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ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




伊勢幸酒店。千葉県夷隅郡大多喜町久保132。2003(平成15)年6月1日

城下町通り(県道172号)の釜屋の向かい側を少し北に行ったところにある酒屋。現在は手作りの小物を売っていて土産屋でもあるという。バス停は小湊バスの「久保」バス停。
2009(平成21)年に「伊勢幸酒店店舗兼主屋」で国の登録有形文化財に指定された商家。『国指定文化財等データベース>伊勢幸酒店店舗兼主屋』によると、1873(明治6)年建築/1921(大正10)年・1970(昭和45)年改修」で「大多喜城下の商人町に所在し、通りに東面して建つ。寄棟造平入の木造2階建で、正面及び北面に下屋庇、南面に玄関を付け、背面に平屋建を突き出す。1階は店舗で間口を大きく開き、2階正面は全面に格子戸をたて込む。城下における商家の表構えをよく伝える。」と解説されている。
現地の案内板には「むかし質・古物商を営む商店でしたが、明治6(1873)年廃藩置県の折、大多喜城の大手門部材を使用して建築されました」とある。



2017年大多喜城企画展「なつかしの街並み」のポスターより「大正2年(1913年)の城下町通り」。左手前が伊勢幸。左の家並みは床が道路面より低いように見える。大正10年の改修は土台を上げる工事が含まれていたかもしれない。

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大野屋履物店。千葉県夷隅郡大多喜町桜台45。2003(平成15)年6月1日

城下町通り(県道172号)の商い資料館の前から、通りの向かい側の南方向を撮った写真。写真右手の出桁造りの店が大野屋履物店。下の写真では店名が読めるが何屋さんだか分らない。電話帳に記載が残っていた。家の左にバス停があるが、小湊バスの「桜台」バス停。大野屋履物店は2014年のストリートビューでは玄関などを造って住居に改修している。2018年のSVでは「珈琲処・あずき」が営業していて、古民家カフェになっている。
大野屋の左(南)は「銭治薬局」。写真ではシャッターが下りているが2014年のSVではちゃんと開業している映像が出る。2018年のSVでは看板の文字を消してしまって廃業した様子だ。現在は店舗も奥の住居も取り壊された。



大野屋履物店。大多喜町桜台45。2003(平成15)年6月1日



尾高屋食品店。大多喜町久保141。2003(平成15)年6月1日

大野屋から北を見た写真。大野屋の右は住居の門でその右が「尾高屋」。ヤマザキパンの看板が目立つからパン屋としてもいいが、白鶴の看板もあって2014年のSVでは「長夷酒類商組合員」表札を付けているので、酒屋だったのをパンも扱うようになったのかもしれない。2018年のSVでは看板を外してしまっていて廃業したようだ。

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現・博美堂。千葉県夷隅郡大多喜町久保155。2003(平成15)年6月1日

城下町通りにある釜屋の隣にある、下見板張り寄棟屋根平屋の洋風の家。写真では分らないが奥に割と長い長方形の平面。2012年5月に「博美堂」という「手づくり甲冑工房」として使われるようになった。「段ボールや厚紙、ひもを材料に制作した甲冑を常設展示し、試着体験などもできる新たな交流拠点施設」(『千葉日報2012.5.18』)で、観光客にも開放している。
博美堂になる前は、陶芸のギャラリーに使用されていた店だったという。2003年の写真では陶芸ギャラリーには見えないので、陶芸ギャラリーだった期間はそう長い間ではなかったのかも知れない。外観からは個人医院だったか、と連想が働く。
この建物に関心をもって考察しているサイトに、『建物・温泉コレクション>【千葉】釜屋とその隣』が見つかった。それによると、「調べると大正時代に建てられた電話交換所だったというのがわかりました。電話交換所、郵便局、陶芸ギャラリーなどを経て」ということだ。正面内部をガラス越しに撮った写真がある。郵便局だったときの造りが残っているではないか。カウンターがあって、その奥の作業場とはガラスで仕切られ、その下に4カ所、手が出入りできる穴が開いている。こんな造りの郵便局は現役ではもうどこにもないと思える。
明治期の商家もいいが、大正時代の洋風建築は数がないから、それ以上に貴重ではないか。観光協会もこの建物を売り込んだ方がいいと思うが、興味を持つ観光客がそもそも少ないのかも知れない。



商い資料館。大多喜町久保153。2003(平成15)年6月1日

博美堂の隣が「紀州屋」という陶器店で、その隣が「商い資料館」という「商いと城下町のくらし」をテーマにした資料館。2001(平成13)年に開館した。1階は昔の商家の帳場を再現し、2階は昔の生活用具や遊び道具を展示している。
建物は土蔵造りの建物を大改造したという。『Deepランド>大多喜⑻』に、展示してある改造前の写真が載っている。それを見ると、出桁造りのようにも見えて蔵造りには見えない。「嶋村金物店」の大きな看板が2階前面をほとんど塞いでいる。観光客に好まれるようにと改造したようだ。

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釜屋(現・釜屋資料館)。千葉県夷隅郡大多喜町久保159。2003(平成15)年6月1日

いすみ鉄道の大多喜駅は線路が南北に引かれている箇所にあり、曲流している夷隅川(いすみがわ)も、大多喜駅付近では駅の東を南から北に流れている。その間を県道172号大多喜線が通っている。県道はこの辺りでは「城下町通り」と名付けられている。名前からして城下町の中心になる通りになるようだ。明治期に建てられた商家や旅籠が今も幾棟も見られて、観光の中心地となっている。
城下町通りの中央辺りにある「釜屋(旧江澤邸)」は、明治9年(1876)建築の土蔵造りの商家。釜屋は当初は質屋で後に金物屋になった。屋号の釜屋は金物店になってからのものに思える。庇屋根の上、中央に釜の字を書いた瓶が置かれている。中には味噌を入れておいて、火事になったときには建物開口部(窓の隙間)に味噌を塗り込めるわけだ。
2006(平成18)年に大多喜町へ寄贈され、2020(令和2)年に改修工事を終えて一般公開された。(『シティライフ>房総の小江戸によみがえる 土蔵造りの商家『釜屋』』)



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行徳可動堰。千葉県市川市行徳地先。2003(平成15)年12月7日(5枚とも)

行徳可動堰がある住所は江戸川の北が市川市稲荷木(とうかぎ)、南が市川市河原(かわら)であるが、河川敷の部分はとくに住所といったものはないようだ。また、行徳可動堰の西の河川敷の野球場や旧江戸川左岸の国土交通省関東地方整備局江戸川河川事務所のあるとろは、江戸川区か市川市かも未定という。江戸川放水路(現・江戸川)を開削し、旧江戸川も流路を改めたため境界をどこに引くかが決定していないためだ。現地の案内板の所在地は「市川市行徳地先(江戸川河口より上流約3.2km)」。
江戸川放水路は1916(大正5)年着工、1919(大正8)年竣工で、1960年から名称を「江戸川」とした。放水路を開削したとき、「行徳堰」が設けられた。この堰は固定式で洪水に対処できず、1947(昭和22)年のカスリーン台風による大雨の被害もあって、1950年着工1957年完成で可動式の堰を造ったのが行徳可動堰。「水門」とどこが違うのか分らない。



行徳可動堰(第3堰柱)。ローリングゲートは下に下がっていてほぼ水没している。
現地の案内板(今は撤去されたかと思う)によると、ゲートが鋼製鋲接ローリングゲート、純径間30m、扉高4.5m、ドラム径3.5mで3基。巻上機は60㏋、昇降速度30cm/分が 1基ずつ。
地盤沈下による嵩上げ工事を1975(昭和50)年~1977年で行った。
そして完成後50年以上がたって老巧化した可動堰を改修する工事が、2011年3月から開始し、2014年に完了したようだ。改修といってもほぼ新設する大がかりなものだった。



行徳橋。
行徳可動堰に併設されていたのが行徳橋。千葉県道6号市川浦安線の道路橋だ。1956年(昭和31年)3月の架橋。行徳可動堰の管理橋でもあり、堰と一体の橋。全長422m、幅7m(車道5.5m、歩道1.2m)で、ここを路線バスが走る。自転車は歩道をいくことになっているがすれ違うのが大変だ。
2015(平成27)年から架け替え工事が始まり、2020(令和2)年3月に開通した。新しい橋は堰の上流に架けられた。古い方は今頃は解体されたかもしれない。


行徳橋北詰。簡単な親柱があった。写真奥は1972(昭和47)年架橋の新行徳橋。県道6号のバイパスだ。

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MADマンション。千葉県松戸市松戸。1984(昭和59)年4月22日

松戸ビルヂング(1974年築、20階建、伊勢丹の事務所棟)にあったホテルニューオータニの宴会場(回転レストランではなかったような気がする)で法事の会食をしたときに、そこから撮った写真。松戸駅東口の南側が写っている。
画面中央辺りのビルが「MADマンション(通称)」(1973年築、5階建20戸)。現在のグーグル地図では手前にマンションが建って隠れてしまっている。一時は半分が空室になってしまっていたらしいが、最近「MAD City」の活動で、いろいろ工夫して改善されているらしい。
画面右下に「第一家電松戸店」が見える。第一家庭電気は1970年代には国内最大手の家電量販店で1989年には200店舗があったという。事業を広げすぎたのだろうか、2002年に破産した。


1枚目写真の下に続く範囲。画面中央辺りのビルの屋上に「ビジネス・旅館・家月」の看板が読める。

グーグル地図より。1984年の写真に見える建物をマークしてみた。全部ではなく気がついたものだけ。

1.松戸ハイム(1973年11月築、11階建163戸)。2.高橋ビル(中華蕎麦 とみ田)。3.太陽生命松戸支社。4.大橋工務店。5.塚ノ越県営住宅(「塚ノ越」は地名らしい)。6.菊池司法書士事務所。7.3階建て民家。8.平屋の民家。

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東府屋玩具店。松戸市松戸1818。2005(平成17)年1月25日

JR松戸駅西口から少し西へ行くと南北の商店街の通りに出る。旧水戸街道(県道5号)だ。その交差点から南へ300mほどで坂川を渡している春雨橋になる。写真はそこの交差点(橋は写真の右手)で、角は駐車場で次いで東府屋と帝国堂時計店の二軒長屋が並んでいる。どちらも戦前から続く商店で、建物も戦前からあるものかと思う。
現在は両者とも「ルフォン松戸ザ・レジデンス」(2015年1月築、14階建93戸)というマンションに替わっている。
東府屋玩具店は写真では「東府屋人形店」「東府屋玩具人形店」「おもちゃ屋東府屋」という3種類の看板の文字があげられている。その後看板は書き換えられて「東府屋人形店」だけに変わり、ぼくは雛人形の専門店かと思っていたが、『表の家>松戸駅付近のおもちゃ屋さんについて』によれば、昭和40年代では子供にとっては唯一の「松戸のおもちゃ屋」だったらしい。

『昭和の松戸誌』(渡邊幸三郎、崙書房出版、平成17年、1905円)に、1992年の調査による昭和12年の家並み図が載っていて1軒々々の簡単な解説もある。それによると、帝国堂の長屋のもう1軒は「つるや」で、写真手前の駐車場になる前の店は「橋本屋」。
解説文を引き写すと「○つるやは松戸最初の洋服小売店。「つるや」のネオン。今は廃業。○津田帝国堂は時計屋で、旧郡役所通りから昭和13年移転。その前の店は不祥。健在。○附木屋東府屋は隣の橋本屋と兄弟、江戸期以来の老舗。東府屋は昔は豆腐屋、当時はおもちゃ屋。健在。○橋本屋は当時荒物雑貨店。今は民芸品店として健在。どちらも曾宮姓。」
昭和12年当時は松戸ではネオンは珍しかったのだろう。「旧郡役所通り」は写真右の車が入っていこうとする道路。

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検見川送信所。千葉県千葉市花見川区検見川町(けみがわちょう)5。2009(平成21)年4月4日(5枚とも)

現在廃墟状態で残っている建物(本館)は、1926(大正15)年4月1日に開局した「東京無線局検見川送信所」。設計は逓信省経理局営繕課の吉田鉄郎(東京中央郵便局1933年、大阪中央郵便局1939年が有名)、施工は近藤組(東京深川)、構造はRC造2階建て。『旧検見川無線送信所文化調査業務委託』には設計として吉田以外に「製図:橋本真太郎、監督:新作義信・南田喜義・菅原勝四郎」の名前が載っている。
『近代建築ガイドブック[関東編]』(東京建築探偵団、鹿島出版界、1982年、2300円)には「彼(吉田鉄郎)の作品としては初期にあたり、未だ表現派の影響を脱し切っていない。特に正面階段、ポーチ、パラペットなど、丸みを持った表現は、ドイツ表現派の影響を顕著に見い出せる。」とある。
1937(昭和12)年に第2期工事が行われ、本館の後にやはり吉田の設計による「第4発信室」などが増築された。発信室は2階建てで窓が大きい四角い建物で現代的な外観ものだったようだ。
1952(昭和27)年8月1日、日本電信電話公社発足に伴い、同公社の検見川無線送信所となり、35年間使用されて、1979(昭和54)9月2日 、業務を名崎送信所に移管して廃止された。
それ以降の経過は『検見川送信所を知る会>閉局~「知る会」発足』と『同>これまでの取り組み』に記されている。



検見川送信所、裏(北)側。1階が盛り土で隠れてしまっている。

窓が鉄板で塞がれている。そうなる前の写真が『分離派建築博物館>逓信省の建築>検見川無線送信所』で見ることができる。1992年に撮られたもので貴重な写真だ。

収蔵庫・壱號館>『検見川送信所を知る会』第3回イベント2008.09.01』では電波を発する鉄塔や電線について述べている。
既出の『文化調査業務委託』の「当初配置図」には「90系鉄塔」6本、「75系鉄塔」2本が局舎の周りに立てられた。『検見川送信所を知る会>沿革』には「送信用アンテナは、高さ90mが6本、同75mが4本立てられました」とある。『分離派建築博物館』の記事には昭和14年当時の配置図があり、鉄塔は30本以上が記されている。
電気のことをよく知らないぼくは、電波塔は東京タワーのように1本あればいいのではないかと思うのだが、検見川無線送信所の場合は、アンテナの本体は鉄塔間に張られた空中線で、そこから指向性のある電波を発信する。届けたい地区に対して1本の空中線を張るという具合らしい。
『知る会』の記事には「開局時の経費」が載っていて、総計77万円なのだが、最も高価なのが英国製の送信機で、2台で42万円。アンテナ建設費は17万円。本館建設の12万円よりアンテナの方が費用が高い。土地購入費は5万円。



検見川送信所、横(東)側。



給水塔と記念碑

給水塔のような建造物は『文化調査業務委託』の「局舎の変遷」には「ポンプ室」となっている。「毎日新聞千葉版、2008年11月20日」のコラム「千葉遺産」には「無線機械を冷却するために使われていた給水塔」とある。

「検見川無線局跡」の記念碑は『検見川送信所を知る会>検見川無線送信所記念碑建立の経緯』に、建立の趣意書(1983(昭和58)年11月)と「千葉日報」の除幕式の記事(昭和59年5月)が載っている。写真では地面に説明板のようなものが残っているが、右下に付いていた「検見川無線局跡」の銘板ははずれて立てかけられていたはずだがなくなっている。自然に劣化したとは思えず、壊した人間がいると思う。

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とらや。千葉県市川市新田5-18。2007(平成19)年4月8日

JR市川駅の東を南北に通っている通りで、左(北)へ行くと100mほどで国道14号(千葉街道)に出る。昭和30年頃の建物と思われてとりあえず撮った写真だ。今ストリートビューを見ると、2009年7月にはとらやの建物(実際には店名が分らないが角の生花店の建物だろうか)と、横丁側の隣のスナック(「踊子?」)のような建物がなくなって時間貸し駐車場になっている。2008年頃に取り壊されたと思われる。その後2018年8月に今のファミリーマートが建ったらしい。横丁奥のセキネ質店の左の家の2階に赤提灯が下がっている。「居酒屋たぬき」で、2010年頃まであったようだ。
ネットで調べてみると、とらやという鯛焼き屋(「菓子店」というのが正しいかも知れない)は、まず「市川とらや」といったらしい本八幡駅南口の店が出てくる。この店は2015年6月に閉店してしまった。もう1軒の「中山とらや」は下総中山駅の南の住宅街にある。写真の市川駅そばのとらやは本八幡駅へ移転したのだろうか。
さらに「市川真間店」があった。写真の店からほど近い「真間銀座通り」という商店街のマンションの1階にあった店で、2009年9月と2011年1月のストリートビューで確認できる。鯛焼きの幟が出てないので普通の菓子店だったと思われる。

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日本福音ルーテル市川教会
千葉県市川市市川4-1
2003(平成15)年11月19日

市川教会は京成線国府台(こうのだい)駅から歩いて5分ほどのところで、真間川に沿った道路に面している。周辺は割と大きい家が並んでいる高級住宅街だ。
建物はウィリアム・メレル・ヴォーリズ(1880~1964)の設計で1955(昭和30)年に建てられた。2008(平成20)年に国登録有形文化財に指定された。
国指定文化財等データベース>日本福音ルーテル市川教会会堂』には、「梁間7.3m桁行17mの木造教会堂で、南北棟の切妻造瓦型鉄板葺屋根をもつ単廊式の礼拝堂と、その東面南寄りに建つ4階建の鐘楼からなる。平滑な白色の外壁に、正面や鐘楼上部に丸窓、身廊側面に半円アーチ窓を開ける。ヴォーリズ晩年の作品のひとつ」と解説されている。
2011(平成23)年10月から1年間かけて、耐震補強を含めた修理が行われた。東日本大震災による被害がきっかけのようだが、基礎の水による劣化、塔屋の痛みなどを修理したらしい。『美珍麗・探訪>日本福音ルーテル市川教会』で修理の内容のだいたいのことが分る。

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