ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




佐野印章。台東区台東2-32。1988(昭和63)年12月31日

清洲橋通りの佐竹通南口交差点から西へ、昭和通りの台東2交差点へ出る通り。『 昭和16年の台東区>竹町』の地図には「徒竹町大通」とあって、その真ん中あたりの「新東京」という映画館の向かい側。この通りの南側が台東2丁目、北側が台東3丁目である。
戦時中の空襲では台東3丁目はかなりの部分が被害を免れたが、台東2丁目から南は焼き尽くされた。そのなかで焼失を免れたのが台東2丁目32・33番地である。現在はビルに建て替わっているが、1990年頃なら「中村屋のモルタル看板建築」と「鈴友」があった。現在も通り沿いに数軒、裏に1・2軒、戦前からのものと思える家が残っている。
写真の銅板貼りの看板建築は五軒長屋に見える。左から旧御園鮨、佐野印章、カギの専門店、しもた屋?、坂本モーター商会台東営業所。


近影
2008(平成20)年3月1日

上の写真から20年後の撮影。長屋の様子はまったく変わりがない。現在の様子をストリートビューで見ると、長屋の左2軒の壁が改修されている。店は変化ないようだ。上の写真右の三友社のビルが建て替わり、その右の緑屋酒店は廃業したようだ。

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佐竹茶房。台東区台東2-1。1988(昭和63)年頃

蔵前通りと清洲橋通りとの鳥越1交差点の北西の角にある平屋の店舗。現在は下の写真の状態で、周りの建物が取り壊されて、角の家がどいてくれるのを待っているように見える。
建物は昭和30年前後のものか、あるいは空襲の焼け跡から最初に建てたものかもしれない。1986年の住宅地図では「コスモ印刷」だが、写真ではすでに空き家かもしれない。左の家は「植木製罐株式会社」、右のビルは「見上ビル」で、小さなペンシルビルのようだ。角の家はいつごろまで営業していたのか知らないが「佐竹茶房」という喫茶店だったことは分かる。建物もその店が建てたような外観だ。
「佐竹」といのは、交差点から清洲橋通りを北へいった西側に「佐竹商店街」もあるが、佐竹右京太夫の藩邸(出羽国久保田(秋田)藩の上屋敷、藩主は佐竹氏)があったところが、明治維新後、それが撤去されて「佐竹っ原」と呼ばれたことに由来する。



近影。2007(平成17)年4月14日

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左:ダイキ包装。台東区台東1-38。1987(昭和62)年頃
右:鹿島酒店。1988(昭和63)年12月31日

蔵前通りと清洲橋通りとの鳥越1交差点の角。ダイキ包装の建物の清洲橋通り側は、幅一見ほどを残して取り壊され、ビル(イトーピア清洲橋通ビル。1988年3月竣工)が建設中だ。この建物が元のままだったときの写真は撮っていなかったが、当ブログの 「洋風六軒長屋(2007.01.13)」の1枚目の写真右端に写っている。その写真では取り壊されたのは「あだちや不動産」が入っていた部分だ。
角の吉野家の建物は戦前に建てられた店舗を改装して使っているのだと思う。ダイキ包装、吉野家とも今も変わらない。
吉野家の蔵前通り側の隣が鹿島酒店。銅板張りの看板建築だ。建物は現存しているが商売は廃業したようだ。そのため、看板は取り外され、建物上部の飾りもなくなってしまっている。

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鈴やビル。台東区台東1-30。2003(平成15)年10月24日

昭和通りの、台東1交差点(蔵前橋通りとの交差点)近くにあったビル。現在は、ストリートビューで見ると取り壊されて更地の状態なので、新しくビルが建っているかもしれない。つまり、最近まであったビルである。
『日本近代建築総覧』に「鈴屋ビル、台東区台東1-30-3、建築年=昭和3年、構造=RC4階建、一部5階」として載っている。「鈴や」は住宅地図の表記。ファサードが左右で異なっているが、右側は改修されたのだろうか。それにしてはロンバルディア帯の飾りや上部の軒が張り出していたりして、一見右側のほうが古く見える。やはり最初から左右で別のデザインで建てたのかもしれない。

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アベアドレス。千代田区神田淡路町1-4。1985(昭和60)年2月24日

外堀通りの、淡路町交差点のすぐ北の五叉路の角。アベアドレスの建物は火保図の表記では木造のようだ。看板の「宛名印刷機」とはどういうものなのだろう。商品としてプリントゴッコも置いていたかもしれないが、それが主とも思えない。業務用の機械があったのだろう。昭和30年頃の火保図では「阿部印刷」で、その会社がアベアドレスの前身と思われる。
この建物を取り上げているサイトに『 都市俳諧blog>淡路町交差点そば(2007.04.25)』と『 消えた建築>青山総業株式会社倉庫』がある。『都市俳諧blog』は1981年の写真で、場所を特定する過程の記事が興味深い。Pulin氏の『消えた建築』は、最近、氏の『 御光堂世界~Pulinの日記』から、古いビルで現存しないものを抽出して別のブログにまとめ直したもの。1990年代初期の撮影で、花市(写真左の「八七市店」)の建物はなくなっている。建物左側の壊れたシャッターが修理されてガラス戸になっている。



青山総業倉庫。1989(平成1)年3月12日

青山総業の名前は、ネットでは「江戸東京たてもの園」に移築された「花市生花店」(写真左の建物)の「寄贈者」として出てくる。会社そのもはすでにないようで、ネット検索ではそれらしいのは見当たらない。現在、この街区は写真右の「桜井商事ビル」を除いて「友泉淡路町ビル」(2001年6月竣工)に建て替わった。青山総業はそのビルを建設する目的で、建設会社や銀行などが集まってできた一時的なチームのような会社なのかもしれない。あるいは地上げ屋?
写真左後方で建設中のビルは、靖国通りに向いた「富士銀行神田支店」のビルを建て替えているもの。現在の「損保ジャッパン神田淡路町ビル」である。

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