退屈日記

とりあえず日々のつれづれを。

「消費の徹底=孤独=全体を見ないことあるいは無意味な戦争」について

2016-04-15 02:24:10 | Weblog
晴れ。日差しは熱く初夏のよう。

イーライ・パリサー
「閉じこもるインターネット グーグル・パーソナライズ・インターネット」を読む。

ネットの「フィルタリング」によって「個人の欲望の最適化」はできるものの
その結果人々はバラバラになり「バブル」に閉じ込められる。

「見たいもの」しか見ないことによって「世界」は単純化し
各地で何が起きていようとどうでもいいことになり。

「異なる意見を持つ者たちによる対話」によって「成熟」するはずの「民主主義」は
ほとんど機能しなくなる模様。

すでに情報に溺れる人々の「注意力」は散漫になる一方で
むしろ「情報の選択」をネットの機能にまかせる方がラクだったり。

「政治的でないこと」を標榜する技術者たちは「コードが法」であることに鈍感で
自らが造り上げるアーキテクチャーが人間に及ぼす影響を無視して。

もちろんわれわれはどんどん「退化」していくのだから
かつて持っていたさまざまな「能力」を失うだけ。

この「大転換」はどうやら
「ポイント・オブ・ノー・リターン=引き返せない場所」にまで来てしまったか。

仕事終わりに熊本の地震を知る。

TVは深夜まで「同じ映像」と「全体を見ない情報」を垂れ流している。
原発に影響がなかったのは「不幸中の幸い」と言うよりなく。

よくも悪くもわれわれはこうした土地に暮らしていて
「大災害」は必ずやってくるのが「前提」。

あらためてその「覚悟」の下に生きなければならない事実を受け止めるしかない。
ならば「どうやってそこから立ち直るのか」という「技術」こそを磨きたいもの。

とにもかくにも被災者が「元の生活」に戻れることを祈るのみ。
「明日は我が身」であることを忘れずに。

ルネ・クレマン「海の牙」(’47)を観る。

ここでも基本形式は「回想」。
敗戦間近ナチスドイツのUボートは帝国の復活を信じて南米へ向にかう。

イギリス軍の戦艦による機雷攻撃で負傷した将軍の愛人を手当てするため(アホか)
拉致されたフランス人医師は「用なし」にならないためあれこれ手を尽くすのだがというお話。

「人生模様」を描くのが得意な監督は
その舞台を戦争にしたら「微妙な」物語を作ってしまった感じ。

老舗バーのマスターは名作だと言っていたようだけれど
残念ながら「記憶違い」だと思うことにする。

もっとも「ある種の狂気」は描かれていて
「泥船」から逃げ出せなかった主人公が生き延びる「皮肉」を味わえばいいかも。

「思い込み」によって起きる「戦争」のバカバカしさも同様に。
コメント
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