蒲江海ボラと知的空間6(20240811)
昼前から特にあてもなく蒲江方面、一応、ボラ釣りの準備は整えて。
いつもの養殖場排水口付近の大ボラは見えず、かわりにボラ幼魚のたくさんの群れ。
時合いは満潮、潮がかなり差し、大ボラも入り込んでいた。
ここにおった!
でも、この小さな水路で掛けても絶対取り込めず、こうして眺めるだけ。
気温33度、快晴無風。
眺めながら、竿を出し糸を通し針を結びボラを掛けファイトして切られるまでを空想した。
所要時間約2秒、その間に今日の釣りの全てが完結した。
"なんだ、自分の釣りなんて、こんなもので十分なんだ"
そう思うと、少し滑稽に思え、ひとり笑ってしまった。
ああしてこうして釣り上げる、そんな体験をたくさん積み、もはや釣りしなくても楽しめる。
ただ大事なのは、目の前に水が流れ魚が泳ぐことだけだ、釣りをせず釣りを楽しむには。
事実、ほんの数秒で深く堪能できる、そのことの方が驚きだ、まるで本当に釣りしたように。
いろんなことの多くがそうだ。
実際に体験しなくても、これまでの体験を組み合わせることで、現実の不自由さを補える、例えば今日の病み上がり酷暑の昼間のように。
現実空間に知的空間を重ね合わせることで、出来ないことが出来てしまう。
かといって知的空間のみではこのリアルな重ね合わせは不可能、あくまでも目の前の現実空間があってこそ。
また、知的空間を欠く現実空間のみなら、後先考えず、目の前のボラにすかさず飛び掛かってしまう。
ヒトだからこそ知的空間と現実空間の両方がある。
つまりは私たちは、知的空間のなかで、心地よい「美」をなす想いを並べ直し、一つの物語を作り上げていくのだ、例えば今日の蒲江ボラ釣りのように。
この物語の先に、川に掛かる橋、山を穿つ道、雲を跨ぐ路が完成していく。
それこそ、ヒトの創造性の全てではないか。
私たちは知的空間の再構成した物語を現実空間に重ね合わせ前へ進んでいる。
そんな当り前のことを、帰りの高速で、曲もかけず考え耽った。
結局、何も買わず何も釣らず、ただ行って帰るだけに終わる。
何か得したような、ただ損しただけのような、そんな感想。
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