らいちゃんの家庭菜園日記

家庭菜園、家庭果樹栽培及び雑学日記

紀州街道を歩く「多奈川~加太(その1)」

2015-09-29 | 趣味

一昨日、現役時代の趣味の会である「歴史探訪同好会」のメンバーと、大阪府岬町から和歌山市加太までの13~14㎞を歩いてきました。
このシリーズは、「紀州街道を歩く」という名目で堺から和歌山まで歩いているものですが、前々回の泉佐野市からは、紀州街道を少し離れた海岸沿いのコースを歩いています。

今回も紀州街道の「孝子越(きょうしごえ)」を離れて海岸沿いの道路を多奈川から加太まで歩くことになりました。
気候がよくなったことから、今回は17名と過去最高の参加者となりました。
今日から数回に分けてご紹介したいと思います。

・今回歩いた多奈川駅から加太までの「大阪府道・和歌山県道65号岬加太港線(青色の区間)」です。


「産土神社(うぶすなじんじゃ)」
多奈川駅から30分ほど歩くと産土神社があります。
ここに掲げられている説明によれば、次のように書かれています。
青垣山に鎮座まします祭神イザナギノミコト、金山彦尊外に八柱の祭神を合祀した宮を産土神社と呼んでいる。
仁寿2年(852年平安時代初期)文徳天皇の勅願により、慈覚大使(円仁)が当社に隣接する天台宗興善寺を開基した時に、境内鎮守として堂宇を建て、比売大神宮(衣通姫命)を勧請したのが始めだそうです。

正和元年卯月(1312年旧暦2月10日)谷川庄西の浜に熊野権現が出現し、霊験著しく比売神社に勧請した。
その後、天正2年(1574年)織田信長の兵火で全山焦土と化したが元禄年間興善寺再建と共に当社も復興したと思われる。
明治になって神仏分離令により興善寺と産土神社とに別れたが、それ以前は、興善寺の勢力が強大で、神宮寺としての時代が長く続いた。
当社は明治5年村社に列せられ、明治41年1月9日の合祀令により、谷川村、字々の小社を産土神社外陣へ奉斎された。

・産土神社の第一鳥居です。


「本殿」
産土神社の創建年代は不詳ですが、宮山・青垣山と呼ばれ、昔から神体山として信仰を集めていたかなり古い歴史のある神社です
興善寺の鎮守社として創建され、社叢(しゃそう:神社の森)には大阪府で希少な植物を見ることができるようです。
特に参道にあるホルトの木は、府下で最大のもののようです。

・産土神社の本殿です。


「興善寺」
852年(仁寿2年)、慈覚大師(円仁)が建立した天台宗の寺院です。
古来より江戸時代まで続いた神仏習合の面影が色濃く残っているということです。
1574年(天正2年)織田信長の兵火にかかり焼かれましたが、江戸時代の元禄年間に興善寺再建されました。



「本堂」
興善寺の宗派は天台宗で、本尊には大日如来坐像が祀られています。
本堂に鎮座するその像は高さ2.9メートルもあり、両脇侍の釈迦像や薬師像とともに、国の重要文化財に指定されています。
また、広大な寺域には七堂伽藍が構えられ、古くから村人の尊崇を得ているそうです。

・興善寺の本堂です。


今回歩いたコースはこのような小さな峠越えの一般道や海岸沿いの道路です。