退屈日記

とりあえず日々のつれづれを。

「算術の意味」について

2016-04-20 02:00:51 | Weblog
晴れ。やや風が吹く。

キース・デブリン「数学する本能」を読む。

「仕事でする計算」と「学校で習う計算」が違うものであること。
ブラジルの子どもたちがそのことを「証明」して。

「意味のある計算」と「そうでない計算」と言ってもいいのか。
ある種の「自己流」は「不器用」ながら「対応の柔軟性」を示すものらしい。

「何にでもどこでも使える」という「汎用性」は
むしろ「わかりにくいもの」だったりする模様。

「合理性」というものについてあらためて考えさせられた次第。
「生き延びるために必要」なのは案外前者なのかもしれない。

興味深いのは「わり算」や「分数」「小数」がわかりにくいこと。

「÷」という記号がそもそも分数のかたちを表していたり
「0.1」が「. 」を消して逆から読むと「10」になるから「10分の1」だと思えば案外易しい。

「0.24メートルのひもを0.06メートルずつ切り分けたらひもは何本できるか」がわかりにくければ
「0.24」や「0.06」の代わりに簡単な整数を使えばわかりやすくなるはず。

例えば「10メートルのひもを2メートルずつ」だとすれば
その式を「2÷10」とすることもなく。

2分の1という分数が「2÷1」ではないことがわかれば
「1÷2」とすればいいことも同様。

「わられる数」とか「わる数」という分類は結構わかりにくいもの。
「分数のわり算」が実は存在せず結局「かけ算」にすることしかないことなど。

味気ない計算もちょっとした工夫で「操作」が簡単になる。
その「当たり前」をもっとみんなが同じように知ることができれば。

「分数のたし算ひき算」において「なぜ分母が同じでなければならないのか」。
そこに「平等」という観点を加えてみたりすると「意味深」になったりしそう。
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