退屈日記

とりあえず日々のつれづれを。

「セックスを装った『コミュニケーション問題』あるいは『現在の苦境』がいたずらに過去を輝かせること」について

2020-06-29 02:27:32 | Weblog
晴れ。だったはず。

朝日新聞「女子組」取材班「オトナの保健室」を読む。

副題に「セックスと格闘する女たち」。
ただしどうやらこれは「コミュニケーション問題」のような。

それぞれに「自分の正しさ」がある一方。
なぜかそれらを「互いにぶつけ合わない」かたちが「普通」のようで。

とてもこれは「オトナ」とは言えない内容。
われわれが「子ども」であることが浮き彫りに。

「相手とまともに向き合えない姿」がここにも。
「成育歴」が大いに影響することも覚えておこう。

「他人を知ることの難しさ」をあらためて。
物理的な距離が近くなるほど「自分の当然」を相手が知っていると思う錯覚も忘れずに。

自分以外はすべて「他人」。
だから「事情」を話さなければ相手には伝わりようもないことがしばしば。

ちょいと考えてみれば「当然の事実」を行えないわれわれの愚かしさよ。
自らの「過去の愚行」を思い出すと舌を噛んで死にたくなったり。

シルヴェスター・スタローン「ランボー 最後の戦場」(’08)を観る。

「ミャンマーのカレン族に対する言語道断な扱い」への「ささやかな抵抗」。
「西部劇」が問答無用に「可能」な時代を思わせる内容。

アメリカが表向きには「世界の警察」だった時代のような。
実にシンプルな「善と悪との戦いぶり」。

もちろん「勧善懲悪」はあっていい。
むしろその「基本」がなければすべてがうやむやになるだけ。

子どもの頃からいたずらに「悩む」のではどうしようもなく。
やがて「現実の複雑さ」を知ってどう動くのかは自分次第で。

覚えておきたいのは「過去の常識」が「現在」からすると常に疑問であること。
そして多少なりとも「賢くなった」つもりがそうでもないことについて。

われわれの「学習能力」などたかが知れていることを思えば。
ランボーは最後に「故郷」に戻るのだけれど。

そもそも「戻るべき故郷」などないのが事実。
「現在の苦境」がいたずらに「過去」を輝かせるのみ。
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