退屈日記

とりあえず日々のつれづれを。

「思いがけない『市内の自然』と読み落とした作品あるいはウクライナが『正しい』わけではないことと予想通りの出来の映画」について

2022-03-28 02:26:59 | Weblog
快晴。やや風が吹く。

上の妹の要望に従い桜を観ることに。

市内にも水のキレイな場所があることをあらためて。
シロサギやカモあるいは魚の姿も確認する。

何枚か写真も撮ったけれど。
周囲の建物を入れないようにする角度のみ。

弁当持参で来ている人々も。
こういう場所があるのはありがたいこと。

小林信彦「テレビの黄金時代」を読む。

かの作家の作品はあれこれ読んだつもりだったのだけれど。
おそらく本作は「初めて」。

「断簡零墨」に読み落としがあったということで。
印象に残るのは井原高忠と渡辺晋の「対立」。

「驕り」のあった後者に前者が「反抗」した結果。
元々は「バンド仲間」だったりしたのに。

さまざまな人間関係がもたらすものよ。
「観察者」としての著者の著述ぶりは今にして思えば相当に「硬い」。

マル激を観る。

昨日はなぜか観るのを忘れ。
「日常生活」についてはほぼ「条件反射」で暮らしているので。

ちょいと違うパターンを過ごすと「当たり前」が抜け落ちる次第。
「老人力」の更新中ということでよろしく。

「ロシア専門家」の河東哲夫の視点にふむふむ。
ウクライナが「犠牲者」であるだけではないという指摘を忘れずに。

かの国を牛耳っているのは「オリガルヒ=財閥=マフィア」で。
ゼレンスキーの「演技」やメディア絡みの関係者が「現実」を「粉飾」していたり。

わが国の「『最高機関』にいる政治家たち」が「国のために死ぬこと」を持ち上げる姿も。
この「アナクロぶり」たるや。

プーチンが実は追い詰められていてある種の「歴史観」にすがっているのかもしれないこと。
政敵を殺してきた人物が「まともな最期」を迎えられるはずもなく。

「気候変動」という「人類平等の危機」が迫っているのにこの始末。
繰り変えすが若者たちはもっと「怒っていい」。

井田探「銀座の次郎長 天下の一大事」(’63)を観る。

監督のダメさを確認するために観た次第。
前作よりさらに劣化しているのは予想通り。

今回のゲストは畠山みどり。
ビルの屋上での祭りにちょっとだけ出る。

坊屋三郎の姿はむしろ「哀しく」。
市川好郎の若き日の姿がなかなか。

中村是好と桂小金治の「オヤジぶり」も今となっては何だか。
井上昭文の存在がわかりにくく。

武智豊子も初井言栄も「魅力」を発揮しようがないままに。
野呂圭介についても同様に。

「小さな親切運動」とやらがかつてあったことは覚えておこう。
いずれ「インチキ臭い」とはいえ。

「アキラの映画」でも「駄作」はあるということで。
「素材」がいかに素晴らしくても「料理」の仕方で「死ぬ」ことを覚えておこう。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 「肩すかしでありつつ次に期... | トップ | 「魅力的な本と『まだ貧しさ... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

Weblog」カテゴリの最新記事