らいちゃんの家庭菜園日記

家庭菜園、家庭果樹栽培及び雑学日記

小春日和

2014-01-21 | 雑学

一昨日の大阪・熊取の最高気温は5.7度で、北風が吹く寒い一日でした。
その寒さは昨日の明け方まで続き、昨朝の最低気温は-0.5度で、この冬一番の寒さでした。
しかしその後、昼過ぎまでは快晴に恵まれ、気温も上昇してポカポカ陽気の「小春日和?」を思わせる暖かい一日でした。
小春日和に「?マーク」を付けましたが、この時期、この表現は使用しません。

「小春日和(こはるびより)」とは、旧暦10月の異称で、晩秋から初冬にかけて日に日に寒さが厳しくなる中、穏やかで温かな日和のことをいいますが、昨日は旧暦では12月20日、二十四節季の「大寒」でした。
大寒とは思えない暖かさに「小春日和」を思わせたことから敢えて小春日和を取り上げてみました。

日本では晩秋から初冬にかけて穏やかで温かな日和のことを「小春日和」といいますが、実は外国では「夏」を当てて次のように呼ばれています。
・アメリカでは「インディアン・サマー」
 その由来は、一説には昔、北米の現地人たちは秋に狩をしており、暖かい日が続くと動物たちが活動的になり、苦労せずに狩ができるという利点があったため
 「Indian Summer」といわれるようになったと言う説。
 他には、”Indian”という言葉は「偽りの」とか「安っぽい」という意味の使われ方もしており、白人はインディアンは嘘をつくものとして軽蔑して、夏みたいな気候だけど実は
 インディアンに騙された「偽りの夏」ということで「Indian Summer」となったとの説。

・イギリスでは「セント・マーチンの夏」
 ”St.Martin’s”は「偽り」の意味を持っており、アメリカの由来と似ているそうです。

・ドイツでは「アルトワイベルゾンマー(老婦人の夏)」
 晩秋から初冬にかけて、風が弱くポカポカと暖かい日に、お年寄りが公園のベンチでのんびりとくつろいでいる風景からといわれています。

・ロシアでは、「バービェ・レート(婦人の夏)」
 由来ははっきりしないですが、ドイツと同じようなことではないかといわれています。

・フランスでは「サンマルタンの夏」
 由来は分かりません

小春日和は晩秋から初冬にかけて穏やかで温かな日和のことを言いますが、半月後の2月4日には立春を迎えるこの時期の暖かさに対して表現した方がピタリとするような気がしますが、如何でしょうか?


玉の輿

2014-01-20 | 雑学

「玉の輿」。いい響きですね。
女性の方はこの言葉に魅力を感じるのではないですか?男性にも「逆玉」なんて言葉もありますが・・・。
今日は「玉の輿」の語源について調べました。

玉の輿の「玉」は、美しいものの総称で、古くは宝石も意味したそうです。
そして、玉の輿の「輿」は、貴人を乗せて人を運ぶ乗り物です。
そこから、貴人の乗る美しい立派な輿を「玉の輿」と言うようになり、身分の低い女性が高い身分の人と結婚し、立身出世することを「玉の輿に乗る」と言うようになりました。
ここまでは皆さんご存知だと思いますが、さて、その語源を調べてみましたが、俗説しか載っていませんでした。

俗説「お玉説」
玉の輿の「玉」とは、京都の西陣の身分の低い八百屋の娘として産まれたお玉のことで、三代将軍徳川家光の側室となり、豪華な輿に乗って大奥に入ったことから、桂昌院の名「お玉」に由来すると言うものです。

お玉は3代将軍家光の側妾お万の方の侍女となるため江戸へ下りました。
18歳の時、家光の寵愛を受けて側室に加えられ、お玉の方と呼ばれるようになり、20歳の時に徳松(後の五代将軍綱吉)を出産しました。

1661年(慶安4年)4月20日、26歳の時、家光の死に際し、落飾して(尼となって)桂昌院と称するようになり、綱吉と共に江戸藩邸に住むことになりました。
1680年(延宝8年)8月、桂昌院54歳の時、綱吉が5代将軍に就任すると、江戸城中三之丸に居を移しました。
そのことから三之丸様と呼ばれ、大奥での力は絶大となり、1702年(元緑15年)3月、76歳の時、従一位という最高の位階に叙せられ、春日局の従二位を超えており、女性としては最高位に登りつめました。

1706年(宝永2年)6月22日に79歳で亡くなりましたが、八百屋の娘「お玉」が将軍の側室となってそこまで登りつめたことから、このことが玉の輿の語源だとするものです。


もう一つの鉄板

2014-01-19 | 雑学

『鉄板』といえば、お好み焼きなどで使う【鉄の板を延ばして板状にしたもの】ですが、今日は若者の間で定着しているもう一つの鉄板をご紹介します。

若者の間では、例えば「鍋といえば寄せ鍋が鉄板」と言ったり、「遊園地はデートの鉄板コース」とか「モテる鉄板ファッション」のような使い方をするそうです。
皆さんには何を言っているのか分かりますか?

これらは、「鉄の板」ではなく、鉄の板が「硬い」のと「堅い」をかけて【定番、確実】という意味で『鉄板』を使っているもので、最初のフレーズの場合、「鍋といえば寄せ鍋が鉄板」は「寄せ鍋が定番」だということだそうです。

こうした使い方は、競馬や競輪などギャンブルの世界で始まったようです。
"手堅く確実"なレースのことを「鉄板レース」などと言い、そこから、お笑いの世界にも広がり、「鉄板ネタ」や「鉄板ギャク」など、"確実に笑いがとれる"という意味で『鉄板』が使われるようになったと言われています。

勿論、辞書にはそのようた意味は載っていませんが、今では若者の間で『鉄板』といえば、【定番、確実】という新しい意味のほうが定着しているということです。
若者たちはいろいろな新語をよく生みだしますね。

私の鉄板の鉄板(定番)はお好み焼きです。そこで大阪のお好み焼きを探してきました。(ネットより)


 


真っ赤なウソ

2014-01-18 | 雑学

「真っ赤なうそ」という表現があります。
何故うそが赤いのでしょうか?
調べてみました。

これは、古代日本には色を表す固有の言葉はなく、光の明暗濃淡を赤黒白青で表したことに由来するそうです。
そもそも「赤」は、光を浴びてくっきりと明るい状態、即ち「明かし」のことで、【明らかな】とか【全くの】といった意味が含まれ、そこから、【明らかなうそ】が「真っ赤なうそ」になり、【全くの他人】は「赤の他人」となるのだそうです。

この【明らかな】ものに対して"漠然としてはっきりしない色調"を「あわし」といい、これが「青」となったようです。
「明らかではない」、「はっきりしない」ということから「青」は【未熟だ】、【不十分】といった意味を含み、「青二才」や「青くさい」といった表現が生まれたそうです。
そして、「青」の中でも特に「新芽のように若やいだ状態」を「緑」といったことから、「緑」は【新鮮だ】、【若々しい】という意味を持ち、「緑児(みどりご)」とか「緑の黒髪」といった表現が生まれたのだそうです。

英語でも同じような表現があって、【活気のある若さ】【未熟さ】を「green(緑)」で例えており、新人船員は〔a green crew〕、熟成前のワインは〔green wine〕と云うそうです。

日本も外国も同じような捉え方から言葉が生まれているようですね。



蝋梅(ロウバイ)

2014-01-17 | 

今日は阪神淡路大震災から19年です。
今日一日、兵庫県内の各地では追悼行事が催され、被災地は祈りに包まれます。
そこで当ブログでは追悼の祈りを込めて、我が家の庭に咲いている「蝋梅(ロウバイ)」の花をご紹介します。

「蝋梅」はロウバイ科ロウバイ属の落葉低木で、原産地は中国、日本には17世紀初期に渡来しました。
別名を「カラウメ(唐梅)」、「ナンキンウメ(南京梅)」と言いますが、「梅」の仲間ではありません。



名前の由来は属名の「キモナンサス(Chimonanthus)」で、ギリシャ語の「cheimon(冬)」と「anthos(花)」を意味し、冬に咲く花に因みます。
和名の「ロウバイ(臘梅、蝋梅)」は、花がろう細工のような光沢と質感をもち、梅の花に似ていることからこの名前が付きました。
また花が臘月(陰暦の12月、現在の1月頃)に咲くことからとの説もあるようです。
英語名でも「Winter Sweet」と呼ばれており、冬に咲く花で、甘い香りが漂うことからこの名前がつけられたのではないかと言われています。



女性のアンケート調査では、「貰って嬉しいもの」の上位にランクされる花だそうです。
被災者の皆さんの心に届けば嬉しいです。



蝋細工のようなツヤツヤした輝きと芳香を放つ蝋梅の花は晴天の日には一段と美しく見えます。




朝の表現

2014-01-16 | 雑学

ネットを見ているといろいろな朝を表す言葉がありましたのでご紹介します。
それによると、昔の人々は現代と違い、太陽の動きと共に生活をしていたので、朝が徐々に明るくなる様子から、朝の表現を時間帯ごとに変えていたようです。

・『あかつき』・・・夜を3つに分けた3番目です。「宵」「夜中」に続く表現で、【明るくなるとき】をいう「あかとき」から変化した言葉です。
           現在ではやや明るくなってからを指しますが、古くは夜が明けようとする時をいい、朝というよりは夜の終わりを指していました。
           現代でも「当選のあかつきには!」というように、物事が実現することを朝に例えて使う場合があります。

・『しののめ』・・・「あかつき」より明るくなる時間で、東の空がわずかに明るくなることで「東雲」と書きますが、これは後に当てられた漢字だそうです。
           もともとは篠竹を材料として作られた「め」が「篠の目」と呼ばれ、これが明り取りそのものの意になり、転じて夜明けの薄明かり、更に夜明けそのものの意味と
           なりました。

・『あけぼの』・・・夜明けの空が明るんできたとき。夜がほのぼのと明け始めるころです。
           「ぼの」は、「ほのぼの」「ほのか」などの「ほの」と同じで、【かすか、わずか】という意味から『しののめ』よりももう少し明るくなるころを指します。

・『朝ぼらけ』・・・曙から更に明るくなる頃で、朝がほんのりと明けてくるころ。 「朝開き・け」や「朝ほのあけ」が転じたといわれています。
           但し、和歌などでは『あけぼの』と『朝ぼらけ』はほぼ同じ時間帯を指し、『あけぼの』は春、『朝ぼらけ』は秋や冬に使うことばと区別されているようです。

他にも『かわたれどき』と『たそがれどき』があります。
・『かわたれどき』・・・「彼誰時」と書き、彼は誰だ?と、人の見分けがつかない時間帯を指したことばです。
              元々は、彼が誰か訊かなければ判らない、薄暗い朝方や夕方を指していたそうですが、『たそがれどき』ということばが夕暮れを指すようになったため、
              『かわたれどき』は、朝を指すことばとなりました。

・『たそがれどき』・・・夕方薄暗くなって「誰(た)そ、彼は」と人の顔の見分けが難しくなった時分です。

現在では朝を表す言葉は「夜明け」や「明け方」、「朝」、「朝方」等、大まかな使い分けですが、昔の人々は時間帯ごとに細かく使い分けていたのですね。


小正月の行事

2014-01-15 | 季節

今日1月15日は「小正月」で、関西の一部の地方では今日までが「松の内」としているところもあります。
そこで今日は「小正月」と「松の内」、そしてその行事について調べました。

「小正月」
小正月とは、1月1日の元旦を「大正月」と呼ぶのに対して1月15日をこのように呼んでいます。
「月」を暦の基準にしていた昔の日本では「満月から次の満月まで」が一カ月で、満月をめでたいものの象徴としていた事から、一年で最初の満月の日を「正月」としていました。
これが「小正月」の起源です。
現在では、一年の最初の満月は15日とは限りませんが、昔の名残りで15日を「小正月」と呼んでいるものです。

「松の内」
「松の内」とは、新年にお迎えした年神様のために、道しるべとして門ごとに置かれる門松などの松飾りのある期間を言います。
本来、「松の内」とは「小正月」までを言いますが、関東では1月7日までを、関西では1月15日の小正月までとしている地方が多いようです。
これは、関東では1662年1月6日、江戸幕府により1月7日を以って飾り納めを指示する最初の通達が江戸の城下にお触れとして発せられ、それに倣って関東を中心に広まったと考えられているものです。
これに対して関西では現在でも小正月までを「松の内」としている地区が数多くあるようです。

「行事」
小正月には次のような行事があります。
・「農作物の豊作を願う行事」
 餅をまゆの形に作った「まゆ玉」を神棚にお供えしたり、竹柳の枝先を稲の穂たれにたとえて、門前や家の中に吊るすというように農作物の豊作を願う行事があります。

・「小豆粥(あずきがゆ)」
 小豆粥とは、小豆を米に混ぜて炊いた粥のことで、邪気を除くとして、古くから小正月の朝に食べる習慣があります。
 この小豆粥の風習は中国から伝わったもので、中国では「小豆粥」を炊いて家族の健康を祈る慣わしが古くからあるそうです。
 日本でも1年中病気をしないようにと粥をいただく風習が残っています。

・「左義長・三毬杖(さぎちょう)」
 「左義長・三毬杖(さぎちょう)」とは、正月に飾った門松や注連(しめ)飾り、書初めで書いたものなどを持ち寄って焼く火祭りのことで、「どんど焼き」とも言われています。
 日本では昔から大きな火を炊くことは魔よけ、清浄の世界を回復するための大切な行事とされ、書初めが高く燃え上がれば、字が上達し、とんど焼きの火にあたれば、病気
 にならないと言われています。
 またこの火で焼いた団子や餅をいただくと無病息災で、その年を過ごせると言い伝えられています。


桃の剪定

2014-01-14 | 家庭果樹

久しぶりにブログのタイトルである菜園を取り上げます。
冬は落葉果樹の剪定時期です。
先日から畑のブドウや梨、柿などの剪定をしていますが、今日は庭に植えている桃の剪定をご紹介します。

私の剪定方法は、専業農家とは多少異なっているかも知れませんが、基本的には大きな違いはないものと思っています。
何故なら、毎年大きな果実がたくさん実っているからです。
我が家の桃の木は樹齢30年になりますが樹勢が強く、年々上へ上へと枝が伸びるので、今年は上部の太い枝を切り取り、昨年よりやや低めに仕立てることにしました。

・剪定前の桃の木です。昨年伸長した枝が上に林立しています。(手前の葉があるところはキウイの木です)


「剪定方法」
・基本的に各枝に日光がよく当たるように剪定します。(日光が当たらない枝は勢いが悪くなり、枯れてきます。)
・花芽のついている枝は、収量を上げるため出来るだけ残し、枝が重ならないように紐で誘引しました。
・その上で弱い枝、日光をさえぎる枝、垂れ下がっている枝などを切除しました。
・枝の背中から真上に向かって出ている強い枝については、その枝の日焼け防止のため1~2芽を残して切除しました。
・横に長く伸びている強い枝については1/3程度を切り詰めたり、葉芽のところで切除しています。

上記の方法で剪定した姿です。
すっきりしましたが、この後もう少し細い枝などをカットして出来上がりです。

・剪定がほぼ終了した桃とキウイです。


「冬の作業」
剪定以外の1月から3月までの主な作業は施肥と薬剤散布です。
・施肥
 一般的に12月~2月頃に施肥しますが、私は2月初めに行います。
 方法は、株の周り1mくらいのところに溝を掘り、市販されている「寒肥」を混ぜ込みます。
 
・冬の薬剤散布
 冬の薬剤散布は、カイガラムシの駆除や縮葉病などの予防を目的として行います。
 ・カイガラムシやハダニ類の駆除・・・・剪定の後にマシン油乳剤の16倍液を散布します。
 ・縮葉病や黒星病予防・・・・・・・・・・・・1月下旬から3月初旬にかけて縮葉病予防のため、ビスダイセン300倍液を3回散布します。
                         今まで使用していた石灰硫黄合剤は500ml入りが無くなり、1斗缶での販売となったことから、ビスダイセンに変更したものです。


黒田節

2014-01-13 | 雑学

企業においてはトップを支えるナンバー2が重要であることから、今「軍師黒田官兵衛」が注目されてています。
黒田官兵衛は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将・大名で、豊臣秀吉の側近として仕え、調略や他大名との交渉などに活躍しました。
実は民謡の「黒田節」は黒田官兵衛に仕えた武将・母里友信(もり とものぶ/通称:太兵衛)が残した有名な逸話が描写されているそうなのでご紹介します。

黒田節に登場する「日の本一の槍」の由来は、正親町(おおぎまち)天皇が所持していた天下の名槍「日本号」だそうです。
天皇から室町幕府十五代将軍・足利義昭に下賜された後、織田信長から豊臣秀吉に渡り、秀吉より福島正則に武功の褒美として与えられた由緒ある逸品ですが、この名槍「日本号」が最後には黒田家の家臣母里太兵衛(もりたへい)によって呑み取られたものです。

その逸話を、福岡藩の武士たちが 雅楽の越天樂の節「筑前今様」に乗せて替え歌にしたものが黒田節だそうで、それが 昭和初期のラジオで「黒田節」として放送されて人気となり、大ヒットしたと言われています。

・博多駅前に立つ母里友信(太兵衛)です(ウィキペディアより)


「母里太兵衛の逸話」
日本一の槍「日本号」を飲み取った黒田武士の名は、母里太兵衛友信(もりたへいとものぶ)で、後藤又兵衛と並んで、黒田藩きっての大酒豪であり、槍の名手でもありました。
ある日、黒田官兵衛の息子・藩主黒田長政の使者として、京都伏見城に滞留していた福島正則の元へ年賀の使者に立つことになりました。

福島 正則は豊臣秀吉の下で軍功をあげ、賤ヶ岳の七本槍と称賛された戦国武将で、無類の酒好き大名です。
また荒大名で聞こえていたので、藩主黒田長政は、面倒が起きてはと考え、太兵衛に「どんなに酒をすすめられても、絶対に飲んではならぬ」と、その日一日の禁酒を言い渡しました。

正則は案の定いい飲み相手が来たとばかりに早速酒をすすめます。
太兵衛は主君の命があるので断固として断ります。
それでもしつこく酒を勧める正則は、三升はらくにはいる大杯に並々と酒を注いで、「この酒を飲み干したなら、なんなりと好きなものを褒美にとらすぞ」と意地になって勧めるも、太兵衛は断固、断ります。

業を煮やした正則は今度は挑発作戦にでました。
「なんだ、酒豪だと言われる母里でさえ、このくらいの酒を飲む自信がないとは黒田家の侍もたいしたことないな。
腰抜け揃いの弱虫藩か。長政殿もお気の毒に」と。
太兵衛は己ばかりか、藩を侮辱することは許せない。藩の名にかけてとばかり、勧められる杯を手に取りました。

杯と言っても直径一尺で、三升入り漆塗りの大杯です。
太兵衛はそれを、一息の内に飲み干すと「おかわり」、又「おかわり」とあれよあれよと飲み干しました。
飲み終わると「お約束のご褒美にはその槍を」と一本の槍を指しました。

その槍こそ第106代・正親町(おおぎまち)天皇が室町幕府十五代将軍・足利義昭に下賜された後、織田信長から豊臣秀吉に渡り、秀吉より福島正則に武功の褒美として与えられた天下の名槍「日本号」でした。
「日本号」は、全長3.2m、総重量2.8kgの大身槍で、元来は皇室所有物として「正三位」の位を賜ったという伝承から、「槍に三位の位あり」と謳われた天下の名槍だそうです。
福島正則も家宝ともいえる槍でしたが「武士に二言なし」と譲り渡しました。
太兵衛は、槍をかつぐと藩歌「筑前今様」(現在の黒田節の元歌)を歌いながら、いい気分で帰ったと云われています。

大河ドラマでは速水もこみちさんが母里太兵衛役で登場しています。
逸話のような酒を呑むシーンがあるのかどうかは分かりませんが、期待して観たいと思います。


関の山

2014-01-12 | 雑学

今日は関の山について調べました。
関の山と言っても今日から始まる大相撲の力士のしこ名ではありません。
なしうる限度とか精一杯という意味の言葉です。

この語源を調べたところ、三重県の関町(現在は亀山市)に由来することが分かりました。

「関の山」の「関」は三重県の関町で、「山」はmountain(マウンテン)の山ではなく、「山車(だし)」のことだそうです。
関町は、江戸時代から東海道の宿場町として栄えた鈴鹿山麓の町で、この関町の八坂神社で毎年行われる祇園祭では豪華絢爛な山車が町中を練り歩くことで有名でした。

山車は関西では「ヤマ」とも呼ばれ、関町から出される山は大変立派なものだったことから、それ以上贅沢な山は作れないないだろうと思われ、「関町のヤマ」、つまり「関の山」は、やがて「これ以上ないぐらい素晴らしいもの」を意味するようになりました。
その後、元の意味が変化して、「これが精一杯」、「これ以上は無理」といったような意味となり、広く使われるようになったそうです。

ところで今日から大相撲初場所が始まりますが、今場所は稀勢の里の綱とりがかかっていることから非常に関心が高まる場所となりそうです。
既に横綱日馬富士の休場が発表されており、稀勢の里にとっては心理的にプラスとなりそうですが、下位力士にとりこぼしが多いことから、序盤を無難に乗り切ることができるかが課題となりそうです。
千秋楽まで白鵬と優勝争いを繰り広げ、出来れば初優勝して横綱を手中に収めて欲しいものです。
いやしくも「大関までが関の山」と言われないよう、また言わせないように奮闘を期待したいと思います。