あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

満井佐吉中佐の四日間 1 『 維新ノ渙發ヲ詔勅シテ仰グコト 』

2019年12月11日 15時16分14秒 | 赤子の微衷 3 渦中の人達 (山口一太郎、満井佐吉、小藤恵)


満井佐吉 
第一回聴取書
本籍  福岡県企救郡企救町字石田一〇五一
住所  東京市世田谷区松原四丁目一四四番地
所属  陸軍大学校
陸軍歩兵中佐  満井佐吉
明治二十六年五月五日生
右者、昭和十一年三月十一日、渋谷憲兵分隊ニ於テ、本職ニ對シ左ノ陳述ヲ爲シタリ
一、本籍、住所、所属、官等、氏名、年令ハ前述ノ通リ相違アリマセン。
一、位記、勲章ハ正六位勲三等デアリマス。年金恩給ハアリマセン。
一、未ダ刑事上ノ處分ハ受ケタコトハアリマセン。
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一、相澤公判ノ特別辯護人トナリタル經緯ニ就テ申上ゲマス。
 相澤中佐同期生ヨリノ依頼ニ依リ起ツタノデアリマスガ、
當時私ノ心境ハ、近來軍中央幕僚ト靑年將校トノ間、竝 靑年將校中所謂皇道派ト稱セラルゝモノト
「 フアツシヨ 」 派ト稱セラルゝモノトガ互ニ感情的對立ヲ持チ、
軍ノ精神的結束ヲ困難ナラシメツゝアルヲ憂慮セラレ、
偶々私ハ所謂皇道派ノ靑年將校トハ比較的意思疎通可能ナルニ依リ、
彼等靑年將校と 「 フアツシヨ 」 派將校トノ感情ノ疎隔ヲ緩和シ、對立観念ヲ除去シ、
又、軍幕僚ト靑年將校トノ感情ヲモ融和セシメンコトヲ欲シ、
一、之等ノ爲メ、重要人物タル石原大佐 ( 幕僚方面 )、橋本大佐 ( フアツシヨ派 ) ト屡々意思ノ疎通ヲ計リ、
 全軍一致シテ、時勢ニ善処スルノ必要ヲ力説シ、蔭ナガラ軍ノ結束ニ關シ貢献シツゝアリマシタ折柄、
相澤中佐ノ同期生タル赤鹿中佐 ( 士官學校 )、牛島中佐 ( 士官學校豫科 ) 外二名 ( 姓名不詳 ) ノ人々ヨリ、
特別辯護人タルベキ交渉ガアリマシタ。
最初來訪ノ時ハ私ガ留守デアツタノデ、再ビ來訪セラレテ、私ニ對シ、
「 同期生中ニハ種々ノ立場上及其他ニ依リ適任者ナキ爲、特別辯護人ニ是非起ツテ貰ヒタイ。
 鈴木貞一大佐ハ、永田閣下ノ部下ナルガ故ニ辭退セラレ、
中央部ニハ村上大佐、西村大佐、牟田口大佐等ガ居ラレルガ、中央部デ立場ガ惡イカラトノコトデアリ、
又、聯隊附將校ニハ中央ノ事情ヲ認識スルモノガナイ。是非引受ケテ貰ヒタイ 」
トノ交渉ガアリ、困ツテ居ラレマシタノデ、
私個人トシテハ上司ニ於テ許可ガアレバ出テモ良イト申シマシタ処、
同期生カラ、陸大幹事岡部少將ハ、其時ハ許可セラレナイ様ナ口吻ヲ漏ラサレ
「 考ヘテ置く 」 トノコトデアリマシタノデ、參考迄ニト思ヒ、私ヨリ次ノ様ナ許可ノ可否ニ關シ意見ヲ申述ベマシタ。
「 若シ相澤中佐ノ特別弁護人ヲ受諾スルナラバ、
一、目下靑年將校同志ノ間ニ、互ニ實力行動ニ出ヅルガ如キコトハ絶對ニ避ケタイ。
二、軍裏面ノ歴史的ニ旧事實、例ヘバ十月事件、三月事件等、相澤事件ト直接關係ノ少ナキモノハ、
 成ルベク必要最小限ニ言及スルコトニ依リ、軍内ニ騒動ヲ起サゼル様ニ努メタイ。
三、靑年將校ノ氣心モ、軍中央幕僚ノ立場モ、克ク心得テ居ルカラ、
 兩者ノ立場ヲ無視シテ、 正面衝突ヲセシムル如キコトハ避ケル。
之ヲ要スルニ、相澤公判ハ一歩ヲ誤レバ軍ヲ破壊ニ導ク虞レ多キヲ以テ、
私ガ起テバ靑年將校モ或程度ニ信頼シテクレルデアラウシ、
又、軍全體ノ爲ヲ考ヘルカラ或ハ事ナク公判ヲ終了スルカモ知レナイ。
之ニ反シテ隊附靑年將校中ヨリ起テバ、軍中央ノ立場ヲ理解セザルヲ以テ、
感情的トナル虞アリ、其ノ結果ハ事件ヲ捲キ起スヤモ知レナイ。
寧ロ、私ガ起ツタ方ガ靑年將校モ穏便ニ濟ムカト思ヒマス。」
トノ意味ヲ具申シマシタ処、岡部幹事ハ、其ノ心持チハ自分モ克ク判ルト申サレマシタ。
ソレカラ約一週間位經ツテカラ、岡部幹事ヨリ口頭ヲ以テ御許シヲ受ケマシタ。
其間ニ幹事ハ參謀本部、陸軍省ト交渉セラレタモノト思ヒマス。
以上ノ様ナ經緯デ引受ケタノデアリマス。

私ガ相澤中佐ノ特別弁護人ヲ引受ケマシテカラ、赤鹿中佐、牛島中佐ヨリ、
公判ニ關シテハ龜川哲也ヨリ手續其他法理的ノコトノ援助ヲ受ケル様ニトノコトデアリマシタ。
龜川哲也ハ荒木大將閣下ヲ顧問トスル農道會ノ主任デアリ、
法律、經濟方面ニ詳シキ人物デ、會計檢査院ニ長ク居タ人デアリ、
荒木大將ノ陸相當時、私ガ陸軍省調査班ニ居タ頃、農村問題ニテ意見ノ交換ヲシタルコトガアリマシテ、
爾來知合トナツテ居ル人デアリマスノデ、同氏ト公判手續其他ニ附イテ互ニ一、二度往來シマシタガ、
私トシテハ龜川氏ニ公判ノ全部ノ指導ヲ受ケル意思ハアリマセンデシタノデ、
五 ・一五事件ノ弁護人デアツタ菅原祐ハ日本精神ノ主張者デアリ、平泉博士ト親交アリ、
此ノ人ニ法律上其他、弁護上ニ關スル指導ヲ受來ルコトゝシマシタ。
爾來相澤中佐ニ面會シ、手續及弁護ニ關スル材料ノ蒐集其他公判ノ研究ニ入リ、
其頃ヨリ村中、磯部トモ面會シ、尚公判開始前、陸大岡部少將ニ、陸相以下幕僚ニ私ノ意見ヲ申上ゲ、
軍ノ實情ヲ収拾セラルゝ必要アルコトヲ進言シ、
其ノ結果、公判開始前四日程前ニ開カルル処、行違ヒニテ不能トナリ、
公判開始前日ニ陸軍省ニテ大臣、次官、參謀次長、軍務局長、調査部長、軍事課長ニ對シ、
軍ノ實情容易ナラザルモノアルコトヲ申述ベ、實情ト相俟ツテ公判ヲ進メザレバ危險ナリ、
故ニ參議官會議ヲ本日卽開キ、私ノ意見ヲ聞カルル必要アルヲ申上ゲタルモ、
遂ニ容ラレルコトナク公判開始トナツタノデアリマス。

一、次ニ私ト靑年將校トノ關係ニ就テ申上ゲマス。
 私ガ久留米歩兵第四十八聯隊大隊長ヨリ陸軍省調査班ニ轉出セル頃、
調査班ニ私ヲ訪ネテ昭和維新ヲ慫慂しょうようセル將校ニ
天野大尉 ( 當時士官學校 )、常岡大尉 ( 廣嶋電信隊陸地測量部修義技生 ) アリ、
當時磯部主計モ亦來訪シタルコトガアリマス。
當時調査部長東條少將ハ私ニ將校ノ動靜ニ注意シテ居ル様ニ申サレタコトモアリマスノデ、
私ハ時々天野大尉、常岡大尉ノ自宅及磯部主計ノ下宿ヲ訪ネテ其ノ動靜ニ注意スルト共ニ、
其ノ行動ヲ誤ラシメザルノ如ク着意シ、
村中元歩兵大尉、栗原中尉トモ、磯部主計ノ下宿デ一、二度會ツタコトモアリマシタ。
一、當時天野大尉、常岡大尉等ハ十月事件組ニテ、
 其ノ主張ハ理論ヨリモ實行主義ニシテ稍矯激ノ嫌アリシガ、
磯部、村中等ハ十月事件當時ノ自重派ニシテ、
其ノ主張ハ堅實ニ軍首脳部ヲ信頼シテ上下一致維新ニ嚮フコトヲ目標トシ、
逐次斯ル空氣ノ擴大ヲ希望シアリタルガ如ク見受ケラレ、
當時ノ陸相荒木大將ニ對シ、常岡大尉、天野大尉等ハ 「 荒木爲ス無シ 」 トノ感ヲ抱キ、
東條少將、池田純久中佐、田中清少佐、片倉少佐ノ軍中央部幕僚 亦 反荒木的氣勢ヲ示シアリシガ、
磯部、村中等ハ國體信念ヲ有シ 且ツ 維新氣分ヲ有スル時ノ長官タル荒木陸相ニ信頼シテ
上下一致結束シテ進ムコトヲ希望シアリシガ如ク、
又、私ノ信念ハ軍ノ組織ノ本質ニ鑑ミ、
時ノ大臣ヲ排撃シ、實力行動ヲ慫慂スルガ如キ天野、常岡大尉等ノ思想ニハ同意スル能ハズ、
又、當時陸相ヲ更迭セント企圖セル如キ軍中央幕僚ノ政治的態度ニモ同意シ難ク、
時ノ長官ニ信頼シ、全軍上下結束シテ進マントスル磯部、村中等ノ主張ニ比較的多ク眞理ノ存スルヲ認メ、
此ノ點ニ關シテハ共鳴シマシタガ、何レノ色彩ノ靑年將校ニ對シテモ、
實力行動ヲ是認シ 又 慫慂シタコトハ無ク、常ニ之ヲ否認シ自重ヲ促スノ態度ヲ持シ、
天野、常岡等ノ思想ニ對シテハ特ニ反對ノ意圖ヲ主張シ、
當時著シク反荒木的ナリシ軍幕僚群竝ニ天野、常岡等十月事件組ノ靑年將校ハ、
私ノ態度ヲミテ荒木派ナリト誤認シ、露骨ニ反對ヲ表明シ、
當時無根ノ事實ヲ怪文書トシテ私ヲ攻撃セルモノスラ出デタルコトガアリマシタ。
一、私ガ陸軍大學ニ轉勤スルニ及ビ、是等靑年將校トノ面接ノ機ナカリシガ、
 所謂十一月事件ノ發生ヲ見テ靑年將校等憤激シ、粛軍パンフレツトノ筆禍ニ依リ、
村中大尉突然免官トナルニ及ビ、村中退校ニ關スル大學幹事ノ注意ニ見テモ、
軍中央部ノ處置ハ必ズシモ公正ナラザルヲ感ジ、私モ村中ニ同情シ、
一度村中大尉ヲ其ノ自宅ニ訪ネ、慰撫シテ自重ヲ促シタルコトガアリマシタ。

續イテ永田事件ノ公判迫ルニ及ビ、前述ノ如ク相澤中佐ノ特別辯護人ヲ受諾後、
村中ハ自宅ニ二回位、又、辯護人控室ニ來訪シ、辯護ニ關シ希望ヲ述ベ、
或ハ私ヨリ材料ノ蒐集ヲ託シタコトモアリマシタ。
一、尚、手續等ヲ中心トシ 村中、磯部、栗原、香田、其他二、三名ノ將校
 及相澤中佐ノ同期生等ノ希望ニ依リ、
昨年末一夕新宿本郷バーニ集リテ座談セルコトアリシモ、實力行動等ノ話ハ全然アリマセンデシタ

一、永田事件ノ公判ハ、其ノ原因動機ノ性質上及軍全體ノ實情ノワダカマリ上、
 之ガ取扱ニ注意ヲ要スルノミナラズ、
軍首脳部ニ於テモ軍ノ實情収拾ニ關シ大イニ注意ヲ要スルモノアルト認メ、
公判開始前日、陸相、參謀次長、陸軍次官、軍務局長等ニ引見セラレ、
忌憚ナキ意見ヲ述ベタルモ、遂ニ容レラレルニ至ラズ。
一、公判中、村中ハ一、二回自宅及辯護人控室ニ來リタルコトアルモ、
 私ハ其都度、合法的ニ公判ヲ成功セシムル確信アルヲ以テ自分ヲ信頼シ、
斷ジテ情況ヲ悲観シ、思ヒ詰ムル等ノコトナキ様ト自重ヲ促シタルガ、
當時、村中等ニハ特ニ不穏ノ計畫等ヲ爲シツゝアルガ如キ態度ハ認メマセンデシタ。
一、公判ハ漸次順調ニ進ミ、好結果ヲ示シ居リ、中間ニ於テ公開禁止續キタル爲メ、
 公判ノ中頃以來ハ暫ク村中ノ來訪ナク、
又、兵力迄モ使用シテ實力行動ニ出ズルガ如キアルベシト全ク考ヘズ、油斷シ居タルガ、
二月二十六日突如本事件ヲ見ルニ至リ、私ノ主義ニ反シ、辯護人トシテ出タル甲斐ナク、
誠ニ遺憾ニ堪ヘザル処デアリマス。
一、本事件突發前日二十五日ニ證人申請 シマシタコトハ、私ハ次回ニ申請スル希望デアリマシタガ、
 裁判長ヨリ是非今日トノ事デ、急遽鵜沢辯護人ト相談ノ上 證人ヲ申請シ、其理由ヲ述ベタノデアリマス。
一、對馬中尉トハ、同中尉ガ陸大受驗ニ來リシ際、私ヲ訪問シタルガ、
 其時私見ニ關スルコトニ就テハ、應援スルコトハ出來ザル旨ヲ告ゲタルモ、
敬意ヲ表シタシトノコトニテ面會シタル外、特殊ノ關係ハアリマセン。
一、澁川善助トハ、私ガ九州ニ在リシ頃、九州ノ愛國運動者タル靑年ト澁川トガ同志的交友アル關係上、
 二、三年前私宅ヲ訪レタルコト二、三回アリ、公判開始後ハ相澤中佐ノ家族傍聴券ニテ數回傍聽シ、
又、辯護ノ資料タル パンフレツト等ノ蒐集ヲ依頼スル等、三、四回面會シタルコトアルモ、
澁川ハ佛教家ノ如ク、甚シク慈悲心アル靑年ト観察シテ居リマシテ、
今事件ノ如キ實力行動ニ出ヅルガ如キコトアリトハ全然見受ケマセンデシタ。
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二 ・二六事件

一、今回ノ事件突發前後ノ私ノ行動ニ就テ申上ゲマス。

事件突發前 日二十五日ノ公判ニ於テ、
私ハ證人申請ハ次回ニスルコトヲ希望シマシタガ、
裁判官ヨリ當日即急ニ申請スル様トノ要求デアリマシタノデ、
取急ギ申請シマシタ關係上、其夜ハ疲勞シ、
二十六日ハ遅ク迄寝テ居リマシタガ、
午前九時三十分頃、
未ダ就寝中ニ小林長次郎ヨリ電話アリ、
最初 前夜小林長次郎ノ書生ノ川島賢一ガ、公判關係書類ノ整理ヲ手傳ヒ宿ツテ居リマシタノデ、
同氏ガ電話ヲ受ケ、私ヲ起シマシタノデ、電話ニカゝリマシタ処、
「 大變ナ事變ガ起ツテ居ルラシイ。
 陸軍省、參謀本部ニハ全ク警戒嚴重ニシテ這入レナイ。詳シイ狀況ハ判ラナイカ 」
トノ話アリ、
直ニ起床シテ陸軍省、參謀本部、憲兵司令部、警備司令部ニ電話シマシタガ通ゼズ、
午前十時三十分頃、
陸軍省宿直室ニ通ジ、宿直ノ粕田大尉ヨリ、
靑年將校ガ兵力ヲ以テ陸軍省、參謀本部ヲ取巻キ、他ノ職員ハ出頭ナク事情不明ナリトノ事ヲ聞キ、
何トカシテ事情ヲ知リタイト思ツテ、
同四十分頃 朝日新聞社ヲ呼出スモ、不通ナルヲ以テ、
報知新聞社ヲ呼出シ、出原記者ヨリ詳細ノ事情ヲ知リ、
報知デハ號外ヲ出サントシテ目下多忙中、
大分ノ兵力アリ、確カニ武力ニ依ル クーデター デアルコトヲ聞キ、
重大事ガ勃發シタルコトヲ知リ、
心配シテ、陸軍省、參謀本部ノ誰カ首脳部ノ人ニ聯絡ヲ取リタイト電話ヲ數回シマシタガ、無駄デシタ。
午前十一時頃、
陸大ニ電話ガ通ジテ河村少佐ガ出ラレ、學校ニハ變ワリハナイコトヲ知リ、
出勤ノ必要アレバ電話ニテ通知願度キ旨、幹事長ニモ報告ヲ依頼シマシタ。
ソレカラ正午頃、漸ク陸軍大臣官邸ニ通ジ、
秘書官係ノ將校ヨリ古莊次官ノ居ラレルコトヲ知リ、
電話口ニ出テ貰ヒ大體ノ様子ヲ聞キ、
其時、陸相ハ宮中ニ參内セラレテ居ルコトヲ知リ、
事態重大デアルコトヲ察知シ、
次官ニ、
「 御用ガアレバ罷リ出マス 」
ト 申シマシタ処、
次官ハ、
他ニ秘書官モ一、二名居ル、今ノ処、來ナイデモヨロシイトノコトデ、
用ガアレバ出頭スル旨モウシテ置キマシタ。

此ノ頃、澁谷憲兵分隊ヨリ事件ノ情況ニ就テ電話アリシモ、
私ノ方ガモツト詳シイ情況ヲ知ツテ居リマシタノデ、其ノ情況ヲ話シテ置キマシタ。

心配シナガラ昼食ヲ濟シ、
午后一時頃
自發的ニ情況ヲ見ルベク陸相官邸ニ次官ヲ訪ネ様ト思ツテ自宅ヲ出マシタガ、
警戒嚴重デ容易ニ警戒線内ニ入ルコトガ出來ナイノデ、
迂廻シテ海軍省ノ前ヨリ 蹶起部隊ノ將校ニ名刺デ通過願ヲ出シ、許可シテ貰ツテ、
三回ニ亘リ訊問ヲ受ケ、
陸相官邸ニ着イタノハ午後三時頃デアリマシタ。
官邸デハ古莊次官ガ居ラレマシタガ、

次官ヨリ、
「 先刻君ニ來テ貰ウト電話シタガ、今出掛ケタトノコトデアツタ 」
ト 申シテ居ラレ、
ソレデ、
「 自分(次官)ハ 靑年將校ノ言分ハ聞イタガ、君モ聞イテヤツテ呉レ 」
トノコトデ
、次官同席ニテ、
廣間ニ集ツテ居タ 野中、村中、磯部其他七、八名ノ將校ニ面會シ、靑年將校ノ言分ヲ聞キマシタ。
其時、蹶起趣意書ヲ貰ヒ、同紙ノ裏に 「 午後三時貰フ 」 ト書キ、処持シテ居リマス。
其時靑年將校ノ言分ハ、
強力内閣ヲ作リ昭和維新ニ移シテ貰ヒタイコト 及 肅軍ニ關スル希望ヲ述ベテ居リマシタ。

ソレデ次官ガ別室ニ私を呼ビ、
大臣ガ宮中ニ參内シテ居ルトノコトデ、
大臣ト次官トガ別レテ居テハ補佐モ出來ナイト思ツテ、
「 次官閣下モ宮中ニ參内セラレテハ 」
ト 申シマシタ処、
次官ハ山下少將ガ來ル様ニナツテ居ルカラソレ迄待ツトノコトデアリマシタ。
暫ラクシテ山下少將、鈴木大佐、小藤大佐、馬奈木中佐ガ來ラレマシタノデ、
互ニ事態ノ重大性ニ就テ會話シマシタガ、

馬奈木中佐ハ靑年將校ノ希望ヤ要求等ヲ聞イテ居リマシタ。
古莊次官ハ間モナク宮中ニ參内ノ爲出發シ、吾々ハ留守ヲ命ゼラレ、
次デ山下少將ハ鈴木大佐ヲ留守ニ殘シ、參内ノ爲出發サレマシタノデ、
私(満井)ト馬奈木中佐モ同乗シ、山下少將ノミ參内シ、
馬奈木中佐ト同道憲兵司令部ニ行キ、
馬奈木中佐ハ當時憲兵司令部内ニ在リシ參謀本部幕僚ニ
大臣邸ニ於ケル靑年將校ノ情況ヲ報告シ、
私ハ自動車ニテ待ツテ居リマシタガ、容易ニ來タラザルヲ以テ陸相官邸ニ引歸シマシタ。
其時ハ夕刻デアリマシタ。

ソレカラ官邸ニ情況ノ推移ヲ待ツテ居リマシタガ、
午后九時頃ニ至リ
山下少將ガ 荒木、林、眞崎、植田、阿部、寺内、各軍事參議官ヲ伴ツテ來ラレマシタノデ、
私ハ當時事態ノ重大性ト、公判關係等ヲ通ジテ軍ノ實情ヲ速ニ収拾スル爲、
最高ノ輔弼ヲ適正ニシテ昭和維新ニ嚮フ様ニスルト共ニ、
蹶起部隊ヲ速ニ集結セシメル等ノ処置ノ必要性ヲ申述ベ、
次デ 靑年將校ガ入換ツテ、意見ヲ詳細ニ渉ツテ申述ベテ居リマシタ。

其後間モナクシテ、橋本欣吾郎大佐ヨリ電話ガアリマシタノデ、
官邸ノ事情ヲ述ベ、來邸ヲ勧メ、
前述出入ノ際敎ツタ合言葉 ( 尊王討奸 )、及 三錢切手ヲ手ニ貼ル事ヲ敎ヘマシタガ、
暫ラクシテ橋本大佐ノ來邸アリ、
同大佐カラモ阿部大將ニ事態ノ重大性ヲ説イテ居ラレタ様デシタ。
其後二十六日午後十一時半頃、小林長次郎ヨリ私ニ電話アリ、
「早ク出テ來イ、會ヒタイ」 トノコトデ、私ハ
「 容易ニ出ラレヌ。時間ヲ要ス。自分モ自宅ニ歸ラウト思ツテ居ル 」
コトヲ話シマスト、小林ヨリ 「 官邸ニ行ツテ見様 」 トノコトデアリマシタノデ、
合言葉ヲ敎ヘマシタガ、夜半十二時頃來邸シマシタ。
私ハ次官ノ歸リヲ待ツテ居リマシタガ、歸ル様子モナイノデ、
私ハ小林ト同道
二十七日午前零時半頃官邸ヲ出テ万平ホテルニ行キ、
そレト一緒ニ橋本大佐モ出ラレマシタノデ、同大佐ニ万平ホテルニ電話聯絡ヲ頼ミマシタ。
万平ホテル デハ満員デ休ムコトモ出來ナイノデ、
同ホテルカラ二、三ノ宿屋ニ電話デ交渉シマシタガ之亦満員トノコトデ、
帝國ホテルニ交渉シマシタ処、玄關上廣間ガ開イテ居ルトノコトデ、帝國ホテルニ行キ、
氏名所属ヲ言ツテ責任ヲ明ニシテ、電話ノ借用等ニ便宜ヲ与ヘテ貰ヒ、
先ヅ石原大佐ヲ呼出シ、其時橋本大佐リ電話ガアリマシタノデ、兩大佐ニ來テ貰ヒマシタ。
其理由ハ事態ヲ惡化セシメザル爲、官邸ニ於ケル蹶起部隊ノ事情ヲ石原大佐ニ傳ヘ、
適切ナル処置ヲ爲スノニ參考ニシタイト思ツタカラデアリマス。
ホテルハ石原、橋本兩大佐及私ノ三人デ會談シマシタガ、
小林長次郎ハ別ノ処デ休ンデ居リマシタ。
話ノ内容ハ、石原大佐ヨリ宮中ニ於テノ話ガアリ、
私ニ強力内閣等ニツキ意見ヲ求メラレタノデ、私ハ一寸意見ヲ述ベ、
速ニ兵ヲ集結セシメ事態惡化ヲ防グ要アルヲ述ベ、
宮中ノ輔弼ト、部隊ノ処置ト相應ジテ善處セラルゝ様ニ、意見ヲ申シマシタ。
橋本欣五郎大佐カラモ、右同様ナ意見ガアリマシタ。
ソレハ日時ヲ經過セバ事件ガ全國ニ波及シ、事態惡化ヲ虞レラレタカラデアリマス。

ソシテ石原大佐ハ戒嚴司令部ニ歸リ、橋本大佐ハ三島ニ歸ルベク急イデ辭去セラレマシタ。
橋本大佐ノ出京セラレマシタ事ニ就テハ、克クハ知リマセンガ、
帝都ニ兵力出動シ混亂ヲ生ジ居ルコトヲ知り、之ヲ憂慮せラレタカラデアルト思ヒマス。
更ニ私ハ萬一蹶起部隊ト兵力ノ衝突ヲ見、帝都ノ混亂ニ陥ルコトヲ憂慮シテ、
龜川哲也ニモ村中ヲ説得シテ貰ヒタイト思ツテ、同氏ノ自宅ニ電話ヲシホテルに來テ貰ヒ、
村中ヲ帝國ホテルニ呼出シ、龜川ト二人デ村中ニ對シ、
宮中方面ノ努力ハ軍中央部ノ首脳者ニ任セテ、
蹶起部隊ハ一先ヅ歩一ノ兵營ニデモ集結シテハドウカト懇々ト説得シマシタガ、
村中ハ私共ノ精神ノアルコトヲ諒トシ、成ルベク趣旨ニ添フ如ク努力シテ見ルガ、
同志ハ必ズシモ其ノ意見ニ依ツテ動クカドウカハ請負ヒ兼ネル旨を申シテ退去シマシタ。
其時ハ午前三時半頃デアツタト思ヒマス。

ソレカラ私ハ小林ヲ殘シテ、
一人デ憲兵司令部ニ行キ石原大佐ニ面會シ、村中ヲ説得シ置キタル狀況ヲ傳ヘ、
今後ノ善処ヲ希ヒ、次官ニ届ケテ、私ハ軍人會館ニ行キマシタ。
其時ハ夜ガ明ケテ居リマシタノデ、朝食ヲトリ、食堂デ馬奈木中佐、菅波中佐其他ノ人々ト
雑談シ、二十七日午前十時半頃自宅ニ歸リツキマシタ。

歸宅後間モナク憲兵司令部、兵務課ヨリ、來テ呉レトノ電話ガアリマシタノデ、
直ニ自動車ニテ憲兵司令部ニ行キマシタ。
憲兵司令部デハ山本少尉ト會ヒマシタガ、山本少尉ヨリ、
「 満井中佐ノ説得ナラバ、靑年將校モ聞キ入レルト思フ 」 トノ話アリ、
憲兵司令官、東京隊長ソノ他ノ憲兵將校ヨリ山本少尉ト私ニ、
行ツテ靑年將校ヲ説得シテ貰ヒ度イトノ依頼アリ、下士官二名同乗シテ、陸相官邸ニ行キマシタ。
其時ハ蹶起部隊ハ新議事堂ノ廣場及首相官邸ノ二ケ所ニ集結シテ居リマシタノデ、
右二ケ所ニ行ツテ將校ニ對シ、
從順ニ行動スル如ク、何レ法ニ依ツテ處分セラルゝモノト思料スルガ、
御上ニ於カセラレテハ御慈悲モアルコトゝ思フカラ、
思ヒツメタ行動ヲ採ラナイ様ニ ト注意ヲ与ヘ、憲兵隊長ニ復命ヲシマシタ。
午後戒嚴司令部ニ立寄リ、參謀岡本中佐ニ面會シ、暫ラク休憩ノ後、夕刻自宅ニ歸リ、
睡眠不足ト疲勞ノ爲就寝シマシタ。

二月二十八日午前四時、
戒嚴司令部砲兵少佐參謀ヨリ電話ニテ、直ニ來テ
呉レトノコトデアリマシタノデ、
五時前ニ自動車ニテ出掛ケ、
戒嚴司令部ニ行ツテ見マスト、事態ガ惡化シテアルコトヲ知リマシタ。
ソレハ
「 昨夜眞崎、西、阿部ノ三參議官ト蹶起將校トノ會談ノ結果、情況ハ楽観セラレテ居ルニ、
 本朝の情況ハ惡化シ、蹶起將校ノ主張ハ鞏硬デ、位置移動ヲ肯ゼザル態度ヲ示シアルヲ以テ、速急説得シテ貰ヒタイ」
トノコトデアリマシタノデ、
小藤大佐、松平大尉ト共ニ、午前七時頃陸相官邸ニ行キ、
小藤大佐ヨリ、命令受領ノ爲蹶起將校ヲ集合セシメタルニ 
村中、香田大尉ガ官邸ニ來リタルヲ以テ、種々説得シタルモ、
彼等ハ小藤部隊ノ警備區域タル現位置ニ暫ラク位置セシメ
昭和維新ニ嚮フ如ク上司ニ於テ処置アランコトヲ熱望シ、容易ニ動カスベクモアラズ。
當時村中ハ昂奮シアリ、理論ニテハ説得不可能ト考ヘラレタルヲ以テ

大命ニ背キ、大義を過ラザル様ニ注意シテ、
柴大尉ト共ニ、小藤大佐ノ命令下達ニ先立チ、官邸ヲ出テ戒嚴司令部ニ歸リ、
戒嚴司令官、陸軍次官、參謀次長、軍事參議官若干名ノ席上ニテ
右ノ旨報告スルト共ニ、次ノ様ナ意見ヲ申述ベマシタ。
意見ハ私ガ二月二十八日、戒嚴司令部ニ於テ、簡單ナ原稿ヲ作成シテ申上ゲタノデアリマス。
意見
(一)、維新部隊ハ昭和維新ノ中核トナリ、現位置ニ位置シテ、
 昭和御維新ノ大御心ノ御渙發ヲ念願シツツアリ。
右部隊將校等ハ、皇軍相撃ツノ意思ハ毛頭ナキモ、維新ノ精神仰壓セラルゝ場合ハ、
死ヲ覺悟シアリ、又、右將校等ト下士官兵トハ大體ニ於テ同志的關係ニアリ、結束堅シ。
(二)、全國ノ諸部隊ニハ未ダ勃發セザルモ、各部隊ニモ同様維新的氣勢アルモノト豫想セラル。
(三)、此ノ部隊ヲ斷乎トシテ撃ツ時ハ、全軍全國的ニ相當ノ混亂起ラザルヤヲ憂慮ス。
(四)、混亂ヲ未發ニ防グ方法トシテハ、
1、全軍速ニ維新ノ精神ヲ奉ジ、輔弼ノ大任ヲ盡シ、速ニ維新ノ大御心ノ渙發を仰グコト。
2、之ガ爲速ニ強力内閣ヲ奉請シ、維新遂行ノ方針ヲ決定シ、諸政ヲ一新スルコト。
3、若シ内閣奏請擁立急ニ不可能ナルニ於テハ、軍ニ於テ輔弼シ維新ヲ奉行スルコト。
4、右ノ場合ニハ、維新ニ關シ左ノ御方ヲ最高意思ヲ以テ御決定ノ上、大御心ノ渙發ヲ詔勅シテ仰グコト。
   維新ヲ決行セントス。之ガ爲、
(1)、建國精神ヲ明徴ス。
(2)、國民生活ヲ安定セシムル。
(3)、國防ヲ充實セシムル。
5、萬一右不可能ノ場合ハ、犠牲者ヲ最小限度ニ限定スル如ク戰術的ニ工夫シ、維新部隊ヲ処置スルコト。
但シ、此際全軍全國ニ影響ヲ及ボサザルコトニ關シ、大イニ考慮ヲ要ス。
之ガ實行ハ影響スル処大ナルベキヲ以テ、特ニ實行ニ先立チ、先ヅ現狀ヲ上奏ノ上、御上裁ヲ仰グヲ要スルモノト認ム。
以上ノ如ク意見ヲ開陳シ、
戒嚴司令部ヲ出テ途中偕行社ニ立寄リ、
滞在中ノ軍事參議官若干名ニ面會シ、事態ノ重大ナルニ鑑ミ善處ヲ御願ヒシテ、
正午過ギ自宅ニ歸リマシタ。

歸宅シテ、
今回ノ事ニ附 熟々事態ヲ考ヘルニ、
或ハ
私ノ公判ニ於ケル辯護人トシテノ辯論ガ刺戟ヲ与ヘタコトニ關係セルニアラザルヤ
トノ責任感ヨリ恐懼ヲ感ジ、
次ノ如キ進退伺ヲ書キ、
其ノ夕刻直ニ陸大幹事岡部少將宅ヲ訪問、之ヲ提出シ、
御許ヲ得テ、再ビ戒嚴司令部に至リ 右旨ヲ届出、挨拶ヲシテ、
御呼出シハ陸軍大學ヲ經テ爲サレタシト申述べ、夜半歸宅シマシタ。
爾後謹愼シテ今日ニ至リマシタ。 

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