司馬遼太郎の「義経(上巻)」の最後の部分に「鼎(かなえ)の軽重(けいちょう)を問われる」と云うフレーズが出ていました。
この前後のあらましは次のようなものです。
木曽義仲(源義仲)が京都から平氏を追討した後、義仲の京での非礼や無礼な振舞いは目に余るものがあり、後白河法皇が鎌倉の頼朝に上洛を促すも動かず、名代として義経を京に向かわせます。
その義経に対して、“今は義仲を攻めることなく自重するように”の頼朝からの通信を送った下りがあり、その中で次のように書かれているものです。
『鎌倉の頼朝はそれらの通信によって、過大視していた義仲の実態がどのようなものであるかを、次第に知った。(これは負けるかも知れない)
この前後のあらましは次のようなものです。
木曽義仲(源義仲)が京都から平氏を追討した後、義仲の京での非礼や無礼な振舞いは目に余るものがあり、後白河法皇が鎌倉の頼朝に上洛を促すも動かず、名代として義経を京に向かわせます。
その義経に対して、“今は義仲を攻めることなく自重するように”の頼朝からの通信を送った下りがあり、その中で次のように書かれているものです。
『鎌倉の頼朝はそれらの通信によって、過大視していた義仲の実態がどのようなものであるかを、次第に知った。(これは負けるかも知れない)
頼朝は、かねてそれを怖れた。例え小部隊の局部戦にでも敗北すれば、その敗報は天下に伝わり、鼎(かなえ)の軽重を問うわれ、せっかく頼朝に傾いている世の武士どもの
気持ちが義仲の方に傾くかもしれない。 義経を自重させ続けているのもそれが理由であった。』と云うものです。
読んでいて「鼎(かなえ)の軽重(けいちょう)を問う」と云う難しい表現が出てきたので早速調べてみました。
「鼎(かなえ)の軽重(けいちょう)を問う」という諺の意味は、統治者を軽んじ、これに代わって支配者になろうとする野心のあること。
転じて、ある人の実力を疑ってその地位を覆そうとする事を言います。
すなわち、統治者を軽んじ、これを滅ぼして天下を取ろうとする。あるいは、権威ある人の能力・力量を疑い、その地位から落とそうとする、という意味合いで使われています。
・これが鼎です。(ウィキペディアより)

この諺の出典は「春秋左氏伝」です。
それによると、晋の景公を破って天下を取りたい楚の荘王が、定王を侮って、無礼にも周王室の宝物である九鼎(きゅうてい)の大小・軽重を問うたと云う故事に基づいています。
気持ちが義仲の方に傾くかもしれない。 義経を自重させ続けているのもそれが理由であった。』と云うものです。
読んでいて「鼎(かなえ)の軽重(けいちょう)を問う」と云う難しい表現が出てきたので早速調べてみました。
「鼎(かなえ)の軽重(けいちょう)を問う」という諺の意味は、統治者を軽んじ、これに代わって支配者になろうとする野心のあること。
転じて、ある人の実力を疑ってその地位を覆そうとする事を言います。
すなわち、統治者を軽んじ、これを滅ぼして天下を取ろうとする。あるいは、権威ある人の能力・力量を疑い、その地位から落とそうとする、という意味合いで使われています。
・これが鼎です。(ウィキペディアより)

この諺の出典は「春秋左氏伝」です。
それによると、晋の景公を破って天下を取りたい楚の荘王が、定王を侮って、無礼にも周王室の宝物である九鼎(きゅうてい)の大小・軽重を問うたと云う故事に基づいています。
「鼎」(かなえ)とは、古代中国で煮炊きに用いた三本足の青銅器の事で、全国の銅を集めて九鼎(きゅうてい)を造り、王室の宝とされ、王位継承の象徴とされているものです。
(参考)
出典の『春秋左氏伝』とは、孔子の編纂と伝えられる歴史書『春秋』の代表的な注釈書の1つで、紀元前700年頃から約250年間の歴史が書かれている書物です。
(参考)
出典の『春秋左氏伝』とは、孔子の編纂と伝えられる歴史書『春秋』の代表的な注釈書の1つで、紀元前700年頃から約250年間の歴史が書かれている書物です。