退屈日記

とりあえず日々のつれづれを。

「地位と財を得るもしくは維持するために『古典』を歪める者たちの貧しさと種類を問わず『組織は隠蔽する』事実あるいは記録=公文書が『財産』であることについて

2020-05-14 01:26:07 | Weblog
晴れ。風強し。

宮崎学「『自己啓発病』社会」を再読。

「地位と財を得る競争に勝つためには他人を蹴落としてでも前に進め」
著者はそれが「差別化」の意味だと言う。

3.11のおよそ一年後に書かれた作品の「まえがき」の中で
「必要なのは『総合扶助』であって『差別化』などという矮小な精神ではない」とも。

「談合」をなくしたせいで東北の中小建設業が軒並みつぶれた結果
被災者たちを一時的に建設業に「吸収する」のも不可能になったという指摘よ。

英国の作家スマイルズの「自助論」がいかに歪められたのかという指摘と同時に
「自助論そのものの限界」を指摘するのが好ましい。

そもそも中村正直が「西国立志編 原名自助論」を出したのは明治四年。
当時の考え方が現代の状況に当てはまるはずもなく。

「古典」を都合よく歪曲して自らの「正当性」を担保するやり口はいかにも「下賤」。
そうした「専門家たち」にいつまでも騙され続けるわれわれの愚も忘れずに。

トム・マッカーシー「スポットライト 世紀のスクープ」(’15)を再見。

カトリック司祭による児童の性的虐待の事実を
教会や地元名士らの隠蔽を撥ねのけ明らかにした「ボストン・グローブ」の実話。

「よそ者」が「変人扱い」されるものの「事実を知っていること」に注目しよう。
「『小さな町』の平和」がどのように維持されているのかについても。

「そもそも不可能な禁欲」がもたらした現実だということも同様に。
種類を問わず「組織は不都合を隠蔽する」。

翻ってわが国では。

敗戦直前直後にはあらゆる書類が燃やされ。
「歴史の審判に委ねる姿勢」など欠片もなく。

残念ながらそれはいまだに続いていて。
首相を「忖度」した「書類の書き換え」さえある次第。

「公文書」は「国民の財産」だという視点が全く欠けている模様。
何が行われどう間違えたのかを知るために必要だというのに。

「記録」があるからこそ後世の人間はそれを参考に「未来」を描ける。
その重要さをもっと知っておかないとどうにも。

「過ちを犯した自分の隠蔽」が優先されるその姿勢は
「今の自分さえよければいい」という「貧しさ」ゆえ。

どんな職業においても同じこと。
「志のない者」は「なってはいけない」。
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