今日は「方違神社」のすぐ傍にある反正天皇陵古墳をご紹介します。
「反正(はんぜい)天皇陵古墳」
反正天皇陵は百舌鳥古墳群の北端にあり、前方部を南に向けた前方後円墳です。
仁徳天皇陵、覆中天皇陵とともに百舌鳥3陵の一つで、百舌鳥耳原北陵とも呼ばれ、現在は「百舌鳥耳原北陵・反正天皇陵」として宮内庁が管理しています。
墳丘の規模は全長約148m、後円部径約76m、高さ約14m、前方部幅約110m、高さ約15mで百舌鳥古墳群では7番目の大きさです。
仁徳天皇陵古墳の1/3ほどの大きさで、天皇陵では小さいほうですが理由はよくわかっていません。
墳丘は3段に築かれその形や出土した埴輪から、仁徳天皇陵古墳より少し新しく、5世紀後半頃に造られたと考えられています。
・「反正天皇陵古墳」です(パンフレットより)
反正天皇陵は現在一重の盾型周濠がめぐっていますが、前方部外周で行われた発掘調査で、嘗て二重濠があったことが確認されています。
陪塚(ばいづか)と推定される2基の古墳の存在や二重濠など、大型前方後円墳として不足のない姿の古墳ですが、仁徳天皇陵古墳や履中天皇陵古墳あるいはニサンザイ古墳に比べ、規模がかなり小さいことから、反正天皇陵とすることを疑問とする意見も少なくないということです。
なお、陪塚(ばいづか)とは、大きな古墳のそばにある小さな古墳で、主に副葬品を納める墓のようです。
・宮内庁が管理する「反正天皇・百舌鳥耳原北陵」を記した標榜です。
「反正天皇」
反正天皇は仁徳天皇の第三皇子として淡路島で生まれたとされています。
第一皇子の覆中天皇と第二皇子の住吉仲皇子(すみのえなかのおうじ)は同母兄。弟は後の允恭(いんぎょう)天皇です。
実父の仁徳天皇が崩御された後に、実兄の覆中天皇を、実兄の住吉仲皇子が焼き殺そうとする事件が発生した際に、覆中天皇の命をうけて住吉仲皇子を誅殺し、覆中天皇が即位すると立太子となりました。
405年に覆中天皇が崩御された後、第18代天皇に即位されました。
そして、河内の丹比に都を定め、戦乱や天変地異のない天下泰平な治世を送り、在位5年の410年に60歳で崩御されますが、古代における大王の王位継承(兄弟間の相続)に重要な前例を開いたことでは知られているものの、天皇の事績としては記すべきものはないということです。
・反正天皇陵 拝所です。
最新の画像[もっと見る]
-
「蛇の道は蛇」の由来 2ヶ月前
-
身近な野鳥「ムクドリ」 2ヶ月前
-
身近な野鳥「ムクドリ」 2ヶ月前
-
身近な野鳥「ムクドリ」 2ヶ月前
-
ニゲラの花「蕾から種まで」 2ヶ月前
-
ニゲラの花「蕾から種まで」 2ヶ月前
-
ニゲラの花「蕾から種まで」 2ヶ月前
-
ニゲラの花「蕾から種まで」 2ヶ月前
-
ニゲラの花「蕾から種まで」 2ヶ月前
-
ニゲラの花「蕾から種まで」 2ヶ月前
五王がちょうど③讃、④珍、済、⑤興、⑥武と並ぶのも好都合でした。
~~
瑞穂別(反正)は、皇子の警護役をそそのかして殺し、次にその男を主君殺しの罪で殺したとは、大昔のこととはいえ
ほめられたことをしていませんね。
>最初の写真は岩が犬の横顔に見えます。
いわれてみると、犬が富士を見ているようです。
誅してお祀りするのが常だったのでしょうか。
しかし、広大な心落ち着く構築物ですね。
天皇の東京行幸から140年ちょっと。
一様、東京が首都と呼ばれておりますが、色々ないきさつから本当は、いまだに京都が首都ともいえます。
東幸にあたり、方偉神社で数日におよぶ祈祷が行われたとか。
京都の人が言うように
「天皇さまは、ちょっと東にお出掛けしてはります」
は、正しい事のようです。(笑)
天皇様にはいつでもお帰りいただけるように、京都では御所を大切にお留守番しているようです。
この願いが叶うといいのですが・・・。