退屈日記

とりあえず日々のつれづれを。

「言葉遣いあるいは風変わりな人材の必要性」について

2016-04-12 02:59:52 | Weblog
晴れ。夜に手がかじかむほど冷える。

能町みね子「ドリカム層とモテない系」を読む。

「モテない系3部作」のうち2作を「制覇」することに。
「ですます」と「だ・よう」などがさまざまに混じった文章は面白い。

「勝手な分析」に関するふむふむ以上に
案外「品のいい文章」がポイントのような。

「自虐ぶり」が程よくいい「味付け」になっていて。
「ドリカム層=普通の女子」の生態もよくわかる内容。

ある種の「自意識過剰」がこうした作品を生み出すことになるなら
今後も大いにそのままでいていただきたいもの。

「プロ彼女」という造語による皮肉もなかなか。
中島みゆきのモノマネが得意なことに引っかければいかにもな「ひとり上手」でもある。

友人としては最適だが彼女としてはややこしい。
あらためて「興味深い存在」だと思った次第。

さて。

唐突に「ヤンキーはなぜ言語によるコミュニケーションを嫌うのか」。

基本は両親あるいは学校の教師らの使うそれらが
彼ら彼女らにとって「抑圧的もしくは意味不明」でしかなかったからだろう。

もっとも一見複雑そうで「正論」に見える言葉遣いが
実は「夜露死苦」とあまり大差ないものだとあるのだとわかれば少しは変わるかも。

時代を問わず「若者言葉」が現れることを思えば
「支配的な言語に対するささやかな抵抗」はむしろ「言語への愛着」を物語り。

キラキラネームもその「証拠」のひとつ。
それがいかに別方面から「ダサい」と思われようと彼ら彼女らは「主張」を続け。

要は。

「安心して暮らせる空間の少なさ」が基本にあるのではないか。
郊外にありがちな「過剰な生真面目さ」がもたらす息苦しさも含めて。

ひとつハッキリしているのは「文化的資本の貧しさ」。
残念ながら「カッコイイ」と思う対象の種類が少なすぎるのだ。

周囲にそうした「豊かさ」がなければ人は簡単に身近なものに飛び付く。
家族以外の「風変わりな人物の必要性」がここで浮かび上がる仕組み。

「教育のための資源」はその一点に尽きると言ってもいいほど。
ただしそうした「人材」は「普通の教育」からは生まれないのでご用心。
コメント
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