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ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 





牛久シャトー、ワインセラー
茨城県牛久市柏田3612
2005(平成17)年12月13日

国指定文化財等DB>シャトーカミヤ旧醸造場施設』に「醗酵室(神谷傳兵衛記念館)と貯蔵庫との入隅部はもと洗滌場とされる」とある部分。「もと洗滌場を主体とする越屋根付き煉瓦造平屋建を設け、内部北面の階段で醗酵室地階と連絡する」ともある。牛久シャトーの3棟の施設が明治36年(1903)に竣工してから、明治38~44年に増築された(『シャトーカミヤの建設経緯と建築的特徴(日本建築学会計画系論文集、2008年)』)。
収穫した葡萄を醗酵室に運び入れる前に、ここで洗滌したのだろうか。あるいは樽を洗っていたのかとも考えられる。
牛久シャトーでのワインの生産は昭和45年で中止、以後売店やレストランが順次開店していくが、「ワインセラー」(ワインの販売所)に転用されたのもその頃と思われる。



苗木場(北面)

『国指定文化財等DB』に「醗酵室の西面には地階床と同レベルの煉瓦造平屋建のもと地下室苗木場が附属し」とある部分。『建設経緯と建築的特徴』によれば明治44年以前の増築。「地下室苗木場」というからには写真は1階部分でこの下に地下室があるのかと思えてしまうが、見える部分が地下室らしい。西側に出入り口がある。ここに葡萄の苗木を保存していたものらしい。

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神谷傳兵衛記念館。茨城県牛久市柏田3612。2005(平成17)年12月13日

牛久シャトーの「神谷伝兵衛記念館」は『国指定文化財等DB>シャトーカミヤ旧醸造場施設』の「醗酵室」。明治36年(1903)竣工、煉瓦造2階地下1階建、設計は岡田時太郎とされるが、DBには「岡田時太郎が率いた岡田工務所で、シャトーカミヤの設計担当は、この時期に住所を岡田時太郎方とした森山松之助と推測される」とある。施工者は不明。解説に「醗酵室は、階上を「機械作業室」、階下を「醗酵室」、地階を「貯蔵倉庫」とし、北東端と北西端を張り出して階段室とする」とある。
神谷傳兵衛記念館は2001(平成13)年1月の開業。



神谷傳兵衛記念館内部、1階・2階

シャトーカミヤの建設経緯と建築的特徴(日本建築学会計画系論文集、2008年)』によると、収穫された葡萄は「トロッコで入口まで運ばれ、手動式小形起重機で2階に運び上げられた」「2階で葡萄が機械で搾られ、果汁は落し口から階下の樽に移され、そのまま醗酵させた」「地下室は中央に通路、その左右に小樽が横置きに並べられている」と醗酵室でどのように葡萄酒を作っていたかの一端が分る。
地下室にも窓があり、その外は地上に半円形に掘られた穴があって外光が入る仕掛け。
建築材料の煉瓦はかつてシャトーカミヤの敷地にあった煉瓦釜で焼かれたという。土も牛久葡萄園内のものだったらしい。その場所は醗酵室のすぐ東、現在、「FOOD OFFストッカー牛久柏田店」というスーパーになっている。
生産をやめたのはいつのことかと気にしながら「建設経緯と建築的特徴」を読んでいくと、「神谷葡萄園は戦時中に荒廃した」働き手が兵隊に取られてしまったせいだろうか。「戦後の農地改革により小作地として解放され、葡萄園の大規模経営は終焉した。現在は敷地の多くが宅地として分譲された」「戦後は規模を縮小して昭和45年に貯蔵・生産を中止した」とあった。
生産高は明治大正を通して、葡萄酒が一般家庭には普及しなかったので、150-180石前後であまり延びなかった。戦後はさらに縮小してしまったと思われる。銘柄はやはり「蜂ブドー酒」だったのだろうか。記念館には明治40年頃の製造とされる「牛久葡萄酒」が展示されている。



神谷傳兵衛記念館裏(北)側。

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牛久シャトー本館。茨城県牛久市柏田3612。2005(平成17)年12月13日

神谷傳兵衛は「蜂葡萄酒」と「神谷バー-電気ブラン」が有名で、洋酒がよほど好きだったのだろうか。『牛久シャトー』によると、子供の頃に酒造家の裕福な暮らしを見て、将来は自分もと思ったらしい。横浜の洋酒醸造所で働くようになる。病気になったときに、葡萄酒を飲まされて全快した経験が決定的だったようだ。1886(明治19)年に、輸入した葡萄酒を甘くした「蜂印香竄(こうさん)葡萄酒」を売り出して成功する。次に考えたのは、ブドウ栽培からワイン醸造までの一貫生産で、今までとはレベルの違う事業である。
神谷は小林傳蔵を婿養子として迎え、1894(明治27)年に彼を研究のためにフランス・ボルドーへ留学させる。小林傳蔵は優秀な人で、2年間でブドウ栽培やワイン醸造法を習得して帰国する。
1893(明治31)年には茨城県稲敷郡岡田村(現・牛久市)に23町歩(最盛期には160町歩、栽培面積40町歩)の「神谷葡萄園」ができあがる。1901(明治34)年3月に「牛久醸造場」の建設にかかり、1903(明治36)年9月に完成する。小林傳蔵が中心になって建設したように思われる。



「牛久シャトー本館」は、『国指定文化財等DB>シャトーカミヤ旧醸造場施設』の「事務室」で、1903(明治36)年竣工、煉瓦造2階建、「設計は、岡田時太郎が率いた岡田工務所で、シャトーカミヤの設計担当は、この時期に住所を岡田時太郎方とした森山松之助と推測される」とある。普通は岡田時太郎として森山松之助の名前は出てこない。
「事務室」とはいえ、迎賓館として建てられたと思われる。フランス・ルネサンス風の洋館。
『近代建築再見[上巻]』(山口廣+日大山口研究室著、㈱エクスナレッジ、2002年、1400円+税)に以下のような外観についての記述があるので引用してみる。「外観は付け柱(ピラスター)がなく装飾は簡素。1階中央のアーチとその上の三角破風(ペディメント)、傍の塔が大胆で華やかで外観をまとめている。入口アーチは中央より少し右にずれ、窓の配置も左右対称ではない。左右の端に腰折屋根(マンサード・ルーフ)を載せ外観全体をひき締めている。細部を描いていくと、軒の出の深い庇、2階の窓台、その下の腰蛇腹(コーニス)と3本の水平線が建物全体をめぐり、窓枠と窓桟の垂直線と調和(バランス)をとっている。」。
『近代建築再見』には、神谷が酒税法改正のために、シャトーに政治家・役員・文化人を招いて視察・試飲してもらった、という推測が述べられている。

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民家。千葉県浦安市猫実4-15。2009(平成21)4月24日

庚申通りのをばや金物店の前を南に行くと境川で、記念橋が架かっている。上の写真の家はその橋のたもとにあった。1階も2階も大きな座敷がありそうで、アパートなどではなく住居だったように見える。
表札の下に「清心元講(せいしんもとこう)」の表札が貼ってあった。豊受神社(ここから400m東にある浦安で最も古い神社)の隣にある清心大菩薩と不動明王を信仰する講らしいのだが、特に漁師の間で多く信仰されていたという。
ストリートビューからは2018年7月から2019年6月の間に取り壊されて、跡地は浦安市が管理しているらしい。

記念橋は大正天皇の即位御大典事業として1915(大正4)に架橋された。天皇即位を記念して記念橋という。橋長15.6mのコンクリート橋。浦安市が管理する45橋のうちでは最も古い。知らなければただの小さい橋で、特に由緒は感じられない。


記念橋。浦安市猫実4-堀江3。2009(平成21)4月24日

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大塚魚店。千葉県浦安市猫実4ー14。2009(平成21)年4月24日

庚申通りの「をばや金物店」の隣が上の写真の家。1980年の住宅地図(『 Deepランド>歴史散歩>浦安「大人の夢の国」』)で、「大塚魚店」となっているから古くからある魚屋なのだろうか。浦安市郷土博物館に移築されている「魚屋」(旧太田家住宅)が、商売の形態を考えるときの参考になるのかも知れない。
家はトタン葺きの屋根の平屋のようだが、屋根裏部屋があるのだろう。元は茅葺きだったと思える屋根の形状である。となると、境川の対岸の「旧大塚家住宅」が連想される。大塚魚店も元は漁師の家だったのではないか。なんだか「旧大塚家住宅」と同様に、漁師町の遺構のように思えてきた。



大塚魚店。千葉県浦安市猫実4ー14。2009(平成21)年4月24日

大塚魚店の隣の民家。住宅地図では大塚魚店の建物と一緒の記載で、魚店の住居部分だったのかも知れない。ストリートビューを見ると、2009年11月から2014年4月の間に取り壊されている。跡地は現在も空き地のまま。
この辺りの境川の両岸には「大塚」姓の家が多い。詮索のしようもないのだが、親戚関係にあるのではないかと怪しんでいる。
境川の南、堀江に千葉県指定有形文化財である「旧大塚家住宅」と並んで浦安市指定有形文化財の「旧宇田川家住宅」がすぐ近くにある。この「宇田川」姓の家が、やはりこの辺りの境川の両岸に散在する。

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をばや金物店。千葉県浦安市猫実4ー14。2009(平成21)年4月24日

をばや商店は庚申通り商店街に永いこと店を構えている金物店らしい。建物も戦前からのもののようだ。「をばや」は漢字でどう書くのだろうか。電話帳の記載場所を意識した店名のような気もする。2階建の店舗の後に、ほぼ同じくらいの大きさの平屋の部分が隠れている。住居部分なのだろうが、倉庫としても使っていた時代があったような気もする。
をばや商店の右は現在は児童公園のような広場になっている。元は商店が建っていて、1985年頃に今のように変わったのかと思う。その店は『 Deepランド>歴史散歩>浦安「大人の夢の国」』と『浦安プロジェクト2014.11』に載っている古い住宅地図では、1969年が「パチンコ店」、1971年が「大衆酒場」、1980年が「FGチェーン」。

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吉川歯科医院。千葉県浦安市猫実4-14。2009(平成21)年4月24日

東西線浦安駅から南へ400mのところに通りを挟んで庚申塔と庚申堂があり、その間に「庚申動通り入口」の看板を挙げた街灯が立っている。庚申通り商店街(街灯には「庚申通り専門店会」)で、狭い通りでクランク状に東西に通っている。今は店も少なくとても商店街という感じはしないが、南の境川を渡ったところのフラワー通りと同じく、古くからある商店街だという。猫実とフラワー通りの堀江は、埋め立てが進む以前からある浦安の町の原型のようなところだ。
上の写真では商店街の中にあるようには見えないが、左写真には「庚申通り」の街灯が写っている。古い航空写真から寄棟屋根の割と大きい日本家屋だったようだ。通り側には出入り口がない。ストリートビューからは医院はだいぶ前から廃業していた様子だが、建物は2017年か2018年に取り壊された。それまで板に書いた「吉川歯科醫院」の看板が平屋部分に残っていた。今は空き地のまま。

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吉原マシン工業。埼玉県川越市久保町12。1989(平成1)年9月18日

埼玉県道15号線(川越日高線)は久保町(くぼまち)を東西に通っていて、その区間は「久保町通り」とも言われる。そのほぼ東端が喜多院入口のアーチがある交差点で、吉原マシン工業はその東北の角にあった。右から書きの「東武タクシー」の文字のレリーフがあって、戦前築の看板建築と思われる。『川越の建物 近代建築編』(仙波書房、2021年、2,200円)によると、大正末期から昭和初期頃の建築。2018(平成30)年頃に解体された。現在は駐車場だ。
左の写真はストリートビュー(2021年2月)からの画像。立門前商栄会の通りで、中央通りから東へ入ってすぐのところ(連雀町8)。鶴川座の跡地に建てられた「旅籠 小江戸や」の隣の建物である。少し奥の建物から焼きそばの「まことや」と「きものや沙羅」が前に飛び出ている。建物本体は切妻屋根で看板建築である。その看板部分の上の壁に施された半円を並べた模様が吉原マシン工業のそれとほとんど同じだ。施工者が同じなのだろうか。この建物も戦前築なのかも知れない。

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スナック零(旧洋品店コロンボ)。埼玉県川越市久保町
1989(平成1)年9月18日

埼玉県道15号線(川越日高線)から喜多院への入口になる交差点の角にあった、洋館と言っていい建物。『日本近代建築総覧』に「洋品店コロンボ、川越市久保町11ー12、建築年=大正14年、木造3階建、施工者=水村元太郎」とある建物と推定できたが、『近代建築撮影日記>川越の近代建築(その2)』によって確認できた。そのサイトの写真は1996年4月の撮影。上の写真では黒くつぶれてしまった県道側の面がちゃんと写っている。
県道15号は久保町(くぼまち)を東西に通っていて、その区域は久保町通りで「喜多院不動通り商店街」になっている。昭和3年に今の道幅に整備されたため、両側には昭和4年頃に建てられた町屋や看板建築の商店が少しは残っている。洋品店コロンボは大正14年の築というから、道路の整備と並行して建てられたのかもしれない。
小さな建物だが装飾にかなり凝っている。2階のアーチの飾りを付けた縦長の窓、テラスへのガラス戸の上の窓、テラスの手すり、その両端の柱、などに目が行く。
いつ頃取り壊されたのか分らないが、現在は空き地のままで駐車場にしている。

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二郷半領不動堀樋。埼玉県三郷市戸ヶ崎。2003(平成15)年11月26日

閘門橋の100mほど北に古いアーチ橋がある。そこからまた100mほど北に同じような外観の橋があり、共に県道67号(葛飾吉川松伏線)を渡している。下を流れる川は共に「第二大場川」で、第二大場川はここでは中州を挟んで二本に分かれているのである。すぐ西で合流した後、そのすぐ南で大場川に入る。川が2本になっているところの長さは東西に400m。第二大場川はこの辺りでは中川に排水するため人工的に掘られた掘割と思われるのだが、なぜ2本も掘られたのか不可解である。
第二大場川の水源は約9km北の武蔵野線の吉川駅辺りという。二郷半領用水と大場川との間を南下してくる。1973(昭和48)に三郷放水路ができて、今はそこから江戸川に入ってしまう。第二大場川は三郷放水路で分断されてしまったわけで、そこまでの上流部を上第二大場川、下流部を下第二大場川という場合もある。江戸期に農業用水路として整備されてきたのだろうが、現在では中川と江戸川に挟まれた三郷市の低湿地の排水路である。

閘門橋に近い方が「二郷半領不動堀樋」。「不動堀」とは第二大場川のこと。『きまぐれ旅写真館>二郷半領不動堀樋』によれば、「逆流防止用として建設された樋管」で「1914(大正3)年4月1日に着工し、同年5月30日に竣工している」。



二郷半領用水逃樋。三郷市戸ヶ崎。2003(平成15)年11月26日

二郷半領不動堀樋のすぐ北にあるのが「二郷半領用水逃樋」。『きまぐれ旅写真館>二郷半領用水逃樋』によれば、「逃樋(にげひ)とは余水吐(よすいばき)のことで、メインとなる施設に併設され、緊急時あるいは保守点検時に通水を行うためのもの」。「二郷半領用水」は第二大場川に入ってくるので、二郷半領用水路が増水した場合の放流施設である。1912(明治45)年1月12日起工し、同年3月31日の竣工。建設時には石造りの親柱と鋳鉄製の欄干が設けられていたという。

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