったということですか」と辛辣な質問をされ、「その通りです」と返答した[9]。『紅白50回』のインタビューで本人は「辞退は前年の時点で決めており、前回身に纏った白色の着物はその表れだった」「ここ数年紅白に出られるか出られないかで不安だった。もし落選したらショックで歌えなくなると思った。そのため、余力のあるうちに辞退しようと思った」と語った。島倉は出場辞退をこの年発売の『人生いろいろ』の作曲者で当時療養中の浜口庫之助に報告したところ、「紅白で『人生いろいろ』が聞けないのか」と返されたことを明かしている[10]。

1988年(50歳)、『人生いろいろ』が前1987年からこの年にかけて130万枚の大ヒットを記録。当時の人気バラエティー番組「オレたちひょうきん族」での山田邦子やコロッケによる物真似をきっかけに『人生いろいろ』が若者にも受け、再びブレークする。同年の第30回日本レコード大賞で最優秀歌唱賞を受賞。100万枚記念パーティーでは、山田とコロッケが本人の目の前で、島倉の物真似による『人生いろいろ』を歌唱。これに対し島倉は、「山田邦子さんとコロッケさんのおかげで、『人生いろいろ』が若い方にも親しまれるようになり、光栄です」と二人を賞賛する。同年末の第39回NHK紅白歌合戦に2年ぶり31回目の復帰出場となる。この復帰出場に対しては「一度降りたのに」と批判の声も上がった。出演を決めた背景には当時療養中だった浜口[注釈 2]に「歌う姿を見て元気になって貰いたい」との思いがあったためである[11]。借金返済の目処がたつ。姉の敏子が目黒川で投身自殺[3][12]。

1989年6月(51歳)、美空ひばりが52歳で間質性肺炎による呼吸不全で死去。自身の後援会で愛知県に滞在中に訃報を聞いた島倉はその後のスケジュールを切り上げて目黒区青葉台のひばり邸に駆けつけ、息子の加藤和也に頼み3日間ひばりのそばに張り付いて離れなかったという。

1990年代
1993年(55歳)、初期の乳癌であることが判明。芸能人で会見を開き、自ら癌であることを発表したのは島倉が初めてだった。手術は成功する。ライブハウスなど歌謡曲の枠をはみ出して活動。

1999年(61歳)、歌手生活45周年を迎える。45周年コンサートではタキシードで全国を廻る。ベストジーニスト賞を受賞。同年、紫綬褒章を受章した。

2000年代
2003年初頭(65歳)に、慢性肝炎の進行とストレスにより声が出づらくなる傾向に陥ったため、この頃を境に晩年は歌唱曲のキーを下げるなどした。治療と並行しつつも精力的に仕事をこなす。

2004年(66歳)、歌手生活50周年を迎える。第55回NHK紅白歌合戦に生涯最後となった35回目の出場を果たした(当時の紅組史上最多記録)。

2007年(69歳)、事務所のスタッフに資産を奪われ再び多額の借金を抱える[13]。同じ過ちを犯すのは自分のせいと責任を感じ、自らの誕生日に事務所を解散。しかし周りの協力により心機一転スタートすることになり、経理も全部自分でやるために簿記を勉強。同年、映画『ララ、歌は 中山晋平物語』にナレーターとして出演し、中山晋平の世界を表現した。また藤商事からパチンコ機種『CR島倉千代子の千代姫七変化』が発表され、全国のパチンコ店に導入された。

2008年(70歳)、『人生いろいろ』が出身地である品川区の京浜急行電鉄青物横丁駅の接近メロディに採用される。このニュースを聞きつけた島倉自身が、翌2009年1月に青物横丁駅を訪れて実際に流れるメロディに耳を傾けた。後日、京浜急行電鉄に宛てて礼状を改めて送付したという[14]。

2009年(71歳)、歌手生活55周年を迎える。

この頃、大分県を本拠地として九州各地で営業するリフォーム会社・野田建工のテレビコマーシャルに着物姿で出演していた。なお、野田建工は求人雑誌に大きなカラー広告を多く掲載しており、島倉の写真を求人情報誌で見ることができた。

2010年代・死去

東海寺の墓碑。
後ろにはカラタチが植えられている
持病の慢性肝炎が進行していた中で2010年12月に肝臓癌を発症したことが判明、手術・入退院を繰り返していた[15]。肝臓癌発症はごく少数の関係者にしか打ち明けていなかった。その間、3度の肝動脈塞栓術を受けたが、2013年前半には肝硬変に至っていた。同年3月30日、75歳の誕生日にはコロムビアレコードの100周年を記念し復活したイベント「コロムビア大行進2013」に出演し、数千人の聴衆を前にトークを交えながら『人生いろいろ』など数曲を歌った[16]。同年5月から仕事をセーブするようになり、同年6月21日、宮崎県延岡市で開催したコンサートが生涯最後のステージとなった[17]。同年6月、日本テレビ「1番ソングSHOW」の取材を受けた(これが生涯最後のテレビ取材となった)。同年9月14日にブログを更新した(最後の更新)。

同年10月中旬に一時退院、2014年のデビュー60周年に向け復帰への意欲は衰えず、死去3日前の2013年11月5日に自宅で記念曲『からたちの小径』を録音した[18]。レコーディングは当初、11月15日に行う予定だったが、島倉自身から「その日まで待てない」と関係者に連絡を入れて11月5日に急遽吹き込みが行われた[18]。同曲の作曲を担当し、レコーディングにも立ち会った南こうせつは「(島倉の具合から)1回位しか歌えないかと思ったが、3回も歌われた。奇跡の歌声だった」と語った[18]。

11月6日、「体調が悪いので来てほしい」と自宅からスタッフに電話して中目黒の東京共済病院に再入院。入院先から島倉本人が南こうせつへ電話をかけ、感謝の意を伝えたという[18]。翌々日の2013年11月8日朝に容体が急変。午後12時30分、東京共済病院の病室にて所属事務所の女性スタッフに看取られ、眠るように息を引き取った[19][1]。死因は肝臓がんだった。満75歳没(享年76)。周囲の関係者にはあらかじめ、通夜は密葬とし、香典は断るように伝えていた。

島倉の訃報を受けて、当時内閣官房長官だった菅義偉を始め[20]、北島三郎[21]、五木ひろし[22]、細川たかし[23]、氷川きよし[24]、水前寺清子[25]、大月みやこ[26]、都はるみ[27]、八代亜紀[28]、小林幸子[29]、森昌子[30]など島倉を敬愛していた後輩の演歌歌手達、またコロッケ[31]、山田邦子[32]らものまねタレントも追悼のコメントをそれぞれ発表した。

島倉の死去から6日後の2013年11月14日、葬儀が南青山の青山葬儀所で営まれた。会場には、『からたちの小径』の録音後に涙声で次の言葉を語る、島倉の生涯最後となる肉声テープが流された[33]。

「私の部屋の中にスタジオができて、そこで私はできる限りの声で歌いました。自分の人生の最後に、二度と見られない風景を見せて頂きながら歌を入れられるって、こんな幸せはありませんでした。人生の最後に素晴らしい時間をありがとうございました」
また告別式では、島倉に憧れて演歌歌手となった石川さゆりが代表として「本当に寂しいです。もっともっと、お元気で歌っていて欲しかった。優しく、時に厳しく、叱ってくれる人が、居なくなってしまいました…」「これからも、私達後輩を、空高くから見守っていて下さい」と、涙で時折言葉を詰まらせながら弔辞を読んだ[34][35]。『からたちの小径』は四十九日にあたる12月18日にシングル発売された[36]。同曲は遺作となったが、「来年発売の記念CDボックスに入れたい」と関係者は語っていた[37]。

同年12月31日の第64回NHK紅白歌合戦では石川の『津軽海峡・冬景色』の歌唱前に島倉の追悼コーナーが設けられた。当初、番組側は石川に島倉の持ち歌である『東京だョおっ母さん』や『人生いろいろ』の歌唱を要請していたが、石川が「島倉さんとは親しいですが、都はるみさんや五木ひろしさんなど、自分よりも仲の良かった先輩歌手がいるのに、そんな出しゃばった真似はできない」とその打診を断ったとされる[38]。

戒名は寳婕院千代歌愛大姉。故郷・北品川の臨済宗東海寺大山墓地に生前に建てていた墓に眠る[7]。(Wikipedia)






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