獨協法学第43号 ( 1996年12月 )
論説
二・二六事件湯河原班裁判研究
松本一郎
一 はじめに
一九三六年 ( 昭和一一年 ) 二月二十六日に発生したいわゆる二 ・二六事件については、
多数の兵士を動員して大蔵大臣、内大臣、教育総監らを殺害し、
首都の枢要部分を制圧して陸軍首脳部に政治改革を迫った、
東京部隊の行動がしばしば取り上げられるのに対して、
同日湯河原の貸別荘滞在中の前内大臣牧野伸顕を襲った別動隊の行動が話題となることは、
比較的少ないように思われる。
牧野襲撃隊の構成を見ると、現役軍人の指揮の下に行われてはいるが、
メンバーの過半数は民間人 ( 予備役の下士官・兵を含む ) であり、
軍隊を出動させた東京の事件とはかなりおもむきを異にしている。
このバラエティに富んだ人たちの事件参加の動機 ・理由を知りたいというのが、
私が牧野襲撃隊裁判記録を調べ始めた第一の動機である。
この事件の裁判では、被告人のうちの四名に求刑を上回る重罰が科せられている。
とくに、懲役十五年を求刑された民間人の水上源一に対しては、極刑が選択された。
検察官さえも意図しなかった厳しい量刑自由を調べてみたいというのが、その第二の動機である。
裁判官の伊藤章信陸軍法務官は、その後第五公判廷において、
北一輝 ・西田税 ・亀川哲也の事件の裁判官を努めている。
北 ・西田に対する判決が、証拠を捏造、悪意に満ちたものであったことは、すでに明らかにした。
・・・ (1)
拙稿 「 二 ・二六事件北 ・西田裁判研究 」 獨協法学四二号六七頁以下、
その伊藤が担当した裁判であるからには、これまた問題を抱えているに違いないと思われた。
この予断と偏見が、この記録に取り組んだ第三の動機であった。
こうして始めた、東京地検保管の 『 二 ・二六事件記録 』 ( 湯河原班 ) 一、八○○頁
の検討結果をまとめたのが、本稿である。
裁判記録の引用に当っては、読みやすくするため、現代仮名遣いとひらがな書きに改め、
濁点を付し、常用漢字を使用し、かつ、適宜句読点を付した。
同様に法文についても、濁点と句読点を付けた。
判決も原本を参照したが、本稿への引用に当っては、
伊藤隆 ・北博昭編 『 新訂二 ・二六事件 判決と証拠 』 ( 一九九五年、朝日新聞社 )
一六九頁以下に収録されているものを、ひらがな書きに改めて利用させて頂いた。
なお、煩を避けるため、裁判記録については原則として典拠の注記を省略したことをお断りしておく。
目次
クリック して頁を読む
二 被告人らの経歴と思想
三 標的 ・牧野伸顕
四 牧野邸襲撃
五 裁判
六 判決の問題点
七 おわりに
最後に、裁判記録の検討を終えてその感想を二、三記しておきたい。
まず、被告人らが揃いも揃って、自らの行動を少しも悔いていないことには驚かされた。
まさに全員が確信犯であって、彼らは栗原の甘言に乗せられたわけではなかったのである。
その強固たる意思には脱帽のほかはないが、
問題と思われるのは、検察官が論告で指摘しているように、
被告人らの牧野に対する敵意が、
何らの証拠にも基づかない巷説を無批判に軽信した結果によるものであった点である。
前述のように、ロンドン條約に関する加藤軍令部長の上奏を直接阻止した人物は、
牧野内府ではなく鈴木侍従長であった。
国際協調派であった牧野が同条約の批准を希望していたことは疑う余地はなく、
したがって彼がその実現のため最善の努力をしたであろうことも想像に難くない。
その意味では、牧野に対する軍部と右翼の敵意は必ずしも的外れではなかったというべきであろうが、
少なくとも巷説のように、彼が直接加藤の上奏を阻止した事実はなかったのである。
しかし、牧野はロンドン條約以降相次ぐ怪文書によって、「 君側の奸 」 の筆頭に祭り上げられてしまった。
水上は、法廷で、牧野がロンドン会議を成功させるために来日したアメリカのキャッスル大使から買収されて、
わが全権に譲歩をさせたと述べている。
・・・(1)
原田熊雄 『 西園寺公と政局 』 第一巻 ( 一九五〇年、岩波書店 ) 22頁に、キャッスル大使の着任後、
政教社の同人五百木良三の子分が同大使を訪ねて詰問したところ、
大使から軍縮会議の使命 ・日米親善 ・世界平和などの問題について諄々と説かれ、
その真摯な態度と誠意に感激して帰り、大使の人格を賞揚したというエピソードが紹介されている。
アメリカ大使が一流国の高官に対して直接買収工作をするなどということは、
およそ常識的にあり得ないことといわなければならない。
しかも、牧野は、天皇の側近とはいえ単なる廷臣に過ぎず、
外交 ・政治に関して何らの発言権も有していないのである。
また、このような牧野がロンドンにある若槻礼次郎らの全権に対して、
条約締結についての指示を与えるようなことができるはずもない。
しかし水上は、そのような噂を信じて疑わなかった。
このような単純きわまる思考様式は、水上に限ったことではなく、他の被告人にもみられるところであり、
そこにデマゴトギーの恐ろしさを感ぜずにはいられないのである。
記録に収録されている証拠を検討した結果、
水上を群衆指揮者と認定した判決の判断には、合理性があることがわかった。
したがって、同人に対する量刑がその他の被告人よりも重くなることは、むしろ当然というべきであろう。
しかし、それにもかかわらず、水上を極刑に処すべき理由は、ついに見出せなかった。
水上は、河野の亡き後のいけにえにされたのである。
ここに、きわめて政治的な東京軍法会議の実体が浮き彫りにされている。
思うに、陸軍は、水上を血祭りにあげることによって、
軍人に接触のある民間右翼を恫喝しようとしたのではないだろうか。
後に北一輝 ・西田税をなりふり構わず殺してしまったやり方とは若干構図を異にしているが、
なぜか担当法務官がどちらも伊藤章信であったことは、興味をそそられる点である。
web上でみつけたもの、
私流に吟讀し、『 書写 』 したものである