らいちゃんの家庭菜園日記

家庭菜園、家庭果樹栽培及び雑学日記

ワサビ

2016-06-16 | 情報

2015年度に日本を訪れた外国人観光客数は前年度比45.6%増の2135万9000人で、初めて2000万人の大台を超えたそうです。
彼等の訪日目的を調査した結果によれば、「日本食を食べること」が最も多く76.6%を占めており、ついで半数近くが「ショッピング(57.5%)」「自然・景勝地観光(49.7%)」「繁華街の街歩き(43.2%)」と続いています。

日本を訪れた外国人が好きな日本食ベスト5です。
1.寿司・・・・・SUSHI BAR YASUDA オーナーシェフの安田直道さんが外国人に正しいお寿司の食べ方を教える動画が海外で反響を呼んだそうです。
        外国人がこの動画で予習してから日本に来るといわれています。
2.焼肉・・・・・和牛の中でも特に神戸牛が海外で大人気だそうです。
3.ラーメン・・ラーメンは中華ではなく、もはや日本料理としてフランスやアメリカでも行列ができるほどの人気だそうです。
4.天ぷら・・・秋の風物詩とも言える「もみじ天ぷら」が海外メディアで話題になっていると言うことです。
5.刺身・・・・・こんなに新鮮な魚を安心して食べられるのは日本だけと言うことで人気があるようです。

2013年12月に「和食」がユネスコの世界無形文化遺産に登録されて以降、世界で和食ブームが起きていますが、その日本食文化に欠かせないのがワサビです。
今日はワサビについて調べました。

ワサビは飛鳥時代には既にあったようです。
奈良県明日香村の苑地(えんち)遺構から出土した木簡には「委佐俾三升(わさびさんしょう)」と書かれており、これは、わさびを保管した容器にくくりつけたラベルとみられています。

わさびが栽培されるようになったのは、江戸時代初期と言われており、美食家の徳川家康に献上したところ、その風味を大変気に入り、また、わさびの葉が徳川家の葵の家紋に似ていることから門外不出にしたと言われています。

わさびが現在のように寿司の薬味として使われだしたのは、江戸時代の文化・文政年間(1804年~1830年)の頃だと言われています。
わさびを付けた握り寿司が考案され、江戸の町でブームが巻き起こったことで庶民の間に広まっていきました。

当時は現代のように冷凍や冷蔵の設備がない時代であり、人々は、経験からわさびが食材の生臭みや細菌の増殖を抑えて食中毒の予防することを知って、活用していたと考えられています。

昭和に入ると、安価で使いやすい加工ワサビが開発され、より身近になりました。
近年の和食ブームに乗って「wasabi」は海外でも知られるようになっているそうです。

ワサビは花ワサビやきざみワサビ等のわさび商品の品揃えが充実し、肉料理や和食以外の洋食などにも幅広く使われる様になってきており、更に、わさびの成分に由来した「解毒作用」「抗酸化作用」「血流改善」「美肌効果」など健康・美容効果に注目した「健康食品」や「化粧品」が開発されているそうです。

日本原産のワサビが海外でも知られるようになったり、色々な分野で活躍(利用される)してくれるのは嬉しいことですね。


オリーブの首飾り

2016-06-15 | ナツメロ

先日、マジシャンのMr・マリックさんの番組がありました。
この時もそうですが、Mr・マリックさんを始め、マジシャンが登場する時、或いは手品のバックミュージックには「オリーブの首飾り」が定番となっています。
この音楽を聴きながら手品を観ていると、不思議とマジックの世界に引き込まれていくような気がします。
この音楽はそれほど手品にピッタリしていますが、でも何故、手品に「オリーブの首飾り」なのでしょうか?

調べてみると、マジックに「オリーブの首飾り」を使用するようになったのは、女性マジシャンの松旭斎すみえさんだそうです。
彼女が乗用車での移動中に、カーラジオから流れるポール・モーリアグランドオーケストラの「オリーブの首飾り」を聞いてからお気に入りとなり、ステージでの最初にBGMで使用するようになったのだそうです。
それ以降様々なマジシャンが使うようになって、「マジックの曲」と言うイメージがついたということですが、この曲を手品で使用しているのは日本だけで、外国では自分の手品にマッチするような曲を選んでBGMとしていると言うことです。

それでは、今日はマジックはお見せできませんが、ポール・モーリアグランドオーケストラの「オリーブの首飾り」をお聴きいただきたいと思います。



全国で梅雨入り

2016-06-14 | 季節

今日はgooブログのメンテナンスでブログが開けず、午後4時になって漸く編集画面に辿り着きました。
早速、記事に取り掛かりたいと思います。

昨日、北陸、東北地方が梅雨入りし、梅雨のない北海道を除いて全国で梅雨入りしました。
関西でも昨日は朝から小雨が降ったり止んだりの、どんよりとした典型的な梅雨空のうっとうしい一日でした。
毎年のこととはいえ、これから1ヶ月余り、このような天候かと思うとうんざりします。

ところで、梅雨と書いて何故「つゆ」と読むのでしょうか?
「梅」には「バイ、マイ、メ、」の読み方はあっても「ツ」の読み方はないし、また「雨」にも「ウ、あま、あめ、」の読み方はありますが「ユ」の読み方はありません。
子供さんやお孫さんからから聞かれた時にどのように答えたらいいでしょうね。
そこで調べてみました。

先ず「つゆ」と言う名称の由来について調べると、6月の長雨の事が“つゆ”と呼ばれるようになったのは、江戸時代からだと言われています。
当時の有名な学者に、貝原益軒と貝原好古(かいばらよしふる)という人がいましたが、この2人が作った「日本歳時記」という書物の中に、「この長雨の事を“つゆ”と呼ぼう!」といったようなことが書かれてあるそうです。
日本ではそれまでは、この時期に降る雨の事を五月雨(さみだれ)と呼んでいて、古今和歌集や新古今和歌集にも五月雨が詠まれています。

では何故、「つゆ」と呼ばれるようになったのでしょうか?
① その一つは露(つゆ)の季節だからということです。
  雨がシトシトと長く続いて、湿っぽい状態の事を昔の日本では、「露けき」と言っていました。
  「露けき庭」とか「露けき朝」等のような使用されますが、そのようにジメジメした状態になりやすい季節と言うことから、露けき季節⇒つゆとなったという説です。

②二つ目は、潰ゆ(ついゆ)季節だからと言うことです。
  現在でも“優勝の夢が潰える(ついえる)”などのように使われている言葉の「潰える(ついえる)」には、「だめになる」とか「形が崩れる」などの意味があります。
  昔の日本では、この「ついえる」のことを「ついゆ」と言っていました。
  長雨の時期は、食べ物や衣類などにカビが生えたり、腐ったりしやすくなりますが、そんな、食べ物や衣類などをダメにしてしまいやすい季節であることから、潰ゆ(ついゆ)季節⇒つゆとなったという説です。

③そして
三つ目は梅の実が熟す時期で、「つはる」季節だからと言うことです。
  果実が熟したり、草木が芽吹くことを昔の日本では、「つはる」と言っていました。
  この時期は、梅の実が熟する時期だということで、つはる季節⇒つふ季節⇒つゆとなったとする説です。 

では何故「梅」と言う漢字が使われるようになったのでしょうか?
中国では6月に降る長雨の事を「ばいう」と呼んでいましたが、漢字では「梅」ではなく、雨が多くてカビが生える時期だということで「黴(かび)」と書いていた黴雨(ばいう)でした。
江戸時代に日本に黴雨(ばいう)という言葉が伝わった時、バイ菌の「黴」は語感がよくないと言うことから、「黴」と同じ発音で、しかも、この時期はちょうど梅の実が熟する頃という理由から、「梅」という漢字を当てるようになったと言うことです。

もし、お孫さんや子供さんから梅雨について聞かれた時の参考になれば幸甚です。


近つ飛鳥

2016-06-13 | 地元紹介

大阪南部の熊取から国道170号線(外環状線)を藤井寺方面に向かって走ると、途中の富田林の手前付近に「近つ飛鳥博物館」の案内板が見えます。
この道を通るたびに「“近つ飛鳥”ってなに?」「きんつ? ちかつ? どう読むのかな?」と思っていたので、この名称は強く印象に残っていましたが、先日、たまたま「近つ飛鳥」についてテレビで取り上げていたので読み方も意味も分かりホッとしています。

「近つ飛鳥」、皆さんは何と読むのかご存知でしょうか?
普通に「ちかつあすか」読めばよかったのです。

では「近つ飛鳥」とは何なのでしょうか?
飛鳥(あすか)と言う地名は、現在の奈良県高市郡明日香村あたりの飛鳥と大阪府羽曳野市及び太子町あたりを指す飛鳥の2か所の地域名があるのだそうです。
その2つの飛鳥を区別するために、河内国(大阪府)の飛鳥は「近つ飛鳥」・「河内飛鳥」とよばれ、大和国(奈良県)の飛鳥は「遠つ飛鳥」・「大和飛鳥」と呼ばれています。

この場合の「近つ」、「遠つ」は都があった難波宮(大阪市中央区)からみて近いか遠いかによりますが、現在では単に「飛鳥」といった場合には、大阪府の飛鳥(河内飛鳥)ではなく、奈良県の飛鳥(大和飛鳥)を指すのが一般的となっています。

「近つ飛鳥」という地名は、712年口述筆記された「古事記」に記載がある古くからの地域名だということです。
履中天皇の同母弟(後の反正天皇)が、難波から大和の石上神宮に参向する途中で二泊し、その地を名付けるに、近い方を「近つ飛鳥」、遠い方を「遠つ飛鳥」と名付けたというものです。

「近つ飛鳥」は前述したとおり、今の大阪府羽曳野市飛鳥を中心とした地域を指しますが、ここに大阪府が設置した史跡公園・「近つ飛鳥風土記の丘」には、「大阪府立 近つ飛鳥博物館」があります。
この博物館は人文科学系博物館で、エリア全体が遺跡博物館ともいわれる陵墓・古墳の宝庫「近つ飛鳥」の中核的文化施設で、「日本古代国家の形成過程と国際交流をさぐる」をメインテーマとする古墳に関する博物館として、1994年に開館しています。

近つ飛鳥風土記の丘は日本を代表する群集墳「一須賀古墳群」を保存し、貴重な文化財に触れ・学び・親しむ場として設置した史跡公園で、29へクタールの園内には102基の古墳が保存されており、そのうち40基を整備し、見学できるようになっています。
そして、園内の展望台からは、「近つ飛鳥」一帯や古市古墳群、遠くには大阪市内や六甲の山並み、淡路島などが望め、春には梅や桜、秋には紅葉も楽しめる、緑いっぱいの史跡公園だそうです。
古代史に関心のある方は一度訪ねてみては如何でしょうか?

なお、参考までに、「近つ」と言う言い方を調べたところ、飛鳥以外にもありました。
それは琵琶湖の事で、昔は琵琶湖を「近つ淡海(近江:ちかつおうみ)」言っていました。
これは浜名湖を「遠つ淡海」と言うのに対しての表現なのだそうです。


平年とは

2016-06-12 | 雑学

天気予報を聞いていると、平年より雨量が多いとか、気温が高いなどとよく報じていますが、「平年」とはどういう意味なのかご存知でしょうか?
私は過去10年くらいの平均かと思っていましたが、調べてみるとそうではないようです。

「平年」
平年とは、過去30年の平均で、10年に1回更新するそうです。
その10年は、西暦年の下一桁の数字が1になる10年ごとに更新しているのだそうで、例えば今年(2016年)の「平年」は、1981年~2010年までの30年のデータを使用しているということです。

なぜ30年なのか?
これは世界気象機関で決められているからだそうです。
統計期間については、1935年の国際気象機関(世界気象機関の前身)の会議において、30年間を平年値の統計期間とし、10年ごとに更新するよう勧告され、日本では、気象庁が1921年~1950年の期間以降、西暦の末尾が1となる年に10年ごとに更新しているそうです。

「平年並み」
では平年並み、例えば、今年の夏は「平年並み」であるとか、平年と比べて「冷夏」或いは「暑夏」という場合はどうして決めているのでしょうか?
天気予報を聞いていると、気温や雨量を、「低い(少ない)」、「平年並み」、「高い(多い)」と3つの階級に分けて表現しています。
この3つの階級に分ける区分値も30年間の観測値(例えば夏の平均気温など)を小さい順に並べて、小さい方から10番目まで(全体の33%)が「低い(少ない)」、11~20番目(同33%)が「平年並み」、それ以上を「高い(多い)」に区分し、各階級の出現率が等しく33%(10年)となるように決めているそうです。
この区分値も今年は1981年から2010年までの30年間の資料で作成した値で、区分値も10年毎に更新しています。

「冷夏」や「暖冬」は、これらの階級を用いた表現で、「冷夏」とは、夏(6~8月)の平均気温が3階級表現で「低い」場合。
「暖冬」とは、冬(12~2月)の平均気温が「高い」場合を指しています。
また、これらの反対は、「暑夏」と「寒冬」となります。

なお、平年値として集計される要素には、気温、降水量、風速、積雪量などの観測値や、初雪・終雪、初霜・終霜、桜の開花日・満開日、紅葉日、春一番、梅雨入り・梅雨明け、台風の発生数・上陸数・接近数、流氷接岸初日、流氷初日、初冠雪などの季節変動やそれに伴う生物の活動など、多くの種類があります。

気象予報で「平年並み」とか、「平年に比べて」等と報じていたら、その平年とは、2010年代(2011年から2020年まで)の10年間においては、1981年から2010年までの30年間の平均値と比較しているということをご理解ください。


「アヤメ」「花菖蒲」「カキツバタ」の見分け方

2016-06-11 | 

テレビで季節の話題や視聴者からの投稿画像などで、花菖蒲の開花を取り上げているのをよく観ます。
ハナショウブ(花菖蒲)はアジサイと共に梅雨時に咲く代表的な花の一つで、この時期、各地の花菖蒲園はどこも観賞客で賑わっているようです。

ところで、私は花菖蒲、アヤメ、カキツバタの区別がつかないのですが、皆さまはお分かりでしょうか?
今日は見分け方を調べることにしました。

・5月に咲いた畑のアヤメです。一日花で、前日咲いた花は翌日には萎れます。


「アヤメの特徴」
・花色は紫色ですが、稀に白色もあるようです
・花には、網目模様が、外側の花弁に黄色い模様がある。
・葉は長さ30~50cmで、幅は5~10ミリの剣状をしており、中脈は目立たない。
・適地は、山野に生え、水とは関係のない畑や乾いたところにも育ちます。
・花期は5月上旬~中旬
・和名の文目(あやめ)は、外花被の基部に綾になった目があることが名前の由来となっているそうです。

・畑のアヤメです。花弁の網目模様が特徴です。


「カキツバタの特徴」
・花色は青紫、紫色、白色、紋り(色彩が入り混じっている)などがあります。
・花には、網目模様はなく、外花被片に白い斑紋があります。
・適地は、水中や湿ったところに群生します。
・花期は5月中旬~5月下旬
・名前の由来は、「書き付け花」が転訛したものと言われています。

・カキツバタです。花弁の中心部にある白い斑紋が特徴です。(写真提供は青木氏HPより)
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「花菖蒲の特徴」

・花色は紫色、紅紫、白、紋りなどがあります。
・花には、網目模様がなく、外花被片に黄色い斑紋があります。また、花は大きいものでは直径20cmくらいのものもあるようです。
・適地は、水辺など湿ったところに群生します。
・花期は6月上旬~6月下旬

・花菖蒲です。花弁の中心部の黄色い斑紋が特徴です。(写真提供は青木氏HPより)
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区別はお分かりになったでしょうか?
いずれもよく似た花ですが、大まかには花弁の中心部にある網目模様や白や黄色の斑紋を覚えておくといいようです。


四国遍路 「逆打ち」

2016-06-10 | 伝統行事

四国八十八か所巡礼の旅をしたことがありますか?
先月22日に高野街道を歩いた同僚の中には、四国の八十八か所巡りを何回もした人がいました。
定年を機に、自分を見つめ直したい人やこれからの生き方を考えたい人、心を癒したい人など、色々な目的で八十八か所巡りをしているようです。

お遍路では札所を巡る順番に決まりはありません。
1番札所(徳島県鳴門市の霊山寺)から四国を時計まわりに巡ることを「順打ち」、反時計まわりに巡ることを「逆打ち」といいます。
一般的には「順打ち」が基本とされていますが、「逆打ち」の方が功徳が大きいとされています。
何故なのでしょうか?
そこで調べてみました。

「逆打ちの由来」
四国八十八カ所の札所を1番から巡ることを「順打ち」、88番から巡ることを「逆打ち」といい、「閏年」に逆打ちすると「逆打ち」1回で「順打ち」4回の御利益・功徳があるとされています。
「逆打ち」の始まりは伊予の国の衛門三郎が弘法大師に会いたい一心で霊場を廻ったのが始まりとされています。


「逆打ちと衛門三郎」
四国を巡礼中の弘法大師がある日、愛媛県松山市郊外の大きな屋敷に托鉢に訪れ、そこの主人で強欲の衛門三郎は何度も訪れる乞食僧(大師)を追い払い、最後には、大師が持っていた鉄鉢を8つに割ってしまいました。
その後、乞食僧は来なくなったのですが、三郎の子供8人が次々と亡くなったのです。

三郎は托鉢に訪れた人が弘法大師と気づき、自分の今までの行動を悔い、大師を求めて遍路の旅に出ました。
しかし、簡単には会えず、二十数回「順打ち」でまわっても会えなかったため、逆に廻り始めました。
しかし、心身ともに疲れ果て十二番の焼山寺で倒れてしまいました。
意識が遠のいていくときに、大師が現れ、罪を許してもらったのです。
そして、最後の望みとして、「今度生まれ変わるときは、領主になりたい。」と願いました。
そこで、大師は衛門三郎と書いた石を衛門三郎に授け、それを握ったまま衛門三郎亡くなったのだそうです。

その後、伊予の領主に男の子が生まれました。
ところがその子の手は、しっかりと握られたまま開きません。
困り果て、安養寺(現在の石手寺)に連れて行き、祈念してもらったところ、その子の手が開き、そこから衛門三郎と書いた石が出てきました。
人々は衛門三郎が生まれ変わったと思ったということです。
この逸話から、衛門三郎が「逆打ち」で廻って弘法大師に会えた年が閏年だったので、閏年に「逆打ち」すると弘法大師に会えるという伝説が今に残っているそうです。

「逆打ちの方が功徳が大きいとされている理由」
1.弘法大師が順打ちで四国を巡っていることから、逆打ちのほうが大師に出会いやすいと言われていること。
2.遍路道が順打ちを基本として作られている為、逆打ちのほうが巡礼することが難しいとされている為です。
  実際に遍路道では案内板や道しるべが順打ちを基本に設置されている為、逆打ちは初心者の方には巡りにくいそうです。
なお、「打つ」の語源は、以前、お寺を参拝した際に巡礼者が柱や壁に木製・銅製の納札を打ち付けていたことに由来しています。

今年は閏年です。
今年お遍路するなら「逆打ち」の方がご利益・功徳がありそうですね。


梨の袋かけ

2016-06-09 | 家庭果樹

今年も梨の袋かけの時期となりました。
ちょうど1年前の今頃、梨の幼果がピンポン玉くらいまでになったので袋かけをしたのですが、それから2~3週間後の7月初めに突然カラスの大軍に襲われ、見るも無残に袋ごと食い散らされました。

・これが昨年7月に袋ごと食い散らされた梨の幼果と袋です。(手前が二十世紀、奥が豊水)


今年は、昨年の二の舞は避けようと、袋かけをする前に梨の木全体に防鳥網を張りました。
上部が防鳥網、横のブルーは防獣網です。



そして今年も幼果が直径3㎝ほどに成長したので昨日袋かけをしました。

・これは豊水の幼果です。


梨専用の黄色の袋は目立ちそうなので、今年はグレーの白桃の袋を使用しました。
更に全面に防鳥網を張っているので、カラスに対してはある程度効果があるのではないかと思いますが、上部の防鳥網は弱いので破られると昨年の二の舞になりかねません。



秋の収穫までカラスやアライグマに荒らされないよう、何とか無事に実って欲しいと願っているところです。




応神山

2016-06-08 | 地元紹介

岡山県の笠岡市ってご存知でしょうか?
私の故郷なのですが、ご存知ないですよね。

笠岡市は人口約5万1千人、岡山県の南西部の瀬戸内海沿岸にある港町で、大小31の島々からなる笠岡諸島を含む井笠地方の中核都市なのですが、昭和22年に7万6千人いた人口は減少の一途をたどっており、日本創成会議が発表した、出生率が回復しても人口減少に歯止めがかからないとされる「消滅可能性都市」の一つとなっている町なのです。

その笠岡市は、笠岡湾干拓地と天然記念物カブトガニ繁殖地として有名で、生息地の保全などを通して保護に力を入れており、2014年5月にはNHKの「家族に乾杯」の番組で、カブトガニに興味を持つ糸井重里さんが市内のカブトガニ博物館を訪れ、5月12日と19日の2週に亘って放映されました。

今日は町は「消滅可能性都市」となっていても自然が美しい、笠岡市の名勝・応神山をご紹介したいと思います。

「応神山」
応神と聞けば、「応神天皇」を思い浮かべると思いますが、応神山はその応神天皇にゆかりのあるお山なのです。
応神山は笠岡市街地の東方にある標高219メートルの山で、岡山県百名山と笠岡十名山の一つとなっており、国の名勝に指定されています。
山上には応神岩(八畳岩)や六畳岩など花崗岩の巨岩・奇岩が露出しており、山上のひらけた場所に立つと、市街地や笠岡湾干拓地、さらには沖合に点在する瀬戸内海の島々を一望できます。

応神岩の側面には、「應神天皇御史蹟 應神山」と刻んであり、応神山のシンボル的存在となっており、山麓には、応神天皇を祭神とする笠神社が鎮座しています。

・これが応神山の全景です。


「伝説」
応神山には次のような伝説が伝わっています。
「昔、応神天皇が吉備の国へ行幸され、この『笠目山(加佐米山:応神山)』で狩りをされたとき、風が吹いて天皇の笠を飛ばした。
お供をしていた鴨別命(かものわけのみこと)が、『この山の神が天皇に奉ろうとしているのです。』と進言した。はたして天皇がこの山で狩りをされたところ、獲物が多かった。天皇はたいへんお慶びになって、鴨別命に「笠」の名を与えられたという。」
また、飛ばされた天皇の笠がかかったといわれる「笠懸の松」が、笠神社参道の脇に残っていたが、明治7年(1874年)に枯死したそうである。

・「応神山」と彫られた応神岩(八畳岩)です。


「笠神社」
御祭神は応神天皇、天照皇大神です。
当社の創建は不詳ですが、鴨別命(かものわけのみこと)が功あって笠臣(かさのおみ)の姓を賜り、当社を勧請したとも伝えられています。
後にカサメと変じて笠岡となったようです。(1876年編纂の笠岡村史より)

「応神天皇」
応神天皇は第15代天皇で5世紀前後に比定(ひてい)。名は誉田別(ほむたわけ)。仲哀天皇の第4皇子。母は神功皇后とされていますが、天皇の誕生については伝説的な色彩が濃いそうです。
「民のかまど」伝説で有名な第16代仁徳天皇は応神天皇の第4皇子になります。
(参考)
比定とは、同質のものがない場合、他の類似のものとくらべて、そのものがどういうものであるかを推定すること。「年代を比定する」

・笠神社の本殿です。



蝶のように舞う

2016-06-07 | 時事

プロボクシング元世界ヘビー級チャンピオンのモハメド・アリ氏(74歳)が2016年6月3日(現地時間)、米アリゾナ州の病院で亡くなりました。
彼は1942年に米ケンタッキー州で生まれ、12歳からボクシングを始めたそうで、1960年のローマオリンピックではライトヘビー級を制して優勝し、その後プロに転向しました。
1964年にヘビー級王者に挑戦して世界チャンピオンとなりましたが、信仰とベトナム戦争への反対を理由に徴兵を拒否したため、1967年に王座をはく奪されています。
3年後の1970年にプロボクシングに復帰した後、1974年に世界王座を奪還し、通算19回の防衛を果たしていますが、彼のボクシングの華麗なフットワークから、「チョウのように舞い、ハチのように刺す」と評されたボクサーでした。

ところでボクサーではありませんが、「蝶のように舞う」と言えば、日本にも5人の蝶がいました。
今月5日に行われた体操のリオデジャネイロオリンピック代表の最終選考会、全日本種目別選手権の決勝で、床運動の世界王者19歳の白井健三選手がG難度の「リ・ジョンソン」をはじめ高難度の宙返りの着地を次々に止めて、16.650の驚異的な得点をマークし、初の代表に決まりましたが、彼の床運動こそ、正に「蝶のように舞った」という表現がぴったりする、見事な演技だと思います。
ニュースでご覧になった方もおられると思いますが、動画を下記にアップしました。
蝶の舞をご覧ください。

・床の上を蝶のように舞う白井選手の見事な演技です。


今回の最終選考会では五輪代表の残3り枠に、白井健三選手と田中佑典選手、山室光史選手が選ばれ、既に代表に決定している内村航平選手と加藤凌平選手の5人で団体優勝を目指すことになります。
オリンピックでは5人5様の蝶がリオデジャネイロの会場で思いきり舞うことを期待したいと思います。