私の母は昭和5年生まれで終戦時は15歳。「エール」の華ちゃんと弘哉君の間ぐらいでしょうか。
あの昭和20年8月15日の玉音放送を聞いて、どう思ったのでしょう。戦時中は何を考えていたのでしょうか。
裕一さんの「最大の恩師」である藤堂先生が亡くなってしまいました。
慰問先のビルマで奇襲に合い、目の前で銃弾に倒れ、自分の腕の中で息を引き取ってしまう。これほどのショックがあろうか。。。私なら帰国の途の船中から海に飛び込んでしまうかも。
悲惨な戦場で「先生」を前にした裕一さんは、まるで子供の頃の姿でした。訓練されていない一般人が、修羅場に放り込まれたらこうなる。何も出来ず、ただただ惨めで生き残った兵士にすがりつくしかない。この「弱さの表現」が秀逸でした。
戦場のドラマって大抵かっこいいアクションで、死ぬ時もやたらかっこいい。でもここでは「かっこいい」ことは何も無かった。
戦場で死ぬことは、意味も何もない。ただただ「死」だけ。
あの画家さんの言う通りでした。
あの画家さんは「この目で見たものを人々に伝える」自分なりの使命でビルマへ来たし、同行の文筆家もそうでした。
つまり「戦争の現実を取材する」強い意志を持ってやってきた人と、裕一は違っていた。
だからあれほどまでに、「何も知りませんでした。ごめんなさい」と、詫び続けたのでしょうか。
「目を背けたくなる人間の本性」を表現するのが窪田流で私は好きなのですが、朝ドラでも容赦しませんね。。。
森山直太朗氏がもう「藤堂先生」以外何者でもなくて、でも歌番組ではカケラも無くて。いやこれ書いてても泣ける。裕一を運動会でしっかり抱きとめてくれた先生を、戦場で看取るなんて。思い出すだけで号泣してしまう。
呆然自失の状態で福島に帰り、無事に家族と再会しても全てが虚ろ。
東京で終戦を迎え、今度は可愛がっていた教え子で予科練に入った弘哉君の訃報が。お母さんが持参した弘哉君の遺品は、かつて自分がプレゼントしたハーモニカ。真っ黒に焼け焦げたそれは、まるで遺骨の如くでした。
戦争で「先生」と「生徒」を同時に亡くし、お国のために奮闘してきたつもりの自分は、一体なんだったのか。
音楽で兵士を勇気づけるなんて、しょせん絵空事だったのか。
私も芸術をやる人間として、裕一の心情を思い、釘付けになってしまう2週でした。
「兵士を勇気づける音楽を沢山作ってきた自分自身が、兵士になって戦場へ行くなんて(考えられない)」。
この「赤紙が来た時の葛藤のリアル」も凄いけど、予科練でまっすぐな瞳の少年達を見て、高揚して帰ってくる単純さも、まぎれもなく裕一のリアル。
兵士になっていない自分の負い目でますます軍歌作りに力を入れてしまい、自分の技術もまた軍歌にマッチして大ヒットしてしまう。大ヒットするからまた類似のオファーが来る。。。という負のサイクルにハマっていることに、うすうす気付いていながらも道を戻ることが出来ない。
ビルマに行く際に妻の音ちゃんに当てた手紙だけが、彼の真意で、誠実の限りであることに泣けました。
また音ちゃんがずっと耐えて彼を精神的に支えていて。。。史実ならば終戦直前に奥さんの金子さんが腸チフスに倒れ、生死の境をさまようのですが、さすがにそこまで描く尺は無かったか。裕一さんが帰国後、病み過ぎてますもんね。
福島で空襲に合い、入院している金子さんを古関さんが背負って、真っ暗な中を階段を降り地下の防空壕に逃げ込む、という描写が自伝の中であるので、私は「これはテレビ的にどうしても再現して欲しい!」と願っていたのですが、叶うことなく終戦になりました。って、どんだけ裕一さんを酷使するのか私(笑)。
日本は戦争に負けて結果的に良かった。
勝っていたらますます軍国主義になって大変なことになっていたでしょう。
北朝鮮みたいな。。。
だから、多くの犠牲を出して「人が人らしく生きることがもっとも尊い」ことを勉強したのでしょうか。
もしも。
もしも、だけど。
「日本が戦争に勝っていた」ならば、先生の死も弘哉君の死も、「名誉」として悲しまなくてもいいものなのか。
負けたから虚しさが募るのであって、勝っていたら。。。
裕一さんの功績は大変なものになり、それこそ勲章までもらえたのでしょうか。
そして良心の呵責も何も感じなかったのでしょうか。
そこをずーっと考えていて、母に訪ねてみると。
「あの時代にはみんな、“日本は負ける”という思いは無かった。少なくとも男の人はみんな“勝つ”と思ってたはず」
「女の人は“負け”も考えていたかもしれない。でもとにかく天皇陛下は神様で、お上からの命令は絶対だったから、戦争に疑問なんて誰も持たなかった。予科練に行った人は超エリートだし、特攻隊で死んだ人も尊敬された」
「敗戦でみんな“アメリカ兵に占領される”と思ってた。女子供は乱暴されるから外に出るなと言われていた。でも、実際はそんなこともなかった。価値観があの1日で180度変わってしまい、善だの悪だの考えているヒマが無い。とにかく物がなかったから。毎日、食べるので精一杯。戦争はそれだけ。昭和25年ごろまでとにかく物が無かった。そこからは豊かになったかな」。
としっかり証言。
今のことはかなりボケてるのに、戦争時のことはくっきりはっきり答える昭和ヒト桁でした。
今の我々は「日本の負け」を知っているから、「沢山の人の死は無駄だった」と過去を振り返って言えますが、あの当時の人が皆「これは聖戦」「これは正しい」と思うのは、ごくごく自然な流れだったのかなと思います。
五郎ちゃんがキリスト教に傾倒し、裕一に「戦争で多くの人が無駄に死んでいる」と訴えますが、そちらの概念の方が「当時としては」異端でしょう(もっとも欧米の人たちはほとんどキリスト教徒なわけで、でも戦争で人を殺している。ここは疑問)。
藤堂先生は、裕一の作る「戦時歌謡」を、本音ではどう思っていたのでしょうか。
もともとが軍人さんだから、戦争反対派ではないわけだし。
でもあの温厚な先生が、敵を殺せるのかしら?
いろんな「人間の矛盾」をはらみながら、「それもまた戦争」と唸ってしまう展開でした★
あの昭和20年8月15日の玉音放送を聞いて、どう思ったのでしょう。戦時中は何を考えていたのでしょうか。
裕一さんの「最大の恩師」である藤堂先生が亡くなってしまいました。
慰問先のビルマで奇襲に合い、目の前で銃弾に倒れ、自分の腕の中で息を引き取ってしまう。これほどのショックがあろうか。。。私なら帰国の途の船中から海に飛び込んでしまうかも。
悲惨な戦場で「先生」を前にした裕一さんは、まるで子供の頃の姿でした。訓練されていない一般人が、修羅場に放り込まれたらこうなる。何も出来ず、ただただ惨めで生き残った兵士にすがりつくしかない。この「弱さの表現」が秀逸でした。
戦場のドラマって大抵かっこいいアクションで、死ぬ時もやたらかっこいい。でもここでは「かっこいい」ことは何も無かった。
戦場で死ぬことは、意味も何もない。ただただ「死」だけ。
あの画家さんの言う通りでした。
あの画家さんは「この目で見たものを人々に伝える」自分なりの使命でビルマへ来たし、同行の文筆家もそうでした。
つまり「戦争の現実を取材する」強い意志を持ってやってきた人と、裕一は違っていた。
だからあれほどまでに、「何も知りませんでした。ごめんなさい」と、詫び続けたのでしょうか。
「目を背けたくなる人間の本性」を表現するのが窪田流で私は好きなのですが、朝ドラでも容赦しませんね。。。
森山直太朗氏がもう「藤堂先生」以外何者でもなくて、でも歌番組ではカケラも無くて。いやこれ書いてても泣ける。裕一を運動会でしっかり抱きとめてくれた先生を、戦場で看取るなんて。思い出すだけで号泣してしまう。
呆然自失の状態で福島に帰り、無事に家族と再会しても全てが虚ろ。
東京で終戦を迎え、今度は可愛がっていた教え子で予科練に入った弘哉君の訃報が。お母さんが持参した弘哉君の遺品は、かつて自分がプレゼントしたハーモニカ。真っ黒に焼け焦げたそれは、まるで遺骨の如くでした。
戦争で「先生」と「生徒」を同時に亡くし、お国のために奮闘してきたつもりの自分は、一体なんだったのか。
音楽で兵士を勇気づけるなんて、しょせん絵空事だったのか。
私も芸術をやる人間として、裕一の心情を思い、釘付けになってしまう2週でした。
「兵士を勇気づける音楽を沢山作ってきた自分自身が、兵士になって戦場へ行くなんて(考えられない)」。
この「赤紙が来た時の葛藤のリアル」も凄いけど、予科練でまっすぐな瞳の少年達を見て、高揚して帰ってくる単純さも、まぎれもなく裕一のリアル。
兵士になっていない自分の負い目でますます軍歌作りに力を入れてしまい、自分の技術もまた軍歌にマッチして大ヒットしてしまう。大ヒットするからまた類似のオファーが来る。。。という負のサイクルにハマっていることに、うすうす気付いていながらも道を戻ることが出来ない。
ビルマに行く際に妻の音ちゃんに当てた手紙だけが、彼の真意で、誠実の限りであることに泣けました。
また音ちゃんがずっと耐えて彼を精神的に支えていて。。。史実ならば終戦直前に奥さんの金子さんが腸チフスに倒れ、生死の境をさまようのですが、さすがにそこまで描く尺は無かったか。裕一さんが帰国後、病み過ぎてますもんね。
福島で空襲に合い、入院している金子さんを古関さんが背負って、真っ暗な中を階段を降り地下の防空壕に逃げ込む、という描写が自伝の中であるので、私は「これはテレビ的にどうしても再現して欲しい!」と願っていたのですが、叶うことなく終戦になりました。って、どんだけ裕一さんを酷使するのか私(笑)。
日本は戦争に負けて結果的に良かった。
勝っていたらますます軍国主義になって大変なことになっていたでしょう。
北朝鮮みたいな。。。
だから、多くの犠牲を出して「人が人らしく生きることがもっとも尊い」ことを勉強したのでしょうか。
もしも。
もしも、だけど。
「日本が戦争に勝っていた」ならば、先生の死も弘哉君の死も、「名誉」として悲しまなくてもいいものなのか。
負けたから虚しさが募るのであって、勝っていたら。。。
裕一さんの功績は大変なものになり、それこそ勲章までもらえたのでしょうか。
そして良心の呵責も何も感じなかったのでしょうか。
そこをずーっと考えていて、母に訪ねてみると。
「あの時代にはみんな、“日本は負ける”という思いは無かった。少なくとも男の人はみんな“勝つ”と思ってたはず」
「女の人は“負け”も考えていたかもしれない。でもとにかく天皇陛下は神様で、お上からの命令は絶対だったから、戦争に疑問なんて誰も持たなかった。予科練に行った人は超エリートだし、特攻隊で死んだ人も尊敬された」
「敗戦でみんな“アメリカ兵に占領される”と思ってた。女子供は乱暴されるから外に出るなと言われていた。でも、実際はそんなこともなかった。価値観があの1日で180度変わってしまい、善だの悪だの考えているヒマが無い。とにかく物がなかったから。毎日、食べるので精一杯。戦争はそれだけ。昭和25年ごろまでとにかく物が無かった。そこからは豊かになったかな」。
としっかり証言。
今のことはかなりボケてるのに、戦争時のことはくっきりはっきり答える昭和ヒト桁でした。
今の我々は「日本の負け」を知っているから、「沢山の人の死は無駄だった」と過去を振り返って言えますが、あの当時の人が皆「これは聖戦」「これは正しい」と思うのは、ごくごく自然な流れだったのかなと思います。
五郎ちゃんがキリスト教に傾倒し、裕一に「戦争で多くの人が無駄に死んでいる」と訴えますが、そちらの概念の方が「当時としては」異端でしょう(もっとも欧米の人たちはほとんどキリスト教徒なわけで、でも戦争で人を殺している。ここは疑問)。
藤堂先生は、裕一の作る「戦時歌謡」を、本音ではどう思っていたのでしょうか。
もともとが軍人さんだから、戦争反対派ではないわけだし。
でもあの温厚な先生が、敵を殺せるのかしら?
いろんな「人間の矛盾」をはらみながら、「それもまた戦争」と唸ってしまう展開でした★