地球散歩

地球は広いようで狭い。言葉は違うようで似ている。人生は長いようで短い。一度しかない人生面白おかしく歩いてしまおう。

2008-05-08 00:00:00 | アラビア語(エジプト)

 جبل(ジャバル)

 写真の山は、エジプト、バハレイヤオアシスにある、黒砂漠の黒い砂山である。

 エジプトの山と言えばシナイ山である。モーゼ十戒を受けたという山。

 ご来光を見る為に登る観光客が多い。たいていは2時ごろ起き、麓まで行くと、らくだ屋が待っているので、らくだに乗って山を登る。漆黒の闇で、視界はほとんどきかない。

 ご来光を見ている人が面白い。キリスト教徒は感無量といった感じである。キリスト教徒といっても人種は様々。偏見と言われそうだが、韓国人の熱心なキリスト教徒の団体が沢山来ている。彼らの感動する姿に、同じアジア的な近しい血を持つ日本人には、ちょっと変な感じを覚える。
 キリスト教徒イコール金髪碧眼ではないのだが。
 逆に、エジプトイコール暑い国という思い込みで、タンクトップにホットパンツの、アメリカ人が、ヒルトンなどのロゴが入ったバスローブを着て、震え上がっているさまは、神々しい場所にいるというより、我慢大会の会場である。
 エジプトと言えど、明け方の山は夏であっても冷え込む。
 日本人はどうしているかというと、これまた面白いことに、拍手を打ったり、祈ったりする姿が見られる。

 いろんな宗教の人が、絶壁の山頂で同じ太陽を見ながら、いろんな神様に祈っている場所は、そう多くないだろう。
 そして、そのことを問題視する人はいない。
 これこそが真の宗教であり、信仰なのではないかと思う光景がある。
人々が、自分の信じたい神を信じて祈り、周りの人の信じたい神に祈ることを受け入れられる空間。

 「だから、唯一神アッラーは、真に偉大なリ」と言う声が聞こえてきそうである。
 クルアーン(コーラン)には山の章(第52章)がある。
 第一節に「かの山にかけて」とある。
 かの山とは、シナイ山だという。
 クルアーンに出てくる名前がない、ただ「山」と言う記述があった場合で、特定の山を意味する場合、それはシナイ山である。
 知らせの章(第78章第6-7節)に出てくる、「アッラーは人が安らかに生活できるように、大地をゆりかごにしてやった。砂漠では、天幕をを張るとき、杭でしっかりとつなぎとめることから、大地がぐらつかないように、山々が、杭になるようにした」と書いてある。
 クルアーンは、読み物として読んで面白いが、この章は詩的で美しい。(イスラームにとって、アラビア語以外のクルアーンは、解釈や読み物という概念なので、宗教書硬く考えずに、長屋のご隠居がクマさんたちに、物の道理や説教をした世話話のようなものと考えて手にとって見ることをお薦めする)
 断崖絶壁の山頂から、下界を見下ろした時のことを思い出した。まさしく、大地にしっかりと突き刺さっている杭をイメージすることは可能である。
 山は杭であるという記述に関して、類似の記事がないかチェックしていたところ、
興味深いサイトを発見した。山々が杭であると言うのを、科学的に証明したと言う記事である。私は異教徒であるが、こちらはイスラームの方々のサイトである。
 イスラーム世界の山は、総じて荒涼とした感じで、木々が生い茂るイメージはない。しかし、山ごもりをしていた時、預言者ムハンマドは最初の啓示を受けたと言う。
 山は神秘な処。神いずる処というのは、世界共通のようである。[a]

ギリシャはもちろん神話の山
日本も当然山岳信仰、富士の山

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12 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
yuuさん ()
2008-05-11 21:21:29
道、雪、散歩の記事で、砂漠の写真を載せています。バハレイヤで砂漠ツアーに参加すると、今回の景色→道→雪で使った写真の順でまわることになります。
いつかyuuさんも行ってみてくださいね。
また新たな感動を得ること間違いなしです。
今回の写真評判が良くて嬉しいです。
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感動! (yuu)
2008-05-10 23:59:34
ああ…
やっぱり、景色は言葉を超えますね。
エジプト、私にとっては今までで一番ディープな経験をさせてくれた場所。
景色と共に、格別の思い出が蘇ります^^
碧さん、素敵なお写真を本当にありがとう☆☆

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kiwidinokさん ()
2008-05-10 20:53:40
いえいえ、こちらこそ。知っているとは恐ろしいことで、「誰でも知っている」とか、「当たり前」と思ってしまうことがあります。
バハレイヤはリビア寄りです。そしてシナイ山はシナイ半島。誰にでもわかるだろうという私の思い込みです。
恐らく他にも、この黒山をシナイ山と思った人はいると思います。
これからも感じたこと、思ったことをコメントしていただけたら幸いです。
みんなで歩く地球散歩ですから!
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Unknown (kiwidinok)
2008-05-10 03:07:26
すみません。冒頭の一節はシナイ山を表現する為の序文だと思ってしまいました。私がそういう書き方をするタチなので... 大きな勘違いでしたね(笑)
ご丁寧にリンクをつけてくださって、ありがとうございます。

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kiwidinokさん ()
2008-05-09 21:40:48
はじめまして!素敵なブログをお持ちですね。私もガラスで遊んでみたいです。
さて、ゴメンナサイ!冒頭に書きましたように、この写真はバハレイヤオアシスの砂山で、シナイ山ではありません。ぜんぜん違うのです。私の写真が今UPでできないのでよそ様のサイトですが、http://www.photomediaservice.com/sinai/
こちらで美しい写真を見ることが出来ます。
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オルサさん ()
2008-05-09 21:25:26
いやいや、実にラクダの姿を見て、車を止めてもらいました。
ラクダに「止まって~!」と、叫んだのですが、間に合わず…私の予定では、ラクダが右端から、歩いてくるところを撮りたかったのですがねぇ
ラクダって、結構早いのですよ(笑)
アラビア語の写真はほとんどエジプトのもです。
シナイ山、私はマンウオッチングに忙しくて、完全に俗世の人間でした(爆笑)
この写真と対になっているのが、アラビア語の雪の写真。白砂漠。ここでこそ、神秘体験が出来るのではと思います。
私も教会やモスクでは神秘体験、ないです。
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モーセの旅 (kiwidinok)
2008-05-09 02:23:06
はじめまして、碧さん。
長いこと聖書を勉強していたのに、シナイ山の写真を見るのは初めてで、とても感動しています。このお写真を見た瞬間、頭の中には、モーセが神に祈っている姿と、信仰が薄い人々の狂乱振りが同時に浮かびました。
また、山は杭であるということについても、大変興味深く読ませていただきました。

富士山には桜と湖、シナイ山にはラクダと砂漠が、やはり一番似合いますね。
逆光でラクダがシルエットのようになっていて、影が落ちているのも、ラクダの背に乗った荷物の色も、非常にしっくりきます。
これ以上無いという構図の、素晴らしいお写真を見せていただいて、本当にありがとうございました。
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神を感じる場所 (オルサ)
2008-05-09 00:02:59
この写真、すばらしい!被写体が古代エジプトの遺跡ではないエジプトの風景写真はほぼ初めて、山の写真は初めてです。

海外で神を感じる場所。私にとっては教会やモスクではなく、それは圧倒的に野外で、虹であったり雲間から差し込む一条の光であったり…、そういった自然現象にしばしば「神」を感じます。登山をし、ご来光を拝んだ経験が一度も無いのであくまでも想像ですが、シナイ山の山頂から太陽を見ることができたなら、もしかすると人生観や世界観が変わるかもしれません。
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Erva Vitaさん ()
2008-05-08 23:23:27
なんだか近くにいらっしゃるのが不思議です。
さらさと彼の地を、東京の空の下で懐かしんでいただけたら…
不思議ですね。富士山、海外に出ると、日本の山だと、意識しますね。
家からはいつの間にか見えなくなってしまいました。
♪いらかの上に富士は~♪という校歌を唄っていたころ、見えて当たり前の山でした。
ギリシャの山はどうなったのでしょうね?心配です。そして、日本の山も。大事にしたいですね。
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綺麗な写真ですねー (Erva Vita)
2008-05-08 23:05:17
日本へ帰ってきて落ち込んでいたときにふと目の前をみたら富士山が姿大きく見えたんですよ。
もちろんココは、東京。富士からは、とおいはずなのに
電車の中から見えたその富士は、落ち込んでいる私に力を与えてくれました。
自然は、大事にしないといけません。
ギリシャの聖なる山々は、山火事で燃えつくされその後、どうなってしまったのでしょーねー。
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がんさん ()
2008-05-08 22:08:22
山は天候が変わりやすいのですが、なかなか朝晩にまで気が回らないものですよね。
人間の考えることは、どこも同じですね。
シナイ山の近く、シナイ半島の突端は国際和平会談をしているところです。
ご来光をみんなで拝む姿、世界中の人が望む姿だと思うのですが…
山はすばらしい。日本の山も大事にしたいですね。
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山は侮れませんね (がんさん@大和の国)
2008-05-08 08:53:43
昨年の夏休みに上高地へ行った折、防寒のためにホテルでポンチョを借りて早朝の散策を楽しんでいたら、バスツアーとおぼしき団体。
暑い街中からそのまま夜通し走って来たためか、半袖のTシャツに短パン姿。
寒そうに手をポケットに突っ込んで、肩をすぼめて歩いていたのを想い出しました。(昼間はその恰好で丁度良いのですけどね)
それにしても、洋の東西を問わず、ご来光を拝むというのはあるんですね。
心の拠り所というか、安心できるものを求める気持ちは皆同じなんですね。
ひとつの山に登って、それぞれが自分の信じる神に祈りを捧げている様子を想像すると、不思議な感じがします。
大和の国には高い山はそう多くはありませんが、神が棲む、或いは神が降り立ったと伝えられる山は沢山あって、やはり神々しさを感じます。
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