上砂理佳のうぐいす日記

巨匠漫画家、楳図かずおさん逝去。あべのハルカスで私も見た「楳図展」は金沢21世紀美術館で9月に開催されていました★

希望の鐘の音が鳴り響く★

2020-10-29 | アート・音楽・映画・本・舞台・ドラマ
もう先週の話ですが、エール第19週「鐘よ響け」の感想です!
小峰書房という出版社の方のツィッターで知った「鐘を鳴らす子供たち 作:古内一絵」。ネットで買ってしまいました。
表紙の絵が可愛い!ドラマに出てきた「鐘の鳴る丘」という戦後ラジオドラマに一般から参加した子供たちの奮闘を描きます。
まだ最初の方しか読んでないのですが、結構、NHKでは流せないような描写もある。。。作者がまだ若い人なので、現実を元に創作されたフィクションということですが、ここでは池田さん=「劇作家の菊田一夫氏」は「菊井先生」として、裕一さんこと古関裕而氏は「古坂さん」として登場します。
「古坂さんの『予科練の歌』が大好きでよく歌っていた」と少年が語る場面があり、「予科練性の七つボタンの制服は憧れだった」とも。「戦争は悪」なのに、「戦争に行く人」は憧れの対象となる。この矛盾。
当時の庶民の心情も歴史のうねりも細かに描かれ、エールと並行して読むとより深く時代背景を知ることが出来ます。

裕一さんがなかなか戦争の深い傷から立ち直れずに、1年半ほど仕事もせず時計作りにいそしんでいた。って生活は成り立っていたのかな~。確かお金持の人でも銀行預金は凍結されておろせなかったはず。しっかり者の音ちゃんが戦前にタンス預金にしておいたのだろうか。
前回のドラマ感想でも書きましたが、戦後の昭和24、5年ぐらいまでは物が無く、食糧もまだ配給でみんな闇市(やみいち)で手に入れてた、とウチの母は証言しておりました。智彦さんが弟子入りしたラーメン屋台は相当儲かってたみたいだけど、麺やチャーシューは手に入ったんかいな。
古山家は華ちゃんにお弁当持たせてたので(中は麦御飯かもしれんけど)、お金はあるとはいえど、どうしてたんでしょうね。そこんとこ気になりましたが、「時計作り」というのがミソで、「いったん古い時計(過去)をぶっ壊して新たに人生を組み立てる」裕一さんの姿を、時計作りになぞらえているのかなと思いました。
古関さんも手先が器用で、少年時代にラジオを組み立てて「日本のラジオ第一声!」を聞こうと奮闘してたそうです。実際は、自家製ラジオはウンともスンとも音を発さなかったそうですが。

自伝本「鐘よ鳴り響け」では、玉音放送は故郷の福島から一人東京に戻り新橋駅で聞き、その後10月には「山から来た男」というラジオドラマが始まり音楽を担当した、とあります。菊田さんとは戦前から一緒に仕事をしていて、戦後本格的にタッグを組んだ。「運命の人」なんですね。
菊田一夫氏はドラマの池田さんのように、破天荒で豪快な男だったようですが、毎回毎回ドラマの脚本はギリギリになるまで完成せず、なんと生放送の時間になってもお話が出来てなくて、しばらく古関さんのオルガン演奏を流していた、とか。どんだけいい加減なの。
「みっどりの丘の~あっかい屋根~♪」は私でも知ってます!あの可愛い曲が古関さんだったなんて!
「なんという愛らしく、優しく詩情に満ちた美しい詩であろう。幼い日に不遇であり寂しさを味わった菊田さんならではの詩である」と古関さんは絶賛しています。だからすぐに「曲をつけよう!」と思ったのでしょうね。歌う子供たちが可愛い。誰でも元気になれる楽しい曲です。
丸メガネにちょびヒゲの池田さんのおかげで裕一さんは立ち直るきっかけを掴み、オルガンを弾く姿にも笑顔が戻りました。
音ちゃんのストレートな喜びようが素晴らしい!でも解ります。
長く暗いトンネルから脱出して、やっと古山家にも光が差す時が来ました。明るい音ちゃんの本来の笑顔がはじけ、こちらまで嬉しくなります。そして悲しみを乗り越えた華ちゃんも、あっという間に高校生になった!

その後ほどなくして、長崎医大の永井隆博士の著書「長崎の鐘」からの映画主題歌として作曲をするエピソードが描かれますが、実際は古関さんは博士に会っておらず、「贖罪ですか」のやりとりも無い。曲が出来てから永井博士から手紙を頂いたとか。
裕一さんは長崎を訪れ永井さんに直接会い、掘り起こされた大きな鐘や荒れた地、復興に頑張る人びとをこの目で見て、感じ入るものがありました。
ことがことだけに、大きな使命を背負って作曲に挑んだのではないでしょうか。でも、葛藤の中から生まれたこの曲で、裕一さんの「戦争」がやっと終わったのだと思いました。病床の博士との禅問答のようなやりとりの中で、「頑張る人のためにエールを送る」ことが自分の使命だと悟る。
つまり、戦前も戦後もやることは同じなのです。
結果的に人々の戦意高揚に加担したことになったけれど、「エールを送るために創作する」こと自体は変わらない。
ならば、「戦前、お前は重大な罪を犯した」呪詛からは解放されるのではないでしょうか。
永井博士から与えられた重要なヒントで、「罪深い自分が再び音楽など作っていいものか」という「迷い」の最後の部分が、「希望」へと変換された。
「長崎の鐘」の曲の途中で転調する部分、「なぐさめ、はげまし」でパアーッと暗い空から光が差してくる。
あの見事さは、創作家の心境と戦争で傷ついた人々の心とが完全に合致する「希望」の瞬間で、自然と涙があふれてきます。
「ああ芸術って素晴らしい。音楽ってありがたい」と感嘆せざるを得ません。

冒頭に書いた「鐘を鳴らす子供たち」本の中で「戦後、軍歌を歌うことは禁じられた」とありました。歌を作った人はどんなにか、胸のつぶれそうな想いだったことでしょう。
でも現実を受け止め、苦しみを希望に変換出来た。人はそうやって、自力で苦難を乗り越えるしかない。
これまでも「他人がきっかけをもたらした」ことが多かった裕一さんですが、きっかけから運命を切り開くには才能と努力は不可欠なので、戦前に精力的かつ一心に仕事をしてきた蓄積も、無駄ではなかったということでしょう★
コメント
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