橡の木の下で

俳句と共に

『鶯』平成28年『橡』4月号より

2016-03-27 10:16:36 | 俳句とエッセイ

 鶯   亜紀子

 

 米国大統領選挙の戦況が面白く、ついつい覗いてしまう。野次馬根性である。イスラム教徒排斥、メキシコとの国境には万里の長城よろしく壁を造らせる等々差別主義者的発言でことごとく物議を醸す不動産王のトランプ氏が目下の主役だ。歯に衣着せず、白黒はっきりとものを言い、絶対に退かないところが大衆受けするらしい。現在の大勢を占めている、既得権に縋り付いた企業癒着型政治家と一線を画している点など納得されるところもあって、なおのこと人気を博しているようだ。自己演出、メディアの扱い方に長けていてあれよあれよという間に人気者になってしまった。敵が多い事さえも自己宣伝に利用して凹むことがない。落ち着いて仔細に聞いてみると、白黒はっきりしているようでいて反対者につけ込まれぬよう上手に逆の逃げ道発言も用意しており、また本当にまずいことは曖昧に濁すこともあって、まあ、顕示欲の強い普通の人なのかなとも思わせられる。しかしアメリカ国民は不思議なくらい熱狂している。強い米国、米国の父性、リーダーシップというような括りでトランプ氏に期待する人々が多いのかと見える。かのブッシュ氏も初めは人気者だったのだから驚くには当たらないのかも。

 しかし政治が大上段から自分の思い通りに人をリードするものではなく、自分以外の全ての人々を下から支えることに心砕き、それが政治家の天職と考えることのできる候補者を理想とすると、現況は誰が何を言ってみたところで舌先三寸の舌戦に過ぎず、問題はいざ実際に世の中のために何をするかである。

 父星眠は俳句の選が早かった。白黒というと語弊があるけれど、まるで白黒をつけるようにさっと次々に投句葉書をめくって選をした。ところで二月号に紹介した『俳句入門のために』を読むと、星眠がどんな句であれそれぞれの句の句因、中心にある詩心を大事に汲み取っていることが分る。選句の場面では完成度という観点から白黒決着できるけれども、実際には十七文字の中に何かしら見所、心惹かれるものがある。父の選句の早業の中にも外からは見えなかったけれど、そうしたまだ磨かれぬ宝物に心残す気持ちがあったろうと想像できる。

 この世に絶対といえるものはない。流行の健康食など「絶対に良い」と言われるとかえって疑いたくなる。良くない部分もちゃんと見えている方が安心だ。俳句にしても、政治にしても、他人の「絶対」に引きずられていくだけでは駄目なのだろう。最後に決めるのは何事も自分である。

 それにしても星眠先生の仕事ぶりに今更ながら驚いている。橡誌の投句葉書は現在の倍以上の数があった。プラス新聞の俳句欄の選が全国紙、地方紙合せて三つ。各地の句会指導、週末は吟行。そのうえ生業の診療は定年がなかったのだから。もちろんいずれも真面目に取り組んでいた。そうして何より自分の俳句の向上に打ち込んでいた。本人は呑気に好きなことをやっているだけだよと言っていて、実際そんなふうに見えていたのだけれど。

 何をどうやっても到底及び難い境地である。これはもともとの人の力の違いなのである。一番に学びたいのは俳境を高めるということだが、もともとの限界があるのが分る。修練を続けていくしかないのだろう。できることはそれだけで、修練には終りや限界はない。自分がやるだけである。

 雛祭りの後、鶯の初音を聞いた。この辺りは戦災に会わなかったそうで、昔のままの細い路地が入り組んで、庭木、垣根など小さな緑が点在している。いくつかのお社も小鳥にとって手頃な休憩場所になっている。それから毎朝鳴いている。もう上手な歌い手で、既に谷渡りのくだりさえ入って佳境にあるようだ。座っていないで、外に出なさい。無い頭で理屈をこねていないで、とにかく外を見なさい。自分で歌いなさい。鶯になりたいものである。

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