ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




東京海洋大学1号館。江東区越中島2-1。2007(平成19)年6月2 日

東京海洋大学は2003(平成15)年10月に東京商船大学と東京水産大学が統合してできた。越中島キャンパスといわれるほうは商船大学だったから、資料では(国立)東京商船大学となっているほうが多い。
1号館は1930(昭和5)年に着工して1932(昭和7)年に完成した。RC3階建てで設計は文部省と大蔵省。外観はロマネスクとセセッションの混交というか、震災復興期の学校や官庁舎によく見られるもの。



階段の手すりや仕切りの扉にはアールデコ様式の装飾もある。



平面は飛行機の形で、写真左が正面、右が正面から見て左右に長い後ろ側。正面から入ると反対側まで直線の廊下が通っている。写真には写っていないが屋上の部屋は船橋を模して丸窓が並んでいる。

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こんにゃく閻魔裏の長屋
文京区小石川2-21
2007(平成19)年2月24 日(4枚とも)

こんにゃく閻魔(源覚寺)の裏通りにある古い長屋。三軒長屋にも見えるが二軒長屋と一軒家が2軒、くっついて並んでいるらしい。写真左の理髪店はバーバーとみさか。旧住居の富坂2丁目からの店名だろう。
写真右の路地を入っていったところが下の3枚の写真の路地で、階段と坂道を上っていくと富坂の上の台地、上富坂教会の前の道路に出る。車だと北の六角坂をいくことになるから近道にもなり、通り抜ける人もいると思う。原則はやはり住民の私的な通路だから遠慮がちに通らなければならないだろう。



階段の路地。小石川2-19

この路地は『東京の階段』(松本泰生著、日本文芸社、平成19年)という本に「小石川の木造住宅地内階段」として載っている。この本では階段の段数・幅・高低差などのデータを載せている。調べる手間はたいへんだったと思う。読者はというと、そういう細かいところまでは目を通さないのが普通だ。著者はそれを分かっていても調査を省いていないのだと思う。フィールドワークとはそういうものなのだろう。
路地は3つの階段を坂道でつないでいる。上左の写真は下の階段の上にある平屋の民家。上右写真の階段はその民家の手前で南の方向へ枝分かれしている階段。先は行き止まりである。左写真は上の階段を上ったところ。



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新井塗装店。文京区小石川2-18。1988(昭和63)年3月13日

えんま商店街(千川通り)の西の裏通りである。小石川台地の東端の麓に沿った道で、その地形の影響で微妙にくねっている。どうやら江戸時代からある道らしい。
写真の建物は左から、新井塗装店・新井理容、民家(4世帯が入っている)、遠藤医院、長崎だんご・ニューシャテル、廣田鉄工所、文京区役礫川出張所(現・礫川地域活動センター)。
この裏通り沿いには他にも古い建物があったような感じだが、ぼくの撮った写真はこの1枚しか見つからない。白い下見板の遠藤医院などは近寄って写しておくべき建物だった。『 廃景録 消えた近代建築>遠藤医院』によれば、1911(明治44)年に建てられて1994(平成4)まで開業していたという。また『 東京‐昭和の記憶 小石川柳町~初音町』にはこの裏通りを記録した7枚の写真を掲載している。1991年に撮られていて遠藤医院の向かいの初音湯がちょっと写っている。このときにはすでに新井塗装店の建物はなくなっている。

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出久根達郎の『笑い絵』という小説を紹介する。文春文庫で1998年11月に出ている。742円。単行本は1995年の出版。

二笑亭という建築ファンには知られた建物が登場するので当ブログのテーマにも関連する。「笑い絵+二笑亭」でネット検索したが、両方のキーワードが出てくるサイトはないようだ。文庫の倉本四郎の解説では二笑亭(小説では「可笑亭」)に言及されていて式場隆三郎― 式場病院本館 式場邸―の名前も出ている。ただしなぜか、「参考文献」には『二笑亭綺譚』は載っていない。可笑亭のなかを探検する場面で内部の様子が書かれているが二笑亭とどのくらい一致するのかは知らない。

「笑い絵」とは春画のこと。小説の時代は昭和6~8年で主に東京の本所・深川が舞台である。小学校の教師を首になって紙芝居屋になった男が主人公で、正体不明の富豪に頼まれて春本を書くことになる、というストーリー。ミステリーの範疇に入ると思う。
舞台がぼくには割りと把握しやすい地域なのがうれしい。筋書きとは直接関連するわけではないが、会話などに出てくる事件が当時の世相を映し出して興味を引かれる。黄金バット、煙突男、坂田山心中、大杉栄(小説では大松盛)虐殺事件―8年前の事件だが可笑亭に隠れ住んでいる男が目撃する―、玉ノ井バラバラ死体事件、白木屋デパートの大火。 丸の内ホテルで食事をする場面がある。人形町の ユニオンダンスホールが会話の中で出てくる。
小説は主人公が乗った日満連絡線の新造船うすりい丸が大連に着く前で唐突に終わっている。そんな小説は困ると言われるかもしれないが、読みの足りないぼくが感じただけだ。こういう小説をもっと読みたい。

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紫ペットショップ。文京区小石川2-24。1989(平成1)年4月9日

写真右のアーケードはえんま通り商店街のもので、こんにゃく閻魔の前の通り。JR大塚駅へ通ずる千川通りである。写真の建物は正面が「紫ペットショップ」という店の横側。家の後ろ(写真では左側)は高橋製本。写真手前の空き地は「百点」という店が取り壊された跡だ。



羽鳥砂糖専門店、畑中書店。小石川2-24。1988(昭和63)年3月13日

1枚目の写真から北へ5・6軒目の辺り。えんま通り商店街には写真のような古い建物がまだまだあったような感じで、もっと丁寧に記録しておけばよかった。「砂糖小売専門店」とは珍しい。主に和・洋菓子店がお得意なのだろう。そういえば我が家ではこのところ砂糖を買ったと聞かない。ぼくが糖尿病のせいかもしれないが。
ストリートビューを見ると写真の2軒の古い建物は残っていた。砂糖専門店は「さと和」というカフェになっている。砂糖からの店名かと思ったがそういうことでもないようだ。その店も1年前に閉店したそうだ。いよいよマンションが建つのかもしれない。

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大亜堂書店。文京区小石川2-23。1988(昭和63)年1月30日

三叉路の小石川2丁目(現・こんにゃくえんま前)交差点。写真左手の家の裏が通称「蒟蒻閻魔」の源覚寺だ。前の通りは都道436号線で「千川通り」ともいうらしい。小石川(千川、礫川(れきせん))の流路だった。
写っている店舗は左から、エンマ屋(寝具)、タカホーム(不動産)・ミヤギノ(蕎麦)、大亜堂書店、理容及川・高橋・池書店・百点(4軒長屋と思われる)。空襲の火災から免れた一角で、いずれも戦前築の木造家屋と思われる。大亜堂の建物は昭和7年築のスクラッチタイル貼りの看板建築。



ミヤギノ蕎麦店。1988(昭和63)年3月13日



近影。2007(平成19)年2月24日

エンマ屋と大亜堂の建物が残っている。「えんまや」は居酒屋に商売替えしたらしい。タカホームとミヤギノの建物は「エスティビル小石川」になったが商売は続いている。四軒長屋があったところに建ったビルは「常光ビル」。

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笠原文具店。文京区小石川1-10。1988(昭和63)年3月13日(2枚とも)

この辺りでは白山通りの西の裏通りのように見えるが、文京区小石川と白山・千石との間を大塚駅へと通じている主要道路(都道436号)である。両側ともアーケードを設置した商店街だが、現在はマンションが立並んできて街の印象もだいぶ変わった。
上の写真、左端の建物が切れているところが白山通りに抜ける路地。現在、「パークスクエア小石川(2000年3月竣工、197戸)」というマンションにトンネルを空けて、この路地を残している。ゼブラボールペンの看板が笠原文具店、その右へ、三国屋、橋爪道場。そこで建物が切れているが、やはり白山通りに抜けられる路地である。その角が虎屋米店。写真右端が小石川二丁目(現・こんにゃくえんま前)交差点。



まるき。小石川1-9

1枚目写真の右よりの部分。長屋形式の商店らしい。パークスクエア小石川が完成した2000年にはまだ残っていた。

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