地球散歩

地球は広いようで狭い。言葉は違うようで似ている。人生は長いようで短い。一度しかない人生面白おかしく歩いてしまおう。

スウィーツ

2008-11-27 23:00:56 | アラビア語(エジプト)

 حلاوة(ハラーワ)

 アラブ菓子というものは、アラブのどこへ行ってもあまり代わり映えがしない。
 もっと言ってしまえば、イスラームの息のかかったところのお菓子は、ギリシャやスペインでも同じ物を見る。
 さらさが「あ~!ギリシャのお菓子がある!」と、懐かしがっていると、妙な感じである。同じものを見て、私は「エジプト菓子だ!」と感じ、mitraは「トルコ菓子だ!」と感じている。
 アラブ料理において、砂糖を調味料に使うということはない。甘いものの摂取は、お茶類とお菓子に限られる。
 そのせいかどうかは定かでないが、とにかく甘い。脳天に突き刺さる甘さとは、このことか!と実感する甘さである。
 スポンジのケーキもあるが、セモリナ粉、パイ生地、米と砂糖の組み合わせが基本である。
 スペインのスイーツで有名なチュロスも、本をただせばアラブのお菓子である。もっとも長さは、長くても15センチくらいで、太いのが一般的である。そして、たっぷりと砂糖の衣がつけられているか、シロップ漬になっている。
 木の実も良く使われ、ナツメヤシの餡やピスタチオテイストは、きらいな人がいないと思われる。
 日本のお菓子にそっくりな、ゴマがたくさん入ったおこしや、ちとせあめみたいなキャンディもある。干したナツメヤシは、干し柿みたいでトロッとした甘さに、中に入ったアーモンドやピーナツがたまらない。
 砂糖のシロップ味が多いが、チョコレートや、蜂蜜味も大好き。
 口説き文句でも「君はハラーワのように甘くて甘くて、僕は溶けてしまいそうだ」といったりする。ハラーワには、魅力、優雅という意味も含まれているので、最高の口説き文句である。しかし、しっかりしているエジプトの女の子達は「どうもありがとう!それで、住む家はどこ?お部屋は3LDKぐらいないと嫌よ」と、上手に切り返すので、しょっぱい水をお礼にもらう殿方もいるそうである。[a]

 あまりの甘さに耐えかねて、頭をピシピシ!クリッックもパシパシお願いね~
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2008-11-25 00:07:22 | つれづれ帳

oiţe(オイツェ・ルーマニア語)


伝説が息づくルーマニア。「森の彼方の国」トランシルヴァニア地方から、樅の木が鬱蒼と茂るカルパチア山脈を越え、さらに列車は北へと向かう。車窓からは春の花に覆われた小高い丘が次々に流れ込んでくる。ところどころに高く積まれた干草の匂い。木々の淡い萌黄色。そして、春を迎え放牧を始めたばかりの羊たちの群れ。牧羊犬の咆哮が、遥か遠くから耳に届く。目にする全てが淡い匂いと光を伴って届いてくる。

ルーマニア北部に残る秘境、マラムレシュ地方。童話の世界の衣装を着た人々が、木造の教会から顔を覗かせる。ここでは人々の暮らしは羊と共にある。雪に固く閉ざされた冬を越え、北の大地が若草色に芽吹く頃、人々は放牧の始まりを祝い、男たちは羊を連れ森へ向かう。野は祝祭と羊で溢れ返る。この地では、人が自然との親和性を実感し大地と溶け合う瞬間、辺りは喜びの歌に包まれる。春から冬へ。生から死へ。ルーマニアの人々の暮らしは、豊かなフォークロール(民謡)やバラーダ(即興叙事詩)と共にある。

「バラーダ」の中でも、ルーマニア国民に最も愛され馴染みのあるのが「ミオリッツァ」だという。「ミオリッツァ」とは、ルーマニア語で雌羊のこと。異国の牧童の裏切りを受け、自らが殺められる運命にあることを千里眼のミオリッツァから知らされた羊飼いが、「死」を自然との「婚礼」に喩え、来たるべき死と運命を静かに受け入れる。美しく静謐なその詩篇からは、ルーマニアの丘や谷、木々や花々、澄んだ星空、そしてルーマニアの人々の精神性が自ずと浮かび上がってくる。

ルーマニアの国民的作曲家キプリアン・ポルンベスクの「望郷のバラード」を横糸に、激動のルーマニア革命を情緒豊かに、情熱的に、壮大なスケールで描いた高樹のぶ子氏の作品『百年の預言』の中で、この詩は物語の大きな鍵となっている。
ある登場人物が死の直前にミオリッツァの一節を口ずさむシーンがある。作中、歴史に翻弄され死へと導かれた女が呟いたミオリッツァの詩篇の底流には、崇高な魂が奏でる旋律が流れていた。


幻想小説を数多く残したルーマニアの偉大な宗教学者ミルチャ・エリアーデ。彼の長編小説『妖精たちの夜』の中でもやはり、主人公が死の間際にミオリッツァを朗誦していたように記憶する。
ルーマニアの大地が抱える自然を目の当たりにすると、「俗」の中に顕現する「聖」をとらえたエリアーデの作品群が、より鮮明な「色」を伴って響いてくる。そして、生と死は円環しているものだと実感する。

ルーマニアの人々はキリスト教世界にありながら、「死」を自然との交歓と捉えているのだろうか。あたかも死は、一種の情熱を持って向かっていくべき魂の故郷であるかのように。

マラムレシュの田舎の暮らし、羊たちの歌、雪が残る深緑色の森。そして、その森を彷徨う哀調の旋律。その素朴で優しげな生は、時に情熱を秘めた死の香を伴って立ち上ってくる。(m)


アラビア語英語ギリシャ語スペイン語 、ペルシャ語日本語 の羊。最後まで読んでくださった皆さんに、mulţumesc!(ムルツメスク!:ありがとう!)写真はマラムレシュ、初春の田舎の風景。望郷のバラード。ヴァイオリンの旋律に乗せて・・・漂うようにクリックをお願い!人気blogランキングへ 


2008-11-21 12:04:40 | 沖縄方言

シシ(肉・沖縄方言)

 ボスニアの羊の丸焼きやイランの羊の頭と足を煮込んだスープの話題は、きれいににパック詰めされた肉、それも限られた部分だけを調理する日本人には驚きの食文化であろう。私の住んでいたギリシャでも市場に皮を剥いだ一頭の羊がぶら下がるし、冬になると旬のウサギがしっぽの毛をフサフサと残したまま並び、初めは目を丸くすることばかりであった。

 沖縄には似たような市場の光景がある。「鳴き声以外捨てるところがない」と言われる豚肉売り場には、ラフテー(三枚肉)やソーキ(骨付きアバラ肉)、顔、耳肉から豚足、内臓まで、本土では決して見ることのできない様々な豚の部位が並んでいるのだ。

 短い旅の中で食すことができたのはラフテーやソーキという比較的馴染みのあるもの。鰹だしに醤油、沖縄らしく黒砂糖や泡盛を入れて十分に煮込んであり、どちらも箸がすっと通って口のなかでとろける美味しさである。変わったところではミミガー(耳肉)を茹でたものを細く切って酢味噌で和えたもの。おそるおそる口にしたが、コリコリとした食感で問題なくいただけた。

 うちなーぐち(沖縄方言)の本に豚肉の部位を詳細に記したページがあるように、食文化の本には様々な料理が記されている。例えばコラーゲンたっぷりの足は鰹節と昆布、大根と煮込む「アシティビチ」で、専門店があるくらい人気があるそうだ。他、内臓の吸い物「ナカミー」や三枚肉と野菜、血を炒め物にした「血イリチー」など沖縄を知るために次回は是非トライしてみたいものが色々。このように余すところなく食すことで、命をいただいているという感謝の気持ちが自然にわいてくるような気がする。

 王朝時代に中国から豚肉が持ち込まれたのは15世紀の初め頃。全土に広がったのは1605年に甘藷が同じく中国から入ってきた後、イモの皮を餌として与えて飼育が可能になった頃から。明治13年には5万頭以上の豚の飼育が記録されているというから、本土よりもずっと早く肉食の習慣が始まっていたといえる。消費量も本土とは比べものにならないくらい多い。沖縄が異文化であることを強く感じるのは食に関しても同じ、やはり琉球王国なのである。(さ)

 いつもありがとう・ニフェーデービル!

肉をめぐる地球散歩のメニューはイタリア英語ギリシャスペインポルトガルアラビア語と取りそろえておりますので、ご注文ください!食後はクリックをよろしくね。人気blogランキングへ


2008-11-17 00:06:39 | つれづれ帳

meso(メソ・ボスニア語)

前回・前々回、スペインの羊祭、イランの羊料理と、連続で「羊」が登場した。羊繋がりということで今回も羊の丸焼きの写真を登場させるが、「散歩」先は『地球散歩』初、ボスニア・ヘルツェゴヴィナに飛ぶ。写真は、クロアチアの景勝地ドゥブロヴニクからボスニアの首都サラエヴォへ向かう道中、山間のレストランで撮影したもの。

ボスニア・ヘルツェゴヴィナと聞いて、この国のイメージを即座に思い浮かべることが出来る人は殆どいないだろうと思う。
しかし、彼の地が「かつてはオスマントルコの領土であった
と言ったらどうだろうか。トルコが如何なる文化を持つ国か想像できる人は、決して少なくはないだろう。

バルカン半島に位置し、古くから様々な民族が行き交い人種の坩堝であったボスニア・ヘルツェゴヴィナでは、人々の顔立ちや宗教と同様に、食べ物にも混淆の痕がくっきりと刻まれている。中でもオスマントルコが残した痕跡は多大なものだ。以前、トルコ語の「
コーヒー」の記事でも書いたが、巨大帝国がかつての支配地に残した文化の跡は、口にするものに多く残されている。この地に住む人々の多くがムスリムだということも理由のひとつであろうが、ボスニア料理の中にはトルコ的要素が多く見られる・・・どころか、トルコ料理そのものだと言っても過言ではない気がする。彼の地を「散歩」中、トルコ料理、中でもオスマン朝の宮廷料理の名残を、私の舌はしっかりと記憶した。

さて、今回は「肉」がお題なので、ボスニアの代表的な肉料理をふたつご紹介しよう。そのひとつは「チェバブチッチ」だ。チェバブチッチは、「小さなケバブ」のことであろう。しかし、トルコのシシケバブに代表される串焼き肉とは形状が違い、どちらかというとキョフテに近く、棒状の肉団子という感じである。これをナーンのような薄めのパンに挟んで食べるわけだが、その時にヨーグルトドリンクと一緒に食すのが習慣であるところも、いかにもトルコ的だ。
もうひとつは「ブーレク」という料理。ボスニアではパイ生地で挽肉や玉ねぎを包み、それを鉄板で焼いたものを指すが、この料理に似たものが、これまたかつてオスマン朝の領土であったチュニジアに「ブリック」という名称で存在する。チュニジアでは、薄い春巻きの皮のようなもので、肉ではなくツナやジャガイモなどを包んで揚げたもののことだが、これらふたつの料理が元々同根であることは、「ブーレク」「ブリック」という名称からも明らかだ。

以前、『見ることの塩』(四方田犬彦氏のパレスチナ・セルビア紀行)という本を読んだが、その中に「ブーレカを食べる人々」という章があった。氏は、かつてオスマントルコが支配したふたつの地に「ブーレカ」という料理として残る、同王朝の文化的痕跡について述べている。「ブーレカ」は勿論ボスニアの「ブーレク」と同じものである。

歴史を振り返る時、強国の支配という事実からしばし目を離し、複雑に交じり合った文化の根底に多様性を発見した時の喜びは大きい。中でも文化の混淆の跡を色濃く見ることができるもののひとつは、料理。舌や鼻腔に残る記憶は強烈である。更にそれが美味しければ言うことはない!料理を巡るあれこれの旅は今後も続いていきそうだ。(m)

長い文章を読んでくださってhvala vam!(Thank you!)
『地球散歩』の食べ物を巡る旅はまだまだ続きます。
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2008-11-13 17:52:32 | ペルシャ語

گوشت (グーシュト)

イスラームの国では大抵そうだと思うが、市場の一隅にある肉屋の風景は、いささかショッキングだ。上の写真のように、イランのバーザールの軒先には羊の頭がドンと置かれていることがある。しかもこの写真の羊、歯を剥き出しにして、まるで笑っているかのように見えるではないか!その正面には切り取られた足が、あたかも羊に向かって、「あなたの一部ですよ」と言わんばかりに並べられている。

かつて私が訪れたイスラームの国々では、屠られ皮をきれいに剥がれたハラールの羊が、足首を縛られ丸ごと軒下に吊り下げられている光景を幾度となく目にした。
以前
アラビア語の「肉」でも書いていたが、大抵これらは防腐剤の毒々しい赤で全身を染められている。あるアラブの国に通い続ける友人の話では、市場で買ってきた肉を茹でると、鍋の中の湯がまるで地獄のように赤く泡立つ・・・というものだから驚いた。

さて、上の羊の写真に話は戻るが、イランでは、羊の頭と足を使った有名な料理が存在する。その名も「キャッレ・パーチェ」といい、訳すと「頭と足」。そのまんまの名前である。イランの街角にはこの羊肉料理を専門とする「キャッレ・パーチェ屋」があり、テイクアウトも可能。イラン人の日常の会話には、「あそこのキャッレ・パーチェ屋が美味しい」「いや、あそこの方がいい」といったものがしばしば登場する。それだけ人気料理だということなのだろうが、見かけがなんともグロテスクで、私はまだ食す勇気がない一品なのだ。

キャッレ・パーチェ屋に入ると、備え付けの大きな鍋で、たっぷりのスープが熱々の湯気を立てているのが目に入る。冬の寒い日などには食欲をそそられる光景だ。しかしその鍋の淵には、例の頭丸ごとの「笑う」羊とその足が、ずらりと並べられているのだ。羊たちはグツグツととろける様に柔らかくなるまで煮詰められ、テーブルに並ぶ時には、その頭をぐちゃぐちゃにほぐして給仕されるのだろうが、羊のあの無邪気な目に見つめられた後では、どうにも食欲をなくしてしまうのだ。味付けはいたってシンプルで、羊で出汁をとり、後は塩・胡椒のみ。

しかし、イラン通の日本人たちは、一度食べたら病みつきになると口を揃えて言う。
しかもキャッレ・パーチェは大抵朝食に食べるものなのだとか。日本人が朝ごはんに焼き魚を食べるという習慣も、外国人から見たら相当奇異に映るかもしれないが、羊の頭(脳ミソ入り)を朝御飯に、というのも、日本人の私から見たらなかなか勇気がいる決断だ。
グルメの方は一度イランを訪れ朝食にキャッレ・パーチェを食してみては如何でしょう。(m)

*他にもイタリアのプロシュート、英語のスラングのミート、ギリシャの串焼き肉、スペインのハモン・セラーノ、大航海時代の始まりを告げたポルトガルの肉など、『地球散歩』には肉料理が盛りだくさん!
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2008-11-09 21:31:33 | スペイン語

 oveja(オベハ)

 さて、今年も羊の季節がマドリードにやってきた。
 実は今年の羊にあわせてこの記事をUPする予定であったが、どうにもこうにも、いつ行われるかを調べ切れなかった。
 マドリードが羊で埋め尽くされる日が毎年あるという。今年は10月の26日だったようだ。
 「スペインと羊」と言っても、ぴんと来る人は少ないかもしれない。
 ナバーラや、バスクの北スペインに残る先史時代からの話には、森の神バシャハウンが登場する。女神が多い中で、唯一の男神、森の奥深くに住み、全身毛むくじゃらだという。羊飼いから羊をさらい、その乳を飲んで暮らしている。嵐が迫ってくると大声で羊飼いに知らせ羊を集められるようにすることから、羊の群れの神様として崇められている。

  また。南からは遊牧民であるイスラーム教徒も羊を持ち込んだので、スペインでウール産業が飛躍的に伸びたのは自然の流れといえる。

 編み物をしたり、ウール製品が大好きな人は聞いた事があると思うが、メリノ・ウールの発祥はスペインである。いまや、オーストラリアで放牧されている画像が、多くの人の脳に焼き付いていると思うが、スペインからオーストラリアへたどり着いた8頭の羊が、まるで大地に雲が広がったのかと思えるまでに増えたのである。
 イスラームのヨーロッパへの玄関口、スペイン。元来持つ羊文化に、北アフリカからやってきた羊毛文化、ローマ帝国の技術が合わさり誕生したのが、真っ白でやわらかい羊毛、メリノ・ウール。
 スペイン大航海時代の巨万の富は、このメリノ・ウールによってもたらされた。コロンブスの新大陸発見の影に羊あり。
 さて、スペインはイスラーム統治時代があり、その間に広く牧畜が行われた。パウル・コエーリョの『アルケミスト』を読んだ事のある人は、思い出してほしい。主人公が羊を連れて歩き回ると言うくだりを。
 スペインの羊の飼い方は、羊を連れて歩く、「移牧」である。季節ごとに移動する、羊の道がスペインにはたくさんあるが、近年は都市開発が進み、この道も失われつつある。
 そこで1994年から、移牧の祭りが復活し、羊たちは歩く権利を主張するために、堂々とマドリードの幹線道路を横断すると言う。昨年は、有力紙EL PAISによると、数千頭の羊がマジョール通り、プエルタ・デ・ソル、アルカラ通り、シベーレス通り、プエルタ・デ・アルカラを抜け、カサ・デ・カンポへと大行進したと言う。今年も然り。
 日本人にも人気が出そうな祭だと思うが、日本では知られていない。
 実際の様子はぜひ動画でご覧いただきたい。[a]
 そして写真も…。(EL PAIS)

 聖書の羊イランへ 復活祭の羊ギリシャへ 出エジプト記エジプトへ
迷える羊英語、シルクロードを通って日本へも…ああ、とうとう1000頭…

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※この写真はmitra@アンダルシア

 


2008-11-05 16:27:04 | ペルシャ語

کوه(クーフ)

イランの風土を思い浮かべる時、砂を孕んだ風が吹き過ぎる沙漠性の乾いた大地が自ずと脳裏に浮かぶ。同時に、4,5000m級の山々が連なる雄大で起伏に富んだ風景をも思い描く。
イランの国土を北西から南に縦断して走るザーグロス山脈と、テヘランのすぐ北に聳えるイランの最高峰ダマーヴァンド山(海抜5,671m)を抱えるアルボルズ山脈。イランは、このふたつの山脈によって気候風土が大きく分断されている。
高い山が存在するという事実は、それによって隔てられた地域同士の文化・習俗をも違ったものとして決定付ける。
実際、アルボルズ山脈によって生まれる差異は顕著だ。カスピ海からもたらされる湿った風が山脈によって遮られ、日本のような雨の多い気候を生み出している北部沿岸地方ではその気候もさることながら、放牧の牛が徘徊し、木造の軒の低い家屋が緑濃い田畑や茶畑の間から見え隠れする牧歌的な懐かしい光景が、イランに対する人々のイメージを見事に裏切る結果となっている。

私が住むテヘランは、カスピ海と平行して走るアルボルズ山脈の南側に位置する。テヘランのすぐ南には荒涼とした土漠の大地が横たわるが、ダマーヴァンド山の雪解け水の恩恵に預かるテヘランは、緑も多く水も豊富だ。
ダマーヴァンド山の麓には、小洒落たチャーイハーネが立ち並ぶエリアがあり、涼やかな水音を聞きながら、日がな水タバコの煙を燻らす人々の姿が見られる。
山の中腹には温泉保養施設も存在し、日本の温泉地さながら水質や効用を記したプレートが掲げられ、非常に簡素ながら宿泊設備を併設した温泉もある。決して観光地とは言えない場所だが、温泉好きの人は一度は訪れてみるのもいいかもしれない。

冬の間雪に固く閉ざされた山も、寒が緩み雪解け水を麓の街にもたらす季節、その稜線は野生のチューリップの赤い絨毯で覆われる。標高の高い山々の季節の変遷はダイナミックだ。その急激な冬から春への変化は、麓に住むテヘランの人々にも、なんとなくソワソワした昂揚感を呼び覚ます。普段、心の内をあまり見せることのないイラン人の内部に潜む情熱的な性質は、イランの気候風土の激しさを連想させる。

一方、酷寒の季節へ向かう今、ダマーヴァンドの山は雪帽子のサイズを日々大きくする。テヘランの市街地から汚れた空気を透かして望む峰は、夏場よりも幽玄さを増し、その神秘的な風貌は、現世をいくらか遠ざけているかのようにさえ見える。この山のシンメトリーな整った美しさゆえに、形の似た富士の山を、ダマーヴァンドと並べ愛でるイラン人も多い。

ペルシャ神話の世界で、黄金時代の王イマを殺害した悪魔アジ・ダハーカが、終末の時まで幽閉された場所とされるダマーヴァンド山。美しいながらもどこか禍々しいまでの高貴さを湛えたこの山が、「永遠の牢獄」として神話の世界で機能したのも自ずと頷ける。
ペルシャ神話に見られる
壮大な想像力は、時に人の命を奪う険しい山々が生み出す、情緒豊かな自然の賜物ではないだろうか。半ば雲に覆われたダマーヴァンドの頂を見上げ、ふとそう思う。(m)

*「十戒」の山(アラビア語)、神話と遺跡の山(ギリシャ語)、信仰の対象(日本語)の富士の山、聖書の山(トルコ語)。世界の山の頂を目指してまだまだ「散歩」は続きます。
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2008-11-01 16:01:52 | トルコ語

dağ(ダー)

トルコ東端に聳えるアララト山。アルメニア
との国境から32km、イランとの国境からはわずか16kmの場所にある標高5,137mの山(数値はwikipediaより借用)で、トルコ語ではアール(Ağrı)山、ペルシャ語ではアーラーラート(آرارات)山という名で呼ばれている。

アララト山と言えば、旧約聖書の「ノアの方舟」伝説で一躍有名になった。考古学的見地から、当地は大洪水の後方舟が流れ着いた場所と主張する人もいて、山頂ではグリーンピースにより方舟の模型建設も進行中。「トロイの木馬」に続き、トルコ観光の新たな目玉スポットとなる日も近いかもしれない。

現在トルコ領に属するアララト山であるが、アララトの麓には、トルコ人以外に古くからクルド人やアルメニア人も多く居住してきた。アルメニア正教を奉じるアルメニア人にとって、トルコ共和国領内となった現在もアララト山は聖なる山であり、同民族の象徴として、アルメニアの国章に図柄が採用されている。

かつてオスマン帝国がアナトリアの地を支配した後、彼の地に悲劇が訪れた。第一次世界大戦下でのアルメニア人追放と大虐殺だ。
カナダ国籍のアルメニア人映画監督アトム・エゴヤンによる作品『アララトの聖母』(2002年)では、実際の「虐殺」のシーンを収めた過去のフィルムが劇中画として絡められ、紛れもない事実である「アルメニアの悲劇」が静謐に描かれていた。アルメニア人が経験したジェノサイド(民族浄化)とディアスポラ(離散)という歴史上の痛みを、ただひたすらに淡々と叙情的に描いてみせた当作品は、静かに燃える炎を観る者の心の中に残した。

写真はアルメニア側から眺めたアララト山である。山頂のコブは左側の方が大きくなっている。トルコ側から見た時は、逆に、右側のコブが高い位置にくる。「コブ」のエピソードについては、沢木耕太郎氏の『深夜特急』でも、ソ連時代のスパイ映画『エスピオナージ』のストーリーを元に描かれていたのが印象的だった。

聖書の時代から、動乱の地の歴史を絶えず見守り続けてきた曰く付きの山。歴史の始まりの時から、高い峰を越え様々な民族が行き交い、文明がぶつかり合い揺らめいた地として、その伝説的な名を世界に轟かせる。しかし、その頂に雪を抱く崇高な様は、この世の憂いや争いとは無縁に、時が止まったかのような風景の中で、ただ静けさと美しさのみを湛えている。(m)


「十戒」の山(アラビア語)、神話と遺跡の山(ギリシャ語)、信仰の対象(日本語)の富士の山。世界の山の風景をお楽しみください。

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