地球散歩

地球は広いようで狭い。言葉は違うようで似ている。人生は長いようで短い。一度しかない人生面白おかしく歩いてしまおう。

2006-05-30 00:49:53 | アラビア語(エジプト)

  شاي(シャーイ)

 アラブ世界はまずお茶である。どこへ行っても「まあ、一杯」である。
 買い物しようと店を覗き込むと。
 バスを待っていると靴磨きのおじさんに。
 宿屋の前で、鍵を待っていると、番人が。
 
 
「まあ、一杯やらないか?」

 ありとあらゆる場所で聞かれる。社交辞令ではない。心からすすめているのだ。断るときは丁寧に断ろう。そして、断った人が見ているところで、ほかの人のすすめるお茶を飲んではいけない。

 「俺のは飲めなくて、あいつのは飲めるとはどういう了見だ!」
 
 お茶に限ったことではない。お食事の招待を受けるときも注意が必要だ。連日招待の嵐になることがあるからだ。もっとも、これが楽しめるようになったら、アラブから抜けることはできない。いい人ばかりではないので、声高にオススメはできないが、チャンスがあれば経験してもらいたいと思う。

 アラブ人がお茶を入れているのを見たことがあるだろうか?

 
「煮出して入れることくらい知っているわよ」

 
フッフッフ。確かに間違ってはいない。正式にはそうだ。しかし、その辺でおじさんが入れてくれるお茶や、家庭で入れるときは、そんなことはしないのだ。
 ある日のこと、私は友達の家の台所にいた。しゅんしゅんに沸いたお湯と、グラスを目の前に、友人は「スプーン何杯?」と聞くではないか!「砂糖は入れないよ」と返事したら「茶葉だよ!茶葉!」と言うではないか。そして、子どものグラスには少なめ。おばあさんは濃いめと、それぞれのグラスに茶葉を入れていくではないか!
 あとはお湯を注ぐだけ。ポットがなくてもお茶が入れられるのだと、妙に関心した。

 さて、次は正式なお茶の入れ方。
 小さなグラスから4、50cmも離した高いところから注ぐのだ。そうすると、グラスの中に泡が立つ。泡が立ったお茶が良いお茶。あれ?なんだか、御点前のようですな。なぜかと言えば、生活の知恵。アラブ諸国は砂漠が多い。砂漠ではほこりが立ちやすい。泡で舞い込んだごみをすくい取ってしまおうというわけだ。

 アラブでお茶と言えば紅茶が主流であるが、モロッコでは緑茶である。ただ共通している飲み方は、ミントと砂糖をたっぷりと入れること。どのくらい入れるかといえば、とけきらなかった砂糖が沈殿するほどだ。初めて飲んだ日本人は、たいてい衝撃を受ける。頭がキーンとしてしまう人もいる。
 灼熱のアラブ世界では、糖分と塩分の摂取は欠かせない。塩分は料理でカバーできる。しかし煮豆など、料理に砂糖を使う習慣のないアラブ人は、お菓子かお茶類で摂取するよりない。一番手軽に取れるのがお茶なのだ。
 こんなにも甘いお茶を飲んでいるから、アラブ人は太っているのだ!と思う人がいるかもしれない。エジプト人に聞いたところ、1日に5杯ぐらいが適当だそうだ。それ以下でもそれ以上でも体に悪いとの事。「私は毎日2リットル」と答えたら「飲みすぎよ!」と驚いていた。(この話は翌日、村中に知れ渡っていた。)

 写真の説明をしよう。
 
右上はスペインではまってから常備しているレモン入緑茶。
 エジプトでも健康ブームで緑茶がはやっている。10年前は「砂糖を入れて飲めるお茶は日本にないのか?」と聞かれ、お抹茶を行くたびに点てていたのがウソのようだ。今や
「砂糖を入れずに飲める緑茶は最高」と、同じ人のセリフとも思えない。

 上、真ん中はトワイニング。エジプト人はリプトン・イエローラベルが大好き。5星ホテルでもリプトン。煮出した紅茶よりも、ティバックの方が高級扱いである。煮出した紅茶が好きな私は「シャイ・マスリー、ミンファドラク」エジプト式紅茶をください)と言って、いつも聞き返される。「エ!?リプトンのほうがおいしいですよ…とんでもない話である。

 左上の一番大きい箱は、エジプトで一番有名な紅茶。「シャーイ・イル・アルーサ」(花嫁紅茶)花嫁の絵が目印。たくさん買うとティーカップやスプーン、スティックシュガー150個がおまけについてくることもある。

 下段はハーブティ。ここにはないが一番有名なのは、カルカデという、ハイビスカスの花茶。市場に行くと、赤い花が山盛りになっている。
 真ん中と右のものは「スキム」という健康飲料メーカーのお茶。いろんな症状にあったブレンドがある。中でもダイエットティのおまけには、ダイヤル式の理想体重が一目でわかる理想体重グラフがついている。日本のものよりも、標準体重が幅広いのは気のせいだろうか?

 このままだとどこまで続くかわかりませんので、この辺で…これぞ茶のみ話。ご一緒に「砂糖」の記事もお楽しみください。[a]

  ほっと一息、その前に↓ミンファドラク
 
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2006-05-23 10:21:47 | ギリシャ語
ψαρια(プサリア)

 海に囲まれたギリシャ、魚は料理に欠かせない食材である。家庭料理にもいろいろなレシピがあり、旅人や休日を海のそばで過ごすギリシャ人の為に港や海岸沿いには魚を食べさせてくれる店が軒を連ねる。それらは「プサロタベルナ・ψαροταβερνα」「ウゼリ・ουζερι(写真)」と呼ばれる。
 ギリシャ語で食堂は「タベルナ」、日本語の「食べるな」と同じ響きなのが面白い。プサロタベルナは読んで字の如し「魚の食堂」、ウゼリは魚料理の時にギリシャ人が好む地酒ウゾ(ブドウの絞りかすから作った蒸留酒)からきた名前。ウゾは以前「水」という記事で少し触れた、水を入れると白く濁る、甘い香りのする酒である。店によっては干したタコをつるしたり、氷の入ったショーケースに魚介類を並べたりして,いかにも魚専門店という雰囲気だ。

 料理は焼く、揚げる等のシンプルな調理法が多い。代表料理は小イワシ、小エビ、イカの揚げたもの。熱々が運ばれたところにギュッととレモンを搾って食す。ギリシャはレモンが豊富にとれるので贅沢に半割で皿に載っていることもしばしば。揚げ物が一気に爽やかな味となり、何度食べても飽きない定番料理である。タコは島ではよく干したものを炭火焼きにしてくれて、これまた絶品。焼いた魚にオリーブオイルとレモンのソースをかけて食べるのも美味しい。トマト味煮込みやパスタ料理などもある。
 意外なのは貝。ムール貝はあっても冷凍が多く、アサリはまず見かけない。島で蛤のような貝を出す店がたまにあるくらい。全体的に魚の種類は少な目で、値段も高め。これはギリシャの海にプランクトンが少ないせいだと聞いたことがある。だから海が美しいのだとも。

 プサロタベルナやウゼリは春から秋にかけて道路に大々的テーブル席を広げ、あるいは道路を挟んで港に面した場所や海岸では砂浜に店を増設する。寒い時期以外は戸外で食事をするのがギリシャ流。溢れる太陽の光、青い海の色や波音・・全てが食事の大切な要素となっている。この快適な空間は、食堂が空腹を満たすだけの場所ではないことを教えてくれる。仲間や家族と集い、食べ、飲み、笑い、喋る。長居も心配ご無用。いつも満席だった店のにぎやかさは今も私の感覚にハッキリと残っている。そして贅沢ではないけれど自然と人とつながった豊かな休日を心から楽しんでいる人達の姿が懐かしく思い出されるのだ。(さ)

 今日は魚用語特集。ギリシャに行ったらプサロタベルナへ!
γαυρο<ガブロ>小イワシ     τσιπυορα<ツィプラ>黒鯛
γαριδα <ガリーダ>エビ     καραμαρακια<カラマーリア>イカ
χταποδι <フタポーディ>タコ     μυδι<ミーディ>ムール貝
μπακαλιαρος<バカリアロス>タラ
τιγανιτο <ティガニト>揚げる     ψιτο<プシトー>焼く

いつもありがとう!Ευχαριστω!(エフハリスト)
訪ねて来てくれた皆さんと豊かなつながりを持ちたい『地球散歩』です。
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2006-05-17 03:16:01 | イタリア語
Te(テ)

 イタリアで一服といえばバールでのカプチーノやエスプレッソ。でも今日の話題は茶道、キリスト教との関連の話である。今年の1月にとても興味深い新聞記事があった。
 1984年12月に裏千家の千玄室氏が,昨年逝去されたローマ法王ヨハネ・パウロ二世に個人謁見された折りのこと。バチカンの聖アンセルモ教会のミサで献茶をされた氏は、ミサの過程で神父様が儀式に用いる容器を聖壇の上で清める動きに茶道の「袱紗(ふくさ)さばき」の所作を感じられたという。
 袱紗は茶道で茶器や茶杓などの道具を清めるのを主な用途とする布。袱紗さばきとは、その布を決まった手順で折りたたむ動作のことである。氏は「期せずして東西の文化が融合した」とその瞬間を表現された。
 自ら敬虔なキリスト教信者であり、それが独自の作風となっている小説家・三浦綾子氏の小説『利休とその妻たち』の中にも同じような見解があったことを記憶している。キリスト教の学校でミサを見て育ち、茶道を勉強していた私にとっては自分の身につけてきたものに意外な「つながり」があると解って大変驚いた。日本の伝統文化とキリスト教という一見、無関係なものが歴史の流れの中で触れ合っていたという不思議である。

 その歴史について千玄室氏は、キリスト教伝道者ジョアン・ロドリゲスの著書『日本教会史』から「武将のたしなみである茶道は日本で一番大事な文化であるから、利休に弟子入りし、お茶を通してキリスト教を広めたら良い」という記述に言及されている。つまり布教の地盤作りに茶道の世界に近づいてきた宣教師達がいたということである。
 また利休七高弟といわれる優れた弟子の5人が高山右近をはじめとするキリシタン大名であったという事実。いずれ厳しい禁令と弾圧が行われたキリスト教の歴史を考えると本当に短い期間の交わりといえる。しかし仏教、禅宗を背景にした茶道が時代の流れの中でキリスト教と深く関わったということは間違いないのである。

 先に述べた袱紗さばきや茶を点てるまでの手順は一見するととても複雑で覚えるのが大変そうに思えるようだが、実際に習ってみると全く無駄のない動きで合理的にさえ感じられる。茶道は手順ではなく「もてなしの心」。亭主と客が思い合い、尊敬しあう関係である。形ではなく精神。
 千玄室氏は「一碗からピースフルネス(平和)」をテーマに活動されている。謁見の際にローマ法王から「どうぞあなたの一碗のお茶で世界の人の平和を祈ってあげてください」というお言葉をかけられ、ロザリオをいただいたそうである。そんなところにもキリスト教の精神、ひいては宗派を超えた「人の生き方」につながる奥深さを垣間見ることができるような気がする。(さ)
(読売新聞 2006年1月25日 「時代の証言者」記事参照)


『地球散歩』は一年を迎えました。ゆっくりの更新にもかかわらず、いつも遊びに来てくださって本当にありがとうございます。
先日は『ブログ評論』というページにも取り上げていただきました。
これからもどうぞよろしくお願いいたします!
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2006-05-12 23:32:09 | 英語

 Sea(シー)

 人間はどこからやってきたのであろうか?
 その飽くなき探求は、考古学や宗教学、人類学、哲学…さまざまな見解に終わりはない。
 私は海。ご先祖様は海からやってきた。小さな母の海で生を受け、肉体はいずれ土にかえる…予定である。私は自分の遺灰を海にまきたいとは思わない。しかし、魂は間違いなく海にかえると信じている。言語学がそんな私に賛同してくれる。
 soul(魂)の語源はsea。soulの本来の意味は「海から出たもの」または「海に属するもの」という、ゲルマンの言葉から来ている。
 ゲルマン人は、海の波のイメージと、人間の意識、心のイメージを重ねたらしい。古代ゲルマン人の考えでは、「人間は辛い一生を送り、そして死に、やっと休息しようと思ったら再び子孫の中に生まれ出て、また辛い一生を送る…人間は海の波のごとく、少しも休むことができない」ということだったようだ。(参照:『英語の語源』渡辺昇一)
  しかし、己の還りたい海に簡単には還れない。愛すべき海、愛しいものは自分のものにしたい。人間はなんと強欲なものか。
 海洋国家であったスペイン、ポルトガルは、大西洋、太平洋、インド洋の領有を主張したのが、17世紀初頭。新興海洋国のイギリス、オランダは、海洋の自由を主張して反発した。
 オランダ人、グロティウスは『海洋自由論』を出版し、海は万人の使用に開放されていると主張した。イギリスは自らの立場に都合よく、領有を唱えたり、また自由を叫んだりした。
 現在海洋は、19世紀に制定された一般国際法により、国家に隣接する沿岸海と、概要に分けられ、外洋はすべての国の自由な使用に開放されている。もっとも、その境をめぐっての戦いは、とどまるところを知らない。
 境をめぐってのにらめっこ程度は目をつぶる。しかし、それをめぐっての武器を使った争いには意義を申す。
 そして、海や浜を意識せずに汚染していることをもっと知るべきである。
 海が黙っているのをいいことに、ごみで作った夢の島が本当に夢なのか?はかない夢ではないか考えてみるべきだ。
 美しい海、私たちが生まれた源。そう思えば、大事にできるはずである。また魂は還ってゆくのだ。海へ。
 どうせなら、美しい海に帰りたいではないか。[a]

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2006-05-05 23:14:30 | 英語

 tea(ティー)

 お茶はとても身近なものである。何か事があると言われるのは「まずはお茶を一杯」一息ついてからの意味。
 お茶はいつでもどこでも飲むけれど、どこの国でもお茶の時間は特別。温かいお茶に、ぽろっとこぼれる本音…
"read the tea leaves"は「未来を占う」の慣用表現。昔から、お茶やコーヒーで占いをしたのには、お茶の時間にその秘密があるに違いない。
 お茶が嫌いな人はあまりいない。一杯のお茶にはかええがたいものがある
"one's cup of tea"は「お気に入り」
 困り者なのは、茶漉しを通りぬける茶葉
"tea leaf"は 泥棒。それだけ、身近な存在なのか。これだけは勘弁願いたい。

  "tea"でイメージするのはもちろん紅茶であろう。16世紀に東インド会社がオランダに持ち込んだのは、なんと日本の緑茶。オランダからフランス、イギリスへと伝わったのも、なんとなく不思議。紅茶イコールイギリスという固定概念があるからだろう。
 元々コーヒーが主流であったイギリス。紅茶がもたらされた当初は、頭痛や胃弱などに効く、薬として飲まれていた。
 イギリスといえば、ミルクティ。それまで薬と考えられていた紅茶は、ストレートで飲むのが当たり前であった。しかし、ポルトガルがら、チャールズⅡ世のもとにキャサリン妃がお輿入れした際、砂糖を入れて飲むことを教えた。そこに、ミルクを入れて飲むミルクティが生まれた。
 「お茶には砂糖とミルク」これがイギリス流となったわけだが、18世紀のイギリスでは緑茶ブームが起きる。飲み方に度肝を抜かれる。なんと緑茶に、ミルクと砂糖を入れていたという。イギリス流?[a]
 
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