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らいちゃんの家庭菜園日記

家庭菜園、家庭果樹栽培及び雑学日記

小倉祇園祭と無法松

2012-07-20 | 伝統行事

〽小倉生まれで 玄海育ち
  口も荒いが 気も荒い 
  無法一代 泪を捨てて
  度胸千両で 生きる身の
  男一代 無法松

これは村田英雄が歌った「無法松の一生」の1番の歌詞です。
私の好きな歌の一つで、現役の頃カラオケに行けば必ず歌っていました。
この歌の3番の歌詞にある“太鼓の乱れ打ち”は小倉の祇園祭りで打たれる祇園太鼓のことで、その勇壮な小倉祇園祭りが7月第3土曜日を挟んだ今日から3日間行われます。

そこで今日は「小倉祇園祭り」について調べました。
「小倉祇園祭り」は、関ヶ原の戦いの功により、40万石の大名に任ぜられた細川忠興公が、慶長7(1602)年に大規模な小倉城の築城を始め、無病息災を祈るとともに、城下町繁栄策のひとつとして、元和三年(1617年)に祇園神社(現在の八坂神社)を建て、京都の祇園祭を小倉の地に取り入れたのが始まりと云われています。

江戸時代の小倉祇園は、ご神幸に城下の各町内から、いろいろな趣向を凝らした山車、踊車、人形引車、傘鉾、踊り子などが随従するという豪華なものだったそうです。
しかし明治時代以降は山車に据え付けた太鼓を叩き、それに調子をとるジャンガラ(摺り鉦)が加わり両面打ちの太鼓を主体とした祇園へと展開しました。
飾り付けた山車や踊り屋台が、今日の太鼓を据え付けた山車になり、若衆がその太鼓を威勢よく打ち鳴らして町中が勇壮な太鼓の音でおおわれることから、小倉祇園が太鼓祇園と言われる由縁となっています。

この祭りのハイライトは太鼓の競演会だそうです。
この競演会では、山車を有する町内ではともに腕を磨き、揃い浴衣に身を包んだ大人組、少年組100チーム以上が参加し、伝統の太鼓の打法を競い合い、お祭りも一気に盛り上がります。

・21日に行われる大鼓競演大会です(北九州市HPより)


最終日の夜“太鼓広場”で披露されるのは映画「無法松の一生」で知られる「あばれ打ち」や「みだれ打ち」で、感動と打ち手の熱気とともに祇園太鼓の音が町中に響きわたる勇壮な行事となっています。

映画「無法松の一生」あらすじ

人力車を曳く「車曳き」の富島松五郎(三船敏郎)は、彼の地元九州の小倉(北九州)では有名な暴れん坊で、近所の人々から「無法松」と呼ばれていました。
 ある日、怪我をした子供を助けたことから、その家の父親、吉岡陸軍大尉(芥川比呂志)に気に入られ、家族みんなと親しく付き合うようになります。
ところが、ある日、急病で吉岡大尉はこの世を去り、彼は残された妻、良子(高峰秀子)と息子の敏雄の父親代わりをすることになります。
そしていつしか彼は寡婦となった良子に密かに思いを寄せるようになっていました。
しかし、学校にも行ったこともなく字も読めない自分と良家の女性ではあまりに身分が違いすぎることを知っていた彼は、あくまで使用人の立場から出ず、家の仕事を手伝うことで家に出入りする生活を続けていきます。

時代は明治から大正へと移り変わり、敏雄は熊本の大学に入り、良子は一人暮らしをするようになります。
しかし、相変わらず彼は使用人として彼女の家に出入りするだけで、自分の思いを言い出すこともできず、彼女に似た女性が描かれたポスターを前に一人酒を飲む日々が続きました。

夏休みになり、敏雄は教授を連れて里帰りして来ました。先生に本物の祭り祇園太鼓を見せたいという敏雄のため、松五郎は自ら櫓に登り、バチを取りました。
離れ行く敏雄への愛着、良子夫人への思慕、複雑な想いをこめて打つ彼の太鼓の音は、聞く人々の心を打つ見事な祇園太鼓を演じてみせました。

数日後、松五郎は飄然(ひょうぜん:ふらりとやってくる)と吉岡家を訪れました。物言わぬ松五郎の目には涙があふれていました。

自分の想いに蓋をする事が出来なくなった時、『おれの心はきたない』の一言に、今迄閊えていた想いが体中から来る震えと共に吐き出されます。
それ以来、松五郎は夫人の前から姿を消してしまいました。

やがて松五郎は敏雄を連れて通った小学校の校庭に倒れていた。
そこには吉岡家からもらった祝儀の品々が手をつけず、敏雄と夫人宛の貯金通帳があった。
良子夫人は冷い亡きがらに取りすがって泣きくずれるのだった。

この映画は1958年(昭和33年)ヴェネチア国際映画祭・サン・マルコ金獅子賞作品です。
昨年、NHKBSシネマで放送された「山田洋次監督が選んだ日本の名作100本ー家族編」の中の一つとして放映され、ブルーレイに録画しておいたものを3カ月ほど前に観て、改めて松五郎の生き方に感動したものです。