『みちしるべ』 by 阪神間道路問題ネットワーク

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『みちしるべ』マー坊との思い出**<2008.1. Vol.50>

2008年01月08日 | 神崎敏則

少年の日の、いまだに痛みを伴う、そして鉛のように重くて暗い出来事
マー坊との思い出

みちと環境の会 神崎敏則

 20代の後半頃、業務で淡路島を年に4、5回ほど訪れていました。日差しの厳しいある夏の日に洲本港に降りると、潮の香りと磯の匂いが嗅覚を刺激しました。自然に胸が大きく空気を吸い込んで、なぜだか解放感すら感じていました。ちょうど乾燥ワカメが水に浸されて元のワカメに戻って、瑞々(みずみず)しさを取り戻しているような感じでしようか。「この感覚は、確か中学の頃に感じたのものと同じだ」ととっさに思いました。

 中学生まで五島列島の小さな島で過ごした日々は、大げさに言えば、周囲からの圧迫感なんて感じたことが無かったような毎日でした。とは言っても、ノビノビ過ごしていたと表現するには語弊があります。

 小学生低学年ごろ、朝食の時にご飯を口の中に入れたまま、柱の年輪と節の模様に気を取られてぼんやりしていると、「また口ば開けたまま動かさんとボーっとしとっと」と母親からよく叱られていました。言い訳をすると、たぶん子供のころから、そして今も睡眠障害の傾向があったのだと、自分で勝手に思っています。学校の授業中でもいつもボーっとしたままでした。低学年のころの通知表には2と3しか並んでいませんでした。

 高学年になるにつれて、算数と理科くらいは4になっていましたが、勉強は嫌いでした。中学に入って、数学が得意科目だと自分でも思っていましたが、予習や復習どころか試験前の勉強もした記憶がありません。授業をきいていれば、だいたいそれでどうにかなっていました。英語も同じように家で全く勉強しない分、こちらはしっかりと成績に反映していました。それでも勉強しようなんて思ったことはありませんでした。

 中学3年になると、父親が、長崎市内の公立高校を受けることを強く勧めだしました。父方も母方も、少なくないいとこは、長崎市内の公立高校に行き国立大学に進んでいました。でも、彼ら彼女らはもともと子供の頃から成績が良かったのですから、僕とは全然違うのです。うちの父親はとんでもないことを言い出すもんだと思っていました。結局は最後まで拒否し続けることができなくて、高校受験の勉強を始めることになりました。それても、もともと勉強が嫌いでしたから、30分も勉強すると気分がむしゃくしやしてしまい、誰もいない海岸まで自転車で10分ほど走って、磯の大きな岩の上に寝そべって、大きく深呼吸していました。そうすると気分がとても落ち着くのです。洲本港で感じた解放感のようなものは、この時の心境と似ていたのかもしれません。子供の頃のいろんな思い出は、そのほとんどがぼんやりとしている少年の出来事です。でも、そんな子供の頃の思い出の中に、いまだに痛みを伴う、そして鉛のように重くて暗い出来事があります。

 僕が生まれたのは、五島列島の中程にある奈留島と言う小さな島です。父はイカを仕入れてスルメイカを作るのが生業でした。僕が小学校にあがる前に、五島列島の中では一番大きな島の福江に引っ越し、自宅で削り節を作っていました。それで生活は成り立っていたそうですが、借金を返済するには利益が薄く、福江の海岸近くに引っ越して、またスルメイカを作る仕事を始めました。その2度目の引っ越しの直後に小学校に入学したと思います。

 小学校では知り合いが誰もいないので心細く、同じクラスの朝子と夕子という双子の女の子といつも一緒にいました。学校からの帰り道の途中に朝子とタ子の家がありましたので、自然と一緒に帰るのです。朝子が学校帰りに歯医者に行く日は、夕子も歯医者について行くのですが、なぜだか僕も一緒でした。小学校と家との間には城跡があり、その城跡の門から入って中を通って帰る日も、城跡の周囲を迂回するようにして帰る日もなぜだか3人一緒でした。

 自宅の近所には同級生が一人だけいました。それがマー坊です。マー坊とは直ぐに友だちになりました。学校が休みの日には、近所の1~2歳離れた子供たちが集まって遊んでいました。冬休みは遊びの種類が増えます。凧(たこ)揚げや、独楽(こま)まわし、銀玉鉄砲遊びなどは冬休みの遊びの定番のようなものでした。

 独楽まわしでは、最初に全員が一斉に独楽を回し始め、こけた順に負けになります。最初に負けると、次の勝負では一番最初に独楽を回さなくてはなりません。そこからはい上がって順番を上げていけば良いのですが、ボーとしている僕はいつまでたっても順番を上げることができません。困り果てた僕を見かねてマー坊が僕の代わりに独楽を回して、僕のために順番を上げてくれることがしばしばありました。マー坊と僕は一番の仲良しでした。

 ある時、近所の子供たちで爆竹遊びをしていると、正ちゃんの父親が、マー坊の家に爆竹を投げてこい、とけしかけました。正ちゃんの家は、マー坊の向かいでお店屋さんを営んでいました。「朝鮮人の家の中にさ、投げてこんね」と言われて、正ちゃんとその兄は、マー坊の家の玄関の引き戸を開けて爆竹を放り投げては走って逃げ、また家の前に戻るのです。それを何度か楽しそうに繰り返していました。そんなときには僕はその遊びの輪に入りませんでした。僕は父から「マー坊は良か子たいね」と聞かされていましたし、それがどういう意味か何となく分かっていました。マー坊は一番の友だちだと自分でも思ってしました。

 おもてで遊ばない日は、マー坊の家でよくテレビを見ていました。

 それは、小学2年か3年の夏休みのことでした。近所に材木置き場がありました。小さな入り江の向こう岸とこちら岸に関を渡して、その内側で丸太を海水に浮かべて保存している場所です。ここで近所の子供たちが集まって鬼ごっこをしていました。海水に浮かんでいる丸太の上を走り回る遊びは、失敗すると海に落ちることもあり、スリル満点なのです。日が傾くのが遅い季節です。夕方になるまでそこで遊んで、遊び疲れ、もうぽちぼち帰る時刻になり、一緒に遊んでいる中の一人が「朝鮮ジ~ン」とはやしたて始めました。

 なぜだか覚えていません。そのとき僕も一緒になって「朝鮮ジ~ン」と差別に加わりました。なぜそんなことをしたのか、そのときの心境を思もい出すことができません。ともかく僕はマー坊に向かって2回も「朝鮮ジ~ン」と大きな声で叫びました。たまたまマー坊の2歳上の姉が家に帰るようにマー坊を連れにきていて、その姉の表情が一転しました。「もうトシ坊のようなあんな子と一緒に遊ばんて良か」と怒っていました。そのときのマー坊の表情は覚えていません。無表情だったような気もしますが、定かではありません。

 翌日、僕はいつものようにマー坊の家に遊びに行きました。マー坊は何も言いませんでした。話しかけても返事をしませんでした。それでもマー坊の家の畳の部屋で、二人ともごろ寝のような体勢になってテレビを見ていました。マー坊はしばらく話をしてくれませんでした。1~2時間もたってようやく話をし始めました。どんな話だったのか、まったく覚えていません。たぶんテレビ番組についての、そのときの二人にとってはどうでも良い会話だったと想像しています。その日のうちに、また二人でおもてに出て一緒に遊んでいました。近所の年長のある子供は、「マー坊とトシ坊は、絶対けんかばせんとね」と感心するように言っていました。

 小学4年の3月に、僕の父は、生まれ故郷の奈留島に戻ってスルメ製造の事業を拡大することを決めて、引越しすることになりました。父は荷物と一緒に運搬船に乗って先に出航してました。僕は、母や妹と一緒に小さな客船に乗っていました。客船が桟橋から離れる寸前に、マー坊が駆けつけてきて、船のデッキにいる僕に落花生の入ったビニール袋を投げました。「げんきにすっとよう一」と言って手を大きく振っていました。

 僕の心の痛みの理由は三つあります。一つは、マー坊にちゃんと謝らなかったことです。ひょっとしたらマー坊は僕を許してくれていたのかもしれません。でも自分がおこなった過ちをきちんと謝ることが最低限の責務なのに、それがいまだにできていないことです。

 二つ目は、自分が何をしたのかをしっかりと受け止めてこなかったことです。あの時僕は差別をしたんだと、はっきりと自覚したのは、大学に入って開放講座を学んだのがはじめてでした(言い訳をするつもりはありませんが、長崎では、同和教育がありませんでした)。18歳になるまで、自分がやったことをなんとなくやり過ごしていたのです。

 三つ目は、18歳で自分がおこなった差別をやっと自覚し始めたのに、それ以降も、差別をしたという自分にしか考えが至らなかったことです。僕から差別された、あの時のマー坊の思いはどのようなものだったのか、これまで想像することもありませんでした。この文章を書く為に、この一月ほど当時のことを振り返って考え続けていて、はじめてマー坊の思いを考えるようになりました。

 あの材木置き場の夕焼けをマー坊はどんな思いで見ていたのでしようか。マー坊には残酷な夕焼けに映っていたのかもしれません。

 僕にとって差別とは、自分の内側にあるものです。何かをきっかけにして人を差別する側に流されてしまうかもしれない、という不安定さを今も抱えています。普段は、決して差別をしないと決めているのですが、自分の内側の弱さが差別する側になる危険性を今でもはらんでいるのだと思います。

 自分の内側にある差別の構造は、簡単には克服できません。克服できるほど、僕は立派な人間ではありません。でも、少なくとも、同じような過ちを犯さないために、このマー坊との思い出をこれからもしっかりと抱えていこうと思います。意識の前面にはなくても、自分の心の奥底に置いて、これからもマー坊との思い出に向き合って生きていこうと思います。それが、自分のこれからの行き方の指針の一つだと思うのです。

 心の奥底にあるものを意識するときは、本当に痛みを伴います。この1ケ月ほど、当時を思い出すたびに、気分がひどく落ち込みました。

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