とぎれとぎれの物語

瀬本あきらのHP「風の言葉」をここで復活させました。小説・エッセイをとぎれとぎれに連載します。

あちこち「SYOWA」807 丸山圭子どうぞこのまま

2024-06-07 18:24:20 | 日記
いや、こういう調べに浸る余裕がないんですね。ゆったりしてて却って焦る。ああ、精神的な退廃ですね。でも、なんだか丸山さんの声を聴いていると、励まされる感じ。泣けてきます。

丸山圭子どうぞこのまま


丸山 圭子(まるやま けいこ、1954年5月10日[4] - )は、日本のシンガーソングライター。

埼玉県浦和市(現:さいたま市)出身[4]。洗足学園音楽大学客員教授。

人物
3歳からピアノも習う。中学に入るとフォークソングが盛り上がりをみせていき、自身も友達のギターを借りジョーン・バエズから始まって、五つの赤い風船、ベッツィ&クリスなどを弾き語る。ただし当時はまだ音楽よりスポーツ中心の毎日を送っていた[5]。

高校は埼玉県立浦和第一女子高等学校に入学[4]。高校生になってから、あるときにどうしてもギターが欲しくなり、丸井でローンで買ったギターを自宅に持って帰ったら、母親はびっくりしたという[5]。友達3人で「サンデースプリング」というバンド名で練習していくも、当時はフォークギターを持つだけでも、問題視される時代で、職員室に呼ばれたという[5]。カバー中心で練習して、遊びでオリジナル曲を作る程度の活動だった[5]。

そんな中、ニッポン放送主催「VIVA唄の市」に出場するも、落選して諦めていたところ「再度挑戦しませんか?」というハガキが来た。受験について悩んでいた時期で、バンドも活動していなかったので、個人で当時流行っていたフランス語の「ただ愛に生きるだけ」でオーディションを受ける[5]。次の予選までの間に、「オリジナルで出たほうがいい」というアドバイスから、真剣に曲作りをして、「しまふくろうの森」を完成させる[5]。1972年冬の予選当日は雪が降って、風邪を引いて体調も悪く、会場では友達がたくさん来てくれて、会場票の影響もあって入賞したのかと本人は思っていたが、実際は曲がよかったとの評価だった[5]。そのまま全国大会でも入賞[5][4]。 同年11月、エレックレコードよりアルバム『そっと私は』、シングル「心の中の」をリリース。

その後、ピピ&コットに加入。解散後は、キングレコードに移籍し、1976年3月に「ひとり寝のララバイ」をリリース。同年7月にリリースした「どうぞこのまま」が翌年にかけてロングヒットした。

1993年に二人目の子どもを授かったが、夫の佐藤準も猛烈に忙しい時期で、結果性格の不一致で離婚調停の末幼い次男を抱え離婚。二人の子供と3人暮らしを始める。[6]。1995年頃、ひどい貧血と、月経の際に大量の出血があるなど続き、地元の病院で受診したところ、卵巣嚢腫がであることが判明し、即入院の上手術を受ける[6]。手術後に、入院期間中に知り合った同室の女の子に音楽を教えることになり、そこから口コミで生徒が増えたという[7]。父も母も教育関連の仕事をしており、そこで育った環境から、「教育者の遺伝子」が覚醒したのかもしれないと語っている[7]。

1999年9月には、丸山と太田裕美、須藤薫、水越けいこによるジョイントコンサート「MAMA's MUSIC PIE」をプロデュースして開催した。

2009年12月31日、『第42回年忘れにっぽんの歌』(テレビ東京)に生出演。

その後アーティスト仲間からの誘いで、洗足学園音大の客員教授として、歌と作詞作曲などをレッスンや講義を担当2018年にはアルバム『レトロモダン〜誘い』を発売し、ライブ活動も行っている[7]。

丸山圭子といえばキングレコード時代の大ヒット曲「どうぞこのまま」のイメージが強かったが、近年はシティポップブームによって、ビクター時代のアルバム『MISS LONELY』『MORE・愛』、トーラス時代のアルバム『誰かが私を愛してる~LADY-GOOD』『XANTHIPPE』が再評価されている。(Wikipedia)

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