12/15(土)に函館中央図書館で開催された、菅江真澄没190周年函館講演会「菅江真澄が巡った蝦夷地」という講演会に参加した。
今まで、江戸時代後半に蝦夷地にやって来たという菅江真澄のことは漠然と知っていたし、秋田県や青森県の山や旧街道には、多くの歌碑が立っているのを目にしている。しかし、具体的にどんな人物で、蝦夷地ではどんなことをしたのかは知らなかったので興味があったからである。
講師は2名で、石井正巳(東京学芸大学教授)の演題は「函館で詠む菅江真澄」
長谷部一弘(函館市縄文文化交流センター館長代理)の演題は「菅江真澄が観た蝦夷風俗」
石井氏は、主に菅江真澄が書いた寛政元年の「えみしのさへき」と寛政4年の「えぞのてぶり」の原文をもとに解説し、長谷部氏は、それらを訳した文章や真澄の描いたスケッチをもとに解説され、2人の内容はダブるところが多かった。
菅江真澄は、三河吉田宿近郊(愛知県豊橋)の出身で、1873年(30歳)に旅に出て、長野、山形、秋田、岩手、宮城、北海道を旅して、多くの旅日記・地誌・図絵を残している。
蝦夷地に滞在したのは 1788年(35歳)~1792年(39歳)の5年間で、そのうち、1789年には、松前から上ノ国、江差を通り、太田山神社に参詣している。そのときの旅日記が「えみしのさへき」である。主にアイヌ語のことについて書かれている。
さらに、同じ年に函館周辺にいて、昆布漁の様子と道具を描いて「ひろめかり」として残している。
1790年~1791年の2年間は、旅はせずに、松前城下に滞在し、松前文子を中心とした幕臣、その子弟、藩医、神職、商人等との歌作に精進していた。その様子は「ちしまのいそ」として残されている。
1792年には、松前~噴火湾沿い~有珠まで旅をして有珠山に登っている。その旅日記が「えぞのてぶり」で、主にアイヌの風俗について書かれ、地形の図絵も多く残している。
蝦夷地の後は、1829年(76歳)に没するまでの29年を秋田の地で過ごしている。秋田県内をくまなく歩き、すべての市町村に足跡を残している。だから、秋田県の山に菅江真澄の足跡が多いことも納得。
松浦武四郎も箱館での滞在の記録が少ないのか、ほとんど函館の歴史には登場していないことが残念です。