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ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 






左:高瀬商店、右:大星商店倉庫。中央区佃2-14。1989(平成1)年12月31日

立派な出桁造りの高瀬商店は佃大通りの二葉家和菓子店の角を入ったところにある。タバコ売り場もあるが、店先に箒や束子が出ているように荒物屋だ。現在、「高瀬家住宅」として中央区有形文化財に登録された。昭和6年築という。下の最近の写真ではタバコ売り場にポスターなどがなく、自販機も置いてない。平成1年の写真にも自販機はなく、これは珍しい店だ。下の写真には商品は置いてあるようだし、路上に灰皿が置かれているので廃業はしていないと思うがちょっと心配だ。建物左の白い看板は「孔官堂」のもので「松竹梅・仙年香・蘭月」は線香。
銅板貼りの看板建築は住宅地図で「大星」で、前の佃大通りを右手へ行った次の四つ角にある大星商店(酒店、現在はコンビニ)のものかと思う。戦前は「榎本乾物」、昭和25年頃では「榎本ゴザS(商店)」。ゴザとはイグサなんかで編んだ敷物のことだろうか? 山下薬舗と左の二葉家とも戦前から続いている店である。




近影。2008(平成20)年10月3日

二葉家(右写真左)は創業が明治元年という和菓子の老舗。新佃島には大正7年に移ってきたらしい。
銅板貼りの家の2階の窓の上の庇と、その上の帯状の飾りが外されてしまった。剥落しそうだったのだろう。山下薬舗は「レストランPUB・ohana」に変わっている。

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横井豆腐店。中央区佃2-13。1989(平成1)年12月31日

佃仲通りの佃2丁目交差点付近から東の方向を見ている。写真右端が交差点に面した大星商店のビル。左奥のマンションは旭湯の先の佃スカイハイツ。写真中央が横井豆腐店でその左に2軒長屋が2棟並んでいる。写真左端が「寿司善」というすし屋。
横井商店は明治26年の創業、と看板にある。現在の佃2・3丁目にあたる「新佃島」の埋め立てが完了してこの辺りの旧町名「新佃島西町」が成立したのが1896(明治29)年。昭和20年代の火保図に「横井豆フ」とあるので戦前からここで商売をしているのだろう。看板の店名は「よ古井」の表記。現在は建物が改装されたのか、看板建築風だった表面は変わってしまった。



旭湯。佃2-12。2008(平成20)年10月3日

佃仲通りの東端といったところ。旭湯は、建物は戦後のものかもしれないが戦前からある銭湯。
銭湯としては変わった外観で、2階がアパートになっているためだ。住宅地図には旭湯のほかに「旭荘」とある。

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きよ、いっき。中央区佃2-14。1999(平成11)年12月頃(2枚とも)

佃仲通りの真ん中に佃大通りと交わる佃2丁目交差点がある。写真左の家が岸田理容店でその交差点の角の家。居酒屋が2軒入っている家があって、写真右は佐々木製作所(木工)。見たところ、居酒屋の家と佐々木製作所の家は戦後に建った建物のようだ。



岸田理容店。佃2-14

佃2丁目交差点の北側から南方向を見ている。写真左奥へいくと清澄通りの新佃島交差点で、こちらの通りは両側に店が並ぶ商店街で、佃大通りという。奥の建設中のビルは清澄通りに面した「ファミール月島グランスイートタワー」というマンション。角の家が「岸田理容店」で、その左へ、「ラッキー(雀荘?)」「明治牛乳佃島販売所(吉川牛乳店)」「小山青果店」と並んでいる。戦前からの店が多い。昭和10年頃の地図では住民の記憶による再現だが、「岸田理髪、金子タビ、吉川ミルクホール、小山八百屋」となっている。

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梅本酒店。中央区佃2-16。1989(平成1)年12月31日

当ブログ前回の「尾崎畳店」の隣の店。梅本酒店の隣の洋風看板建築を中心に撮った写真なので梅本酒店の店舗のほうが切れてしまった。昭和25年頃の火保図に載っているので戦前からの店ではないかと思う。『1960年代の東京』(写真:池田信、毎日新聞社、2008年)に1964年に撮られた梅本酒店の写真が載っている。その写真の看板を見ると、屋号は「栄屋」。
洋風の看板建築は2軒の正面の形が異なる。右の家は最初から住宅として作られたような造りだ。左のパン屋(牛乳屋?)は「キムラヤのパン」の看板に「スターショップ」と書かれていて、それが店名らしい。星商店ということだろう。こちらの家のほうが2階のベランダの上の梁がアーチになっているのと、その奥の上の窓がステンドグラスらしいことで、原型をとどめているのかもしれない。

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ヤマダ理髪店。中央区佃2-16。1999(平成11)年12月頃

佃大橋の大通りから月島の西仲通りとは反対の方向へ行ってすぐのところ。佃仲通り商店街というらしいが、その西端辺り。写真の古い家並みの向かいは1986年の地図では「月島機械研究所」で、撮影時は広い空き地だったと思う。現在はここに「ライオンズタワー月島」という高層マンションができている。写真の家はストリートビューではまだ健在で、看板なども写真のままだ。
昭和25年頃の火保図では右から「民家、山田床S(商店、店)」「尾崎タタミS、佐藤荒物」。床屋も畳屋も戦前からの店なのかもしれない。



尾崎畳店。1989(平成1)年10月29日

畳の運搬はリアカー(「リヤカー」だと思っていたが辞書ではリアカーが正しいらしい)だ。今でも使っているのだろうか?
ネット検索したら、最近では「やきとり」の暖簾と赤提灯を出していて、テイクアウトだけでなく店の中でも飲ませるらしい。テレビでも見たが、ここだったとは知らなかった。

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宇徳ビル別館。神奈川県横浜市中区本町6。1989(平成1)年頃

角の円筒形状の階段室が特徴的な、そう大きくもないビルを見たのは写真を撮影したときが最初で最後だったような気がする。そのうちどこにあったビルなのかも分からなくなっていたが、ビル壁面の「UTOKU」の字で『日本近代建築総覧』の「宇徳ビル、中区海岸通5-58(弁天通6-78)、昭和4年、RC3、渡辺仁」と分かった。施工は大林組だという。県立博物館(旧横浜正金銀行本店)のすぐ西、本町通り(左写真左手)と弁天通り(左写真右手)が交わる場所だ。写真のビルの弁天通りの向かいには「宇徳ビル」という株式会社宇徳の本社ビルがあり、写真のビルは撮影当時は「別館」だったらしい。(『横浜の近代建築その後>宇徳ビル別館』)。
水平線を基調としてそれが装飾にも使われている。モダニズム建築といっていいのだろうが、奇怪な感じもただよう。とにかく渡辺仁の作品にこういうビルがあった、ということで興味深い。
みんなでつくる横濱写真アルバム』というサイトに、株式会社宇徳が投稿したと思われる写真がある。「弁六ビル」として3枚の写真を見ることができる。本町通り側の横から撮った写真があって貴重だ。4階を増築したのは1949年だという。

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ホテルニューグランド。神奈川県横浜市中区山下町10。1988(昭和63)年頃

設計=渡辺仁、施工=清水組で1927(昭和2)年11月に完成し、ホテルは12月1日に開業した。
ホテルニューグランドの建設は関東大震災後の横浜市の復興計画から出てきた。横浜の本格的なホテルが全滅した後、港横浜にホテルがないのでは話にならないという危惧が、横浜の政財界から起こった。横浜市長の有吉忠一が中心になって、横浜商工会議所や地元の財界が資金を出して設立された。市民からも資金を集めたという。初代の会長は当時の横浜商工会議所会頭だった井坂孝がなっている。
震災前には「グランドホテル」という横浜を代表するホテルがあった。グランドホテルは震災後の再開を諦めたが、ホテルニューグランドがその名称を引き継ぐ形になった。



北西側の横面。手前の駐車場には1991年にホテルの新館(ニューグランドタワー)が完成する。1988(昭和63)年頃



1991(平成3)年7月28日

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とうかい(レストランとコーヒー)
台東区上野2-14。2007年3月2日

京成上野駅から池之端口を出ると目の前に写真のレトロといっていいレストランがある。写真の街並みの裏は不忍池。とうかい(東海)の左は蓬菜閣(北京料理)、右はホテル観月荘。とうかいの建物も古そうだが問題なのはその奥に見えている妙な建物である。顔のように見えてなんとなくおかしい。蔵のようにも見えるが4階建てらしい。気になって5年くらい前から何枚か写真を撮っているが、すぐ取り出せたのが掲載したもの。公園の立ち木が邪魔で、いい写真ではないが後ろの建物が分かればいいので撮りなおしにいくこともないだろう。
モノクロ写真のほうは『帝都復興せり!』(松葉一清著、平凡社、1988年)から引用した。原典は『建築の東京』(1935(昭和10)年刊)である。当書のキャプションには「菓子舗空也●(建物撤去)、竣工年:昭和3年、設計者:志村太七、住所:台東区上野2-14/和菓子の老舗のひとつ。切妻屋根と洋風の壁の模様の対比に妙。」とある。
両者は住所が同じだし、同じ建物とみなしていいと思う。「空也もなか」なら食べたことはないが聞いたことはある。『空也』によると、銀座にある有名な和菓子の老舗で、「明治17年、上野池の端に創業、戦災で焼失後昭和24年に銀座並木通りに移りはや半世紀」とある。消失した店が写真の建物かどうかは分からないが、復元したとも思えないから、鉄筋コンクリート造だったため(勿論推定)焼け落ちなかったのかもしれない。

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