らいちゃんの家庭菜園日記

家庭菜園、家庭果樹栽培及び雑学日記

沢庵禅師

2011-10-03 | 雑学

昔から日本の食卓に欠かすことのできない定番の食べ物である漬物。イモ類を除いて殆どの野菜は漬物にすることが出来ます。
日本の漬物で有名なものには、たくあん漬け、福神漬け、らっきょう漬けなどがありますが、全国各地には野沢菜など、その地方の特産野菜を用いた漬物がたくさんあります。

今日はその中から代表的な漬けものである「たくあん漬け」の考案者とも言われている沢庵禅師について調べました。

沢庵禅師(1573年12月24日~1646年1月27日)は安土桃山時代から江戸時代前期にかけての臨済宗の僧侶で、諱(いなみ)は宗彭(そうほう)です。
但馬国 出石(現在の兵庫県豊岡市出石町)に生まれ、諸大名の招請を断わり、大徳寺の首座や南宗寺の住持などに歴任し、1620年(元和6年)に郷里の出石に帰り、出石藩主・小出吉英が再興した宗鏡寺に庵(投淵軒)を結んだそうです。
紫衣(しえ)事件で出羽国に流罪となり、その後、赦免されて江戸に戻り、萬松山 東海寺を開きました。
書画・俳諧・茶に通じ、その書は茶道で珍重されたそうであり、多くの墨跡を残しています。

「沢庵漬名称発祥の地」の石碑が建っている「春雨庵」の入口です。(画像はいずれも2008年10月に撮影したものです)


沢庵禅師は後水尾天皇から、僧侶として最高の誉れである紫の衣を許されていましたが、寛永6年(1629年)の紫衣(しえ)事件で、幕府の怒りを買い、出羽国上ノ山(現在の山形県上山市)に流罪となりました。
その際、時の上山藩主、土岐頼行は、この沢庵禅師のために草庵を寄進し、禅師はこれを「春雨庵」と名付け、寛永9年間までの3年間を何不自由なく過ごしたということです。

・流刑の地、山形県上山市の「春雨庵」です。この建物は、原型をその遺跡に再建したもので、茶室が併設されています


沢庵禅師は漬物の沢庵(たくあん)を考案したことで知られていますが、剣の達人でもあったそうです。
彼は、「無心の剣法」というものを説きました。無心とは、何も考えずにぼんやりしていることではなく、「ひとつのことにとらわれない」という意味だそうです。

・春雨庵に安置されている沢庵禅師の像です。


(参考)
「紫衣(しえ)事件」
紫衣事件とは、1627年(寛永4年)将軍徳川家光の時、皇室から大徳寺・妙心寺の僧に賜った紫衣を幕府が法規を楯に奪い、今後は天皇に代わって幕府が許可を与え、命令に服さない者の紫衣の着用を禁止したことによって起こった事件です。
この命令に怒った沢庵は江戸に上り、大徳寺反対派をまとめて反対運動の先頭に立って、沢庵自らが書いた抗弁書(こうべんしょ)を幕府に出しましましたが、幕府はこれに怒り、中心人物である沢庵を羽州(山形県)上ノ山に流罪にしました。
なお、3年後には、2代将軍秀忠の死による大赦(たいしゃ)によって江戸に帰り、3代将軍家光が品川に4万坪の土地を与え、萬松山 東海寺を建ててその開山に沢庵禅師を迎えたと言われています。